それは 差別、ヘイト
相手に何かを要求するとき、互いに納得していれば問題はないのでしょう。
しかしそうでないなら、相違点はどこなのか、探ることになります。
例えば、表現の自由 を守ることも大事なら、その自由な表現が尊厳や権利を奪わないことも重要でしょう。
両立の難しい問題は、どこかに妥協点を見つけるしかなく、自分は一切引かないという場合、相手も譲歩はしません。
そうして主張を確認して、次にその元となる価値観を考えます。
その部分で一致点があればしめたもので、少なくとも話し合いは成立しそうです。
ところが多くの場合、そもそもの基準が違うがために対立するケースが多いのではないでしょうか。
自分の物差しで見れば確かに相手はズレている、そのモノサシをまずは自覚し、そして今度は相手の物差しを観察して、あー、なるほど、ここからして違っているのか、と理解できれば解決に近づけるに違いありません。
ところがほとんどの軋轢は、これを省略して一足飛びに批判し攻撃してしまいます。
なぜかな、という立ち止まり、振り返りが少しでもあれば分かるのに、その努力をしません。
自分の価値観を押し付ける、というのでなく、自分の意見は言っても元となる価値観までは考えていない、当然、相手の意見へは反論してもその根本にある価値観など見ようとはしていません。
要求、主張、意見などは表面的なものに過ぎず、それが生じるには根っこに何かの価値観があって、自分の価値観、相手の価値観、両方を理解さえできれば多くの争いは解決可能な気がします。
そして自分と異なる価値観の相手に、自分の価値観で非難し攻撃することは差別でありヘイトだと思います。
ですので差別やヘイトは努力が不足していますから、その努力不足に対し嫌悪感を抱くのかも知れません。
確かにあなたの ~はよく分かる、と言う話し方なら少しは差別やヘイトから遠ざかり、あなたは ~だ、と言う話し方には差別やヘイトがある、そういう風に感じます。
米国や韓国からの日本への要求は、日本に対して言っている、と思えば浴びせられる日本からは理不尽に見えるのですが、つまり差別やヘイトにさえ感じますけれども、日本に対して言っていながら実は自国民へのアピールだと気づけば、解決の糸口がある筈だと思うのです。
大人と子供の違いは様々あると思いますが、苦労を厭わず努力できる人は大人、できなければ子供だとすれば、自らは大人になるよう努め、無茶な要求をする相手は駄々をこねる子供と同じだと考えれば、対処の仕方も分かってくるのではないでしょうか。