東大は出たけれど…

東大は出たけれど…

東大を卒業して某事業会社で働いているサラリーマンが、日々考えていること、感じていることを綴っていくブログです。

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前回の続きです。


僕は日本人の「持ち家信仰」に対して懐疑的です。僕が大学生になった頃から両親が「家なんて買うものではない。固定資産税やリフォーム、外壁など、色々とお金がかかる。賃貸が一番」と繰り返し言う様になってから、家を買うことについて色々と考える様になりました。


両親は一軒家を購入し、20年にも及ぶローンを返し終わっていました。一般に人間は、自分の選択した行動を肯定しがちなものですが、両親はそうでもなかった訳です。僕よりも世間知を持った両親が言うことだから、何か根拠があるのではないか、と気に留めていました。


そして自分なりに色々と調べてみた結果、持ち家はライフスタイルによっては、非常に不利で危険であるとの結論を出しました。


まず、時代の不安定性です。住宅ローンは何千万円の商品を、何十年間もかけて返済することを意味します。年功序列、終身雇用が当然だった昔ならともかく、現在の日本で家をローンで購入することは、大変なリスクを伴います。ローンが払えなくなれば、家は競売にかけられて、借金だけが残るのです。


年功序列や終身雇用が約束されている会社は、日本には殆どないでしょう。表向きには「終身雇用で、定年まで安心して働ける」と謳っていても、実際はそうでなかったり、近い将来そうでなくなったりするケースが多いのではないでしょうか。僕の会社もそうです。社員達は賞与削減や残業代の制限、福利厚生の廃止などに怯えているのが現状です。


次に、「持ち家を持ちたい」と心から願っている日本人が、そんなに多くいるのだろうか、と言う疑問があります。もちろん中にはそういう人もいて、自分の家を持つことに大きな価値観を見出す人もいると思います。しかし、「家を持ってこそ一人前だ」「みんな家を欲しがるから」という理由で住宅ローンを組むのであれば、それは今一度考え直した方が良いと思います。


自分の頭で考えるのではなく、他人の価値観に迎合し、他人に流されて家を購入するのは、自分の人生を他人に預けることと同義です。本当に心の底から家が欲しくて、家を買うと幸せになるのか?その点はフラットな気持ちで考えるべきテーマだと思います。


また、「自分の家だからこそ温かみがある。思い出に残る」というノスタルジーな意見もありますが、僕は温かみや思い出は、人と人との関係性の中にこそ育まれるものであって、モノによってどうこうなるものではないと考えています。また、モノに支配される生き方が豊かだとは到底思えません。


最後に、これが僕にとっては一番重要なのですが、移動の自由が利かなくなります。ライフスタイルに応じて住む場所を変えられないのは、変化の激しい現代社会においては非常に不自由です。住宅ローンを組むことで「バショ」からの自由が大きく制限されてそれが嫌なのであれば、家なんて絶対に買ってはいけません。


通常は、何かを手に入れてその結果自由になることが多いのに、何かを手に入れて不自由になるなんて、マゾヒストか何かでないとできることではありません。家を買うと、バショだけでなく、カネからも不自由になってしまいます。


以上の様な理由があって僕は絶対に家は買うまい、と心に決めているのですが、配偶者を説得出来るかは甚だ疑問です。全く自信がありません。


上記以外の理由で、女性を上手く説得出来そうな根拠を知っている人は、御一報頂けますと大変助かります。

今回は「バショ」から自由になる方法に関して考察を進めます。


最近「ノマド」という生き方が持てはやされている様に思います。ノマドとは、元々は遊牧民の意味で、それが転じて今では、スマホやパソコンを用いて、オフィスに限らず、世界中の様々な場所で仕事を進めてくという、従来のライフスタイルとは全く違う働き方を指す言葉となっています。


一時期流行した「社畜」という言葉の対極的な意味合いとして使われることも多いみたいです。


この様な言葉が生まれた背景には、会社に縛られる生き方を不自由に感じている現代人が多いことがあるのではないかと思います。僕もその一人です。


東京の様な忙しい大都会で過ごすのは刺激的ですし、故郷・福岡の食べ物や風土、人の温かさも捨てがたい。他にも、住んでみたい日本の地域や、世界中の街は沢山あります。


然るに、僕は現在、勤めている会社の近くに住んでいます。当然と言えば当然なのですが、住みたい場所を自由に選ぶことなど到底出来ません。会社に「バショ」を縛られているのです。


「バショ」から完全に自由になるのは、本当にノマドになるか、医者や看護師、放射線技師などの医療系の資格を持つか、或いは一生遊んで暮らせるだけの大金を手に入れるかのいずれかしかありません。


どれも非現実的です。ノマドになるには非常にハードルが高いのです。一例を挙げますと、有名なノマドの本田直之氏は「ノマドになるために、一時期は人の10倍働いた、ノマドになるための準備期間は最低でも10年必要だ」とのことです。


今更、医学部に入り直すのも躊躇しますし、そもそも僕は血が大嫌いで、手先が不器用なので医者には全く向いていないのです。


全財産をFXに投じ、20倍のレバレッジをかければもしかすると…?とも時々夢想しますが、そんな勇気はないですし、一歩間違えれば身の破滅です。宝くじも当らないと思います。


そうなると、住む場所を会社にいつも縛られる状態が何十年も続くことになります。流石にそれは耐え難いので、医療系の資格はないにしても、いざとなったらいつでも会社を辞められる様に、日々自分を陶冶し、市場価値を高める試みを欠かしていません。これは完全に次善策であり、根本的な解決にはなっていないのですが、何もやらないよりはマシだと思っています。


このように、職業は「バショ」から自由になるための重要な要素ではあるのですが、僕はそれ以上に本質的な問題があると考えています。それは「日本人の持ち家信仰」についての諸問題です。


次回のエントリでは、持ち家の弊害について、自分の考えを書きたいと思います。


(続く)

これまで書いてきた通り、僕は小中高といじめに遭ったこともなく、他人が陰湿ないじめを受けているのを見たこともなく過ごしました。これは大変幸運なことでした。人間関係には大変恵まれていたと思います。


僕の中で「いじめ」とは、ジャイアンがのび太にしている様なことだと長い間思っていましたし、重松清の小説を読んでも、いまひとつピンときませんでした。


人間は自分が体感したことでなければ理解は難しいものです。僕が中高生の頃は、いじめが社会問題化されることも多かったのですが、僕にはいじめが何なのか、よく分からなかったのです。


東大に入学後も、いじめは全くありませんでした。僕の偏見なのかもしれませんが、大学ではいじめなんて殆ど無いのではないでしょうか。(全く見当違いなことを書いていたら、申し訳ありません)


ところが社会人になってから、最初に配属された部署には、すごく意地悪な先輩が2人もいました。その先輩達は僕のことが嫌いだったみたいで、陰湿な嫌がらせを繰り返してきました。僕にとっては、初めての「いじめ」の体験でした。


僕は精神的には(多分)タフなので、無視したり、受け流したりしていました。それが余計に先輩達の感情を逆撫でしたらしく、僕は更に悪質な嫌がらせを受けることになりました。


意地悪な先輩の1人はイケメンでしたが、嫌なことを言ったりしたりする際、その先輩は本当に醜い顔をしていたのです。せっかくのイケメンも台無しで、蔑む様な目も、歪んだ口元も、ちょっとした手の動かし方も、一種のモンスターの様な様相でした。


人を貶めようとする時、傷付けようとする時、人間は本当に嫌な表情をするものです。


哲学者の鷲田清一氏によれば、人間の表情は可能性の裂け目であるとのことであり、僕は氏の考えを至言だと思います。嫌なことをすると、汚いものが体中から溢れ出すのです。


汚いものは周囲をも汚しますが、一番汚れるのは汚いものを出している自分自身に他なりません。それでいて、自分が汚れていることに気が付かないのが恐ろしいところです。


私達は無意識のうちに、表情や態度、言葉からダイオキシンを発していないでしょうか?自戒を込めて書きますが、そのダイオキシンは色々な人を不幸にして、自分自身の可能性を閉ざしてしまうものだと思います。


僕の友達や恩師、両親に妹は、僕を陽だまりの様に包んでくれました。幸せなことに、ダイオキシンで汚されることは少なかった「からだ」に命を宿していると僕は自負しています。


ダイオキシンを発さないなどという消極的な発想ではなく、今度はみなさんに頂いた温かで優しいものを、色々な人に返していきたいと考えています。そして、他人のためにも生きながら、自分自身の可能性を少しずつ模索していきたいと思います。