日本国憲法は 法の支配(英米法) | xyavのくしゃくしゃブログ

日本国憲法は 法の支配(英米法)

法治主義 と言う言葉があります。


議員を選び、議会で法律を定め、その決めた法律によって政治を行うという、この法治主義で民主主義を実現しましょう、という事だったと思います。


法律と言う文章に書きますので成文法、そして大陸法体系という事になるかと思います。


一方、そうは言っても権力は堕落するから監視しなければならず、人権や国民主権などの基本的な部分については国家に制限をかけておく、というのが後から出てきた法の支配、より正義の理想に近づけたモノでした。


英米法体系でしょうか。


では、もし制限が利かずに国民の権利が侵されたときにはどのように回復すればいいか。


これは革命権でしょう。


そのような不当な政府は転覆させなければならず、これは国民の権利だと言う訳ですが、では具体的にはどのように実現できるでしょうか。


そうして起こされたのが市民革命、市民の側に正義がある、という裏付けがなされました。


しかし丸腰では無理がありそうです。


そこで米国独立宣言に書かれた革命権に修正条文として、武力の所持が明記されました。


米国と言う理想の国家の樹立にフランスから贈られたのが自由の女神だという事ですが、理想の実行に欠かせない武装は人権の根幹でもありました。


ところが今度は第一次と二次の2回も世界大戦を経験し、国民と国家の関係だけでなく、国家間の理想も考えなければならなくなります。


そうして生まれたモノこそ9条、戦争放棄でしょう。


人類の悲願の理想と言ってもいいかも知れません。


しかし日本国憲法で省略されたのは革命権、そして武装権でした。


勿論、当時はGHQの支配下でしたので、反乱を恐れたのだと思われます。


日本で9条は誰でも知っている理想であるのと同じで、理想的な憲法を作ろうとした草案作成者がこの革命権、武装権をどのように書き込めばいいか、検討したうえでわざと書かなかったのです。


米国で銃犯罪をなくせないのは 必要悪、理想の代償、と言う面があるからで、しかしその理想をさらに先へ進めた日本国憲法ではGHQへの武力抵抗を恐れた、というお粗末さなのでした。