アスペルガーの教訓 2
障害を特殊としたカナーは、ドイツから米国へ亡命したこともあって一時学説が受け入れられたのだと思いますが、ドイツにとどまった他の多くの医師も 内面亡命 したと言われています。
つまり本心からナチスに協力したのでなく、感覚を麻痺させて判断から逃れ自己防衛したのでしょう。
カナーの学説が正しい、と思ったが違った。
アスペルガーは反ナチスのヒーローだった、と思ったが違った。
アスペルガー症候群 という分類がある、と思ったが違った。
亡命者は英雄だったかも知れないが、協力者も他に選択肢がなかっただけかも知れない。
ナチスが障害児を安楽死させるには、子供を診断して選別しなければならなかったのですが、思ったほど線引きは単純にはできませんでした。
障害 を判断する難しさ。
皮肉にもナチスの線引きしようとした取り組みが アスペルガー症候群 の発見の元になりました。
犯罪を犯す可能性がある、のは全ての人に等しく、ある集団に高い、との考えは差別につながる恐れがありそうです。
ではもし社会への貢献度という尺度があるとすれば、この点についてはどうでしょうか。
ある人については高く、ある特定の人は低い、という 高低 、善悪、つまりは 優劣 を知らず知らずに私たちは判断してしまいます。
しかしそれは本当は非常に難しく時間が経てば必ず変化します。
カナー や アスペルガー のようにその時はそう思ったとしても必ず後で違う結果が示される。
単純ではない。
アスペルガーをめぐるさまざまな物語は 判断というものの危険 を語りかけています。
判断とは何か。
人の理性です。
理性とは何か。
人の完全性です。
しかし人は間違う、常にこれは教訓だと思うのです。