
(乃至 政彦:歴史家) 上杉謙信の死因は「厠で脳卒中に倒れて、意識を失い、遺言を残す余裕すらなく亡くなった」というのが通説である。しかし史料を見る限り、とてもそのような死に方をしたようには思われない。その病状は腹痛で、倒れた場所も書斎であるように読めるのである。謙信の越山の真相に迫った『謙信越山』を発売する著者が、謙信の死因を解明する(JBpress)
【写真】読める?謙信の「死因」について書かれた当時の貴重な資料
■ 上杉謙信の死因について
天正6年(1578)3月9日の正午頃、上杉謙信が昏倒した。
「三月九日ノ午刻、管領(謙信)卒中風(脳卒中)煩セ玉イ、忽(
たちまち
)
困倒(昏倒)シテ人事ヲ顧ミ玉ハス。御一族ヲ始メ、諸将群臣以下、驚動スル事、限リナシ」(『謙信公御年譜』) この4日後、謙信は病没することになる。
ところで謙信病没の経緯は、次のように言われることが多い。
──冬の寒い朝に、厠へ出向いた謙信は、急に脳卒中となり、そこで気絶したまま、永遠に帰らぬ人になった。
謙信が厠で脳卒中に倒れて、意識を失い、遺言を残す余裕すらなく亡くなったという解釈である。しかし良質(同時代またはそれに近い時期)の史料を見る限り、とてもそのような死に方をしたようには思われない。その病状は腹痛で、倒れた場所も書斎であるように読めるのである。 本稿では、謙信の病没に関する通説の成り立ちと、当時の史料の内容を見ていきたい。
■ 「閑所」で倒れた謙信
謙信の死因が厠とされているのは、武田方の軍記『甲陽軍鑑』[品第44]に「寅の三月九日に謙信閑所にて煩出し、五日煩い」と記されていて、この「閑所」を江戸時代の軍学者・宇佐美定祐が「閑所」を「厠」の意味で読み取って著述したことで、拡散されることになったためである。
しかし「閑所」は、「厠」だけでなく、「静かな空間」や「私室」の意味でも使われる。たとえば『政宗記』によると、伊達政宗は朝食と夕食のあと、いつも決まって「閑所」に籠り、その日の予定を整理していたという。この「閑所」は「厠」ではなく「私室」と解する方が適切だろう。さらに言えば書斎の意味に読み取れる。そこには筆記具も揃えて置いてあった。このように政宗の「閑所」が私室であれば、謙信が倒れたところもまた書斎であったのかもしれない。
■ 「卒中風」または「虫気」で倒れた謙信
先述した上杉家の公式記録『謙信公御年譜』には、謙信が倒れた原因は、「卒中風」と記されている。「卒中とあるから、脳溢血だろう」と思えるが、この記録は謙信が亡くなって100年以上あとに書かれたものであることに注意したい。
同時代の史料を見ると、これと異なる病状を書かれているのだ。
謙信の家督を継いだという上杉景勝の書状で、そこには「不慮の虫気」と書いてある。
その原文と現代語訳を一緒に見てみよう。
【原文】態用一書候、爰元之儀、可心元候、去十三日謙信不慮之虫気、不被執直遠行、力落令察候、因玆遺言之由候而、実城へ可移之由、各強而理候条、任其意候、然而信・関諸境無異儀候、可心易候、扨又吾分事、謙信在世中別而懇意、不可有忘失儀、肝要候、当代取分可加意之条、其心得尤ニ候、猶喜四郎可申候(吉江信景)、穴賢々々、 追啓、謙信為遺言、刀一腰[次吉作]秘蔵尤候、以上、
三月廿四日 景勝(花押)
小嶋六郎左衛門(職鎮) とのへ
【現代語訳】ここでは一つ書きの手紙に記します。わたしは不安な状況になりました。さる3月13日に謙信が「不慮の虫気」で倒れて、回復することなく亡くなってしまいました。苦衷をお察しください。これにより遺言通り、本丸(実城)へ移るべきだと皆さんが強く説くので、その気持ちに応じることにしました。それから関東や信濃の境目からの異論は何もなかったので、ご安心ください。さてまた、あなた自身も謙信から特別目をかけられていたことを忘れず、わたしの代においても、より一層、厚意にするつもりでいるのを、よく心得ていてください。なお、吉江信景から詳細をお伝えいたします。あなかしこ、あなかしこ。 追伸:謙信からの遺言で、次吉の刀を一腰お贈りいたします。秘蔵するべきでしょう。以上です。
3月24日 景勝(花押)
小嶋職鎮とのへ
これを見ると、謙信の病気が脳卒中か、そうでないかを判断することができる。まず「不慮の虫気」だが、中世において「虫気」とは、基本的に腹痛の意味で使われている。たとえば、これから13年後、島津義久が近衛前久に宛てた書状案(島津家文書。天正19年[1591]閏正月10日付)に、京都から薩摩へ船で戻る道中のくだりが記されており、ここに「海上寒風無為方故候哉、従中途中虫気出合、于今迷惑之式候、」と書かれている。この時期、義久が脳卒中になった形跡はなく、その後も約20年ほど元気に過ごしている。すると、この「虫気」は、腹痛の意味で読むのが妥当であろう。
また、武田信玄が近習の「弥七郎」に夜伽をさせなかったと説明する起請文にも、その理由について、源七郎が「虫気之由申候間(虫気だと言っていたから)」と述べており、やはりこれも腹痛以外の意味には読み取れない。もし仮に弥七郎が脳卒中なら、自己申告がなくても見ればわかることなので、「虫気之由申候間」ではなく、「虫気之由ニ候間(虫気の様子だったから)」と書かれただろう。この「虫気」もまた、腹痛の意味で読むのが適切なのである。
■ 遺言を残した謙信
さて、上杉景勝は謙信の「遺言」により、本丸へ移転したと述べているが、これがもし脳卒中から回復することなく亡くなったのなら、そのような状態で遺言を残せるはずもなく、捏造の疑いが色濃くなってしまう。だがこれを他例の通りに腹痛と読めば、この問題は解消される。特に謙信は小嶋職鎮を指名して、「次吉」の刀を形見として授けることを言い残した。
死期を悟った謙信は、腹痛に苦しみながら、側近たちを相手に「景勝を本丸に入れて、おのおの補佐すること」と伝え、また景勝のいる場で「次吉の刀を小嶋に与えるように」と言い残したのだろう。
■ 変容する謙信の死因
謙信は後継体制や形見分けの遺言だけでなく、辞世の言葉も残している。近世初期の『甲陽軍鑑』[品第44]に、「謙信公四十九歳にて他界なり、辞世に詩を作り給ふ[追相尋可書之者乎]」とある。同書は元和7年(1621)までに成立したものだが、この時代はまだ、病気に倒れた謙信が辞世を詠めるほど意識がしっかりしていたと認識されていたことがわかる。少なくとも脳卒中で倒れたとは考えられていなかったのだろう。
同書の影響を受けた宇佐美系の『北越軍記』は、「三月九日、[一説ニ十一日ニ厠ヨリ腹痛ヲ煩出]書ヨリ、謙信卒中風ヲ被煩著、」と伝えており、「書」(書斎)で「卒中風」、または「厠」で「腹痛」になったという2つの説を記している。このうちイメージしやすい「厠で脳卒中に倒れた」という内容が諸書に採用されることになったのである。
以上、謙信の倒れた場所と病状を再考してみた。書斎で急性腹痛(腹膜炎ヵ)に倒れた謙信は、ただならぬ苦痛のなかで死期を察し、辞世の詩を詠みあげ、形見分けを行い、近しい人々に景勝を本丸に入らせるよう後継体制を言い残して、ほどなく帰らぬ人となった。
それが今や伝言ゲームのように紆余曲折を経て、現在の通説を形作り、さらには「謙信は脳卒中で亡くなったので、遺言を残しているはずがない」という史料にない奇説まで生み出されることになったのである。
jbpress2021年2月25日閲覧