父を訪ねて三千里 | ゲームと料理と趣味の話

ゲームと料理と趣味の話

すごい語りたくなったら更新されるブログ。

 某雑誌エッセー大賞に二作品送ったけど、今年は最終選考に残れなかったので、こっちで公開。の一作品目。

 

ーーーーーー

「父を訪ねて三千里」

 

 きっかけは国内航空割引券を手に入れたことだった。
 さて、どこに行こうかと思案したところ、せっかくだから海を越えてみようと考えた。
「行くなら小倉競馬場だな」
 亡くなった父はJRAの職員だった。
 土日に働く職種と、父の性格もあって、親子の繋がりは薄かった。亡くなった後、競馬がなくなる家庭環境に寂しさを感じ、競馬を本格的に見始めたのはその反動だった。
 父は何を考えて働いていたのか、競馬って何だろうと知りたくて、府中や中山、さらには地方の大井や船橋に足を運び始めていた。これは良い機会だ、一気に小倉まで飛んでみようと思った。
 実家に帰った折に、母にそのことを告げた。
「今度小倉競馬場を見てくるよ。親父は行ったことないと思うけど」
 父が勤務した競馬場は中央四場以外は新潟だけと思っていた。
「何言ってるの。京都時代は出張で何度も行ってるわよ。馬場造園課の課長さんは中央で開催がないときはローカルに出張なのよ」
 知らなかった。どうりでずっと家にいないはずだ。そこまで全然親父のことを知らなかったし、そこで初めて知ることがこんなにもあるとは。
 今年、全国の競馬場を見て回ろう。中央だけでなく、地方も全部回ってみよう。そう決意した瞬間だった。
 平成二十八年、私は全国の中央、地方競馬場を都合三十三回訪ね、総移動距離は一万二千㎞を越えた。父を、競馬場を訪ねて、三千里。それをここに記す。

 

小倉競馬場
平成二十八年二月二十七・二十八日
 小倉駅からモノレールで十分ほどの競馬場前駅に降り立つ。
 改札を出て左へ曲がり、競馬場への入り口をくぐると、即競馬場入場口で、そこには小倉開催を待ちわびていた熱心なファンが開場を待っていた。
 開場時間が近くなると、JRA職員であろう年かさのスーツの男性が出てきて注意喚起する。
「慌てず、走らないようお願いします。慌てなくてもJRAの馬券は外れなしですよ!」
 そういって笑いを誘って和ませていた。父も出張の時は、こういう仕事をしてたのかなと思う。
 コンパクトでも綺麗にされてる小倉競馬場に感心しつつ、肝心の競馬はというと、小倉に来てるが、阪神の阪急杯を勝負レースにし、5番人気ブラヴィッシモの妙味を取って単複を大きく握っていた


 レースはミッキーアイルが完全にハナを切って押し切り、ゴール前では垂れたブラヴィッシモに3番人気ミッキーラブソング、13番人気サドンストームが襲い掛かって、三着争いの判定へ!
 その時は馬券売り場のモニターで見守っていたが、目の前で「サドンストーム!サドンストーム!」と白熱していた男性がおり、ゴール後くるりと振り向いて「入ったよね!?入ったよね!?」と同意を求めてきた。
 こちらとしては入っていては困るので非常に複雑な表情で「いやぁ、どうですかね……」と答えるのみ。
 長い判定の末、三着ブラヴィッシモが点灯してほっと胸を撫で下ろし、サドンストームの男性が肩をがっくり落とした姿を視界の端に置いた。

 

阪神競馬場
平成二十八年三月五・六日
 父の阪神競馬場勤務時代に私は生まれ、競馬場の東、道路一本隔てた社宅に生後半年ぐらいまで暮らしていた。
 幼すぎて記憶がないが、ネットで見られる航空写真や路上写真地図を母に見せてあげると
「あら、社宅の門新しくしたのね。昔はここに芝生があったんだけど、ほら、あんたが写ってるこの写真のとこよ。私たちが住んでた家屋は今取り壊されて、ないみたいね」
 と、懐かしそうに話をしてくれた。三コーナーと四コーナーのちょうど中間地点、その向こう側を眺めながら、「あそこに自分が住んでたのかぁ」と想いを馳せる。
 阪神競馬場で見てた中山の弥生賞。その年の牡馬はマカヒキと公言していたので、単勝と流しのワイドを買ってモニターを見守る。
 強敵が揃った中、見事差し切ったマカヒキに感動。これをすぐツイートしようとスマホを操作するために視線を落としてると、周囲がどよめく音で頭を上げさせられた。そこには弥生賞の配当「三連

複190円、3連単830円」の表示が。あまりにも三強が強すぎて、配当が安すぎて、その場の全員から笑い声が出ていた。
 
中京競馬場
平成二十八年三月二十七日
「高松宮杯を見よう!」
 急に思い立って、深夜バスを手配し、友人たちと飲んだ帰りに、そのまま中京競馬場へと旅立った。
「中京は駅から競馬場までの坂がいつまでも続いてつらいんだよ」
 あまり肉体的には丈夫な方ではない父は、そう母にぼやいていたそうだ。実際上ってみると父とは反対に健脚の部類の自分でも「ちょっと長いなぁ」とぼやいたほど。
「ローカルG1だから、中央より人は少ないだろう」
 と舐めてたが、当然そんなことはなく、現地合流した知人と二人で、ターフビジョンすらも見えないほど、人間の壁で遮られたゴール正面で「どうなった!?どうなった!?」と騒ぐだけ。
 しばらくすると結果が表示され、人間の壁もばらけたので、自分のアルビアーノからの馬券は見事的中していたことを知った。

 

福島競馬場
平成二十八年四月十六・十七日
 かつて父の兄が福島にいたことから、父の福島出張に合わせ、母も福島へ行き、仕事が終わったタイミングで合流して、兄のもとに挨拶に行っていたらしい。当時駅前には大きな百貨店があったという母の記憶は今でもある中合百貨店のことだろうか。
 福島競馬場は中央の中で一番、地方と比べても断然、直線前の芝が客席から近い位置関係にあるようにみえる。
 その為、障害レースでは飛越していく様が目の前に見え、「障害を見るなら福島か」と思わせた。

 

水沢競馬場
平成二十八年四月十八日
 父の生まれはここ岩手水沢。
 競馬は朝一のレースで断然人気の馬がゲートイン直前で除外とアナウンスされ、よし!水沢やるぞ!と意気込んで買った馬券を握っていたので「ええ~!」と叫んでしまった。返還なので損はしなかったが。
 競馬以外に水沢をかなり歩いた。
 父が生まれてJRAに就職するまで過ごしたこの地。今でこそ新幹線は通ってるが、当時は舗装道路もなかったろうし、国鉄がかろうじて通ってるぐらいだったんだろうか。この道を通って、上野まで

の列車に乗ったかな、などと思いながら、ぐるぐると見て回る。
 「死ぬまでにもう一回食べたい」と盛んに言っていた父の大好物の醤油団子があり、子供の頃に一回だけ連れて行かれたその店を何とか探り当て、買って帰り、仏壇に供えた。

 

門別競馬場
平成二十八年四月二十日
 私が高校生の頃は、父は日高に単身赴任をしていた。月一だけ帰っては来ていたが、私の年頃もあってその日はあまり気が晴れない日だったのが正直なところだった。
「こういうところで働いていたんだなぁ」
 開催初日の門別競馬場に向かう途中、便利すぎる東京に比べると全く違う環境を見て、単身赴任で仕事をしていた父を思うと、子供の時の気持ちは申し訳なく感じた。
 門別は小さいながらもとても綺麗に作られ、馬産関係者が開幕を待ってましたとばかりにジンギスカンをしながら競馬を楽しんでいた。私も馬券を上々に取ることができて、気分よく飲み食いし、さ

さやかながらも競馬ができる喜びを噛みしめた。

 

札幌競馬場
平成二十八年四月二十三・二十四日
 北海道には出張なり、単身赴任なりで、かなりの頻度で父は訪れていたようだが、私個人としては、他の場所と比べれば中々来ることはないと思ったので、土曜はウインズ、日曜は競馬場へと向かった。
 ウインズはどこと比べても大差のない古臭さがあったが、競馬場は適度に光が抜ける明るい作り。

直線へ向いた一人掛けシートが充実してて、無料なのに有料席のような優越感。
 開催がなかった日だったので他場の競馬をしていたが、中京現地でパドックを見て状態がすごくよく、14番人気でも買ったら四着がっくり、というブライティアレディが京都で出走してるのを見つ

ける。これはと単勝を信じると3番人気で見事一着。競馬を続けていると繋がっていくもんだなぁと感心した。

 

新潟競馬場
平成二十八七月三十・三十一日
 私の人生の記憶の始めは新潟競馬場時代からである。おぼろげながら当時住んでいた社宅と一年半通った近くの幼稚園の様相を覚えているが、

「社宅は競馬場内にあったのよ」
 と、母から聞かされて驚いた。地図を見せながら色々聞いてみると、母の記憶も定かではないが、どうも現在の芝千四のポケットスタート地点に改修前は社宅があったらしい。
「社宅敷地とコースの間に門があって、カギはパパが管理してたんだけど、忘れ物したときに、『門のところまで持ってきてくれ』って言われて、門越しに渡したこともある」
「あんたを抱っこして目の前の道路で車を見せると喜んでね」
 新潟駅から乗ったバスはまさにその道、ポケットスタートの横を通って入場口へ回っていく。かよっていた幼稚園も遠くに見え、少ないが懐かしい記憶が蘇える。
 第9レース閃光特別の少し前に、父の弟で競馬が好きな叔父が亡くなったと母から連絡が入る。父の葬式の時はまだ元気に見えたので急な話だった。
 パドックでよく見えたのは9番人気の「ワラッチャオ」。ここは悲しむでなく、笑えばいいのかと単勝だけを買った。
 新潟名物直千レース。1番人気のアースエンジェルとの叩き合いに惜しくも負けてワラッチャオは二着。「外れても、ワラッチャオか」と不思議に納得した。

 

 新潟から飛んで帰って青森の叔父の葬式に出席。精進落としの時に、叔母が「毎年函館競馬に行くと、お父さんが色々融通してくれてね」と話しかけられる。
「終わった後もいろいろ飲みに連れて行ってくれて。すごいカラオケがお上手なのよ。知らなかったでしょう」
 まさか、あの難しい顔でずっと家にいる父が、ニコニコ顔でカラオケを歌って、しかも歌が上手いなんて思いもしない。最大限の衝撃で、持っていたビールのグラスの手が止まってしまった。

 

東京競馬場
平成二十八年十月三十日
 府中が一番なじみの深い競馬場だ。過ごした時間も長ければ、父に連れられて事務所から場内まで隅々行った、一番父を感じる競馬場でもある。
 当時からはスタンドが一新され、がらりと変わったところもあるが、エプソム遊歩道や日吉ヶ丘の遊具など、変わらないところもある。
「これからの競馬場には子供たち向け施設が必要といって、設置したのはパパ達なのよ」と母は言っているが、どこまで本当かは知らない。
 ただ、嘱託も辞退し、完全に退職した後、珍しく競馬中継にチャンネルを合わせていた父が、府中の映るテレビを見ながら
「ああ、向こう正面の木は抜いちゃったのかな……。本当は都会の中にあって、出てくる、緑の競馬場を作りたかったんだよ」
 と、聞かせるでもなく、つぶやいたことを覚えている。
 この日は競馬に興味があるという初心者の友人たちを連れて天皇賞を見に来た。
 馬券は、前走本命にしていたステファノスと、断然人気のモーリスも含め、一、三、四着までの三連複を持っていたが、二着リアルスティールだけがないという痛恨の結果。
 それでも、友人たちに素晴らしい内容のG1を見せられてよかったかなと納得させた。

 

京都競馬場
平成二十八年十一月二十六・二十七日
 京都競馬場は小学校がすぐ隣で、課外授業などでも緑の広場をよく利用したことから、よく覚えている。
 非常に立派になった淀駅から、専用高架通路を通って競馬場へ。
 父が京都競馬場勤務中、スポーツ新聞のインタビューで競馬場の整備に関して語ったことがあり、遺品整理時に、大事にしまわれていた、その切り抜き記事を興味深く読んだものだ。
 この日、京都は大雨でダートでは水しぶきも上がるほど。メインは京阪杯、ネロが逃げ切ったが、私は三着争いのフミノムーン、アースソニックのワイドだった。「三着、四着では」と悔しがり、同

着と表示されたときは「助かった!」と気分が上がり、払戻機に通した時に「三着同着同士のワイドは払戻なし」と説明されて、こちらの心情は説明しきれない、複雑な気分になった。
 ただ、モニターで見てたジャパンカップはキタサンブラックを信じて、三連複を仕留めていたので収支はプラス。名手武豊の絶妙な騎乗で、キタサンブラックが押し切ったときは京都の屋内スタンド

では拍手が起こったほどだった。

 

中山競馬場
平成二十八年十二月三日
 毎年友人達と一緒にステイヤーズステークスを見に中山へ行く。
 きっかけは父が死んで遺品を整理してると、封筒に入ったJRAの招待券が二十枚ほど出てきたことだった。長年の友人で競馬好きの人間に使い道を相談したところ、「日本で一番長い距離を走るレースがある」と切り出された。忘年会代わりに皆で集まろう、十二月も半ばを過ぎると色々忙しい、そうなるとこの第1週というのは都合がよい。ということで毎年このレースに集まるようになった。
 中山競馬場の近くにかつて父の姉が住んでおり、「中山のお姉さん」と我が家では呼ばれていたのだが、中山競馬場自体は船橋市にあり、伯母が住んでいたところもかつての中山村や現在の中山町ではなかったので、一般的には「船橋の」と呼ぶのが普通だろう。それを「中山の」と呼ぶのが、いかにも競馬の家庭らしいことに気が付いた。
 レースは、断然人気のアルバートが直線向いてファタモルガーナに少し離されてる形。アルバートの頭の馬券しか持ってない友人が「アルバートおおおお!」と力強く叫んで、ゴール前で差し切って

勝利。なんとか全員馬券を取って胸を撫で下ろした。

 

函館競馬場
 中央競馬全十場、地方競馬全十五場、休止している姫路を除けば、実は一か所だけ行かなかった場所がある。それが函館競馬場。開催のなかった札幌と併せて、この二つは改めて開催日に行きたいと思っているが、ただ、函館競馬場の前を通ったことだけはある。
 それは父が亡くなる一年前。父は毎年の函館開催には現地を訪れていた。
 ところが、その年は日曜の競馬が終わって、帰るために函館空港で乗った、その機内で倒れ、意識半ばで近くの病院に搬送された。
 報を受けて、手配できた飛行機は月曜の午前便だった。母を連れて、羽田を飛び立ち、函館空港でタクシーを捕まえ、函館競馬場の横を通って、病院へ急ぐ。
 病院に着いた後、3時間近く待たされ、覚悟をして通された病室には
「いやぁ、申し訳ない」
 と、気恥ずかしそうに頭をかく父の姿があった。
 本人の強い意志と、医師も渋々認めたため、その場で退院をし、病院からタクシーに乗って空港へとんぼ返りする。
 車中、父がやけに饒舌になって運転手と函館観光知識を競っているのは、大丈夫だとアピールするためなのか、息子にわざわざ仕事を休ませて来させたことが恥ずかしかったのか、どっちもかなと見守りながら、また函館競馬場の横を通り過ぎて、空港へ向かった。