5月のゴールデンウィークが過ぎ、連休が取れたので1泊2日で山梨方面へソロツーリングをしてきました。
今回の目的は日本航空123便墜落事故の現地への慰霊登山です。

※以下長いので興味のある方のみ推奨

 

 

 

遊び半分で行ってはいけない場所

 

朝6時半に家を出て中央自動車道の須玉ICから清里ラインを北上して長野県へ。

長野県に入ってから野辺山高原サラダ街道(141号線)を更に北上し、途中で海ノ口大橋を渡って県道2号→県道124号へ。

海ノ口大橋を渡ってからしばらくは道の広いワインディングが続き、最高に気持ち良く走ることが出来ました。


124号をどんどん登ると長野県と群馬県の県境が見えてきます。

群馬県の入り口には「ぶどう峠」と書かれた石碑とお地蔵様が建てられていました。

バイクを停めて記念撮影をしているライダーを見掛けつつ、群馬県のゲートへ入りました。


この辺りからスマホが圏外になり、外部との連絡が全く取れない状況になります。
ぶどう峠からかなり道が細くなり、拳サイズの落石とアスファルトが陥没&隆起している路面が続きます。

すれ違う対向車&バイクは少なかったのですが、そのせいか対向車が少ないと思ってコーナーを膨らみがちに突っ込んで来る車両が多く、こちらが速度を落とさないと正面から衝突してしまいそうな場面が何度もありました。

何度も石を乗り上げて後輪を滑らせてしまうほどの悪路でしたが、しばらく走り続けると『御巣鷹山の尾根→』という標識を見つけ少しだけホッとしました。

川沿いに更に奥へ進み、なんとか登山口の手前まで辿り着く事ができました。

 

登山口の駐車場へ着くと、白いハイエースと大型バスが停まっていました。この時点で時刻は11:38頃だったのですが、なるべく明るい内の下山を目標にしようと思い急いで身支度を始めました。プロテクター入りのジャケットを脱ぎ、運動靴に履き替えて、いざ登山へー

 

 

始まりは探求心から


この事故については自分が産まれる4年前の出来事なので、以前までは「へーそうなんだ」という完全に他人事のような感覚でいましたが、ある事がきっかけで事故の詳細を調べるようになりました。

当時何が起きたのか
何が原因だったのか
どんな人が乗っていたのか
どのように報じられたのか

現地で取材をしたメディア関係者の話、墜落する瞬間を目撃した現地民の証言、公開された管制官と機長らのやりとり、週刊誌に掲載された現場写真など、インターネットで調べれば調べるほどとてつもない大惨事であった事が徐々に分かってきました。

1985年8月12日
524名の乗客乗員を乗せた羽田空港発→伊丹空港行きの日本航空123便(機体記号:JA8119)は、相模湾上空で圧力隔壁の破損により垂直尾翼を失い、油圧システムを損失した事により操縦不能となりました。機長、副操縦士、航空機関士による健闘虚しく、高天原山に属する尾根(通称:御巣鷹山の尾根)に墜落し、この事故で520名の尊い命が失われてしまいました。

 

 

もっと知りたい。もっと身近に感じたい。


38年前に起きたこの事故は、亡くなられた犠牲者のご遺族が3,000名以上いらっしゃるそうです。

当時40代だったご遺族の方も80歳を越えており、ご遺族の高齢化が進む一方で私と同じように「事故を知らない世代」が年々増えています。

ご遺族の多くはこの事故を風化させてはならないと考えられており、1人でも多くの若者に知ってもらい、同じような悲しい事故を繰り返さないよう願われているそうです。


私もこの事故は決して風化させてはいけないと感じました。

1人でも多くの人が事故の内容を知ることで、同じような事故を未然に防げるのかもしれない。

私にような一般人の発言力なんて皆無だけれど、何もしないよりは何か行動した方が0.01%でも可能性を生み出せるかもしれない。

そんな想いで、この事故に向き合おうと考えました。

 

けれど、どれだけ大きな事故であったかは分かりましたが、どんなに調べても画面越しではどうしても身近に感じる事が出来ませんでした。「風化させないためには何が出来るのか?」と自分にできる事を考えた結果、実際に墜落現場へ行って慰霊登山をしようと計画を始めました。現場でしか感じられない事がきっとあるのだと思い、自分が感じた事を現実味の帯びた状態で受け止めようと考えました。

そして、次の世代に話す機会を少しでも作っていこうと心に決めました。
 

 

123便(JA8119)との対面

 

より当時の出来事を身近に感じるために、まずは実物の123便を見ようと思いました。
羽田空港敷地内にあるJALの安全啓発センターで研修の予約をして、慰霊登山ツーリングの1週間前に行ってきました。


ここはJALの新入社員のために作られた研修施設ですが、一般の人も研修を受ける事ができます。

始めに、案内人のJAL職員さんから過去に起きた飛行機事故について説明を受けました。

ビデオによる研修も受け、123便の残骸が眠る保管室へ移動します。
 

保管室内には、墜落現場から引き上げられた残骸、ブラックボックス、破損した圧力隔壁、ぐにゃぐにゃに捻じ曲がった座席、搭乗されていた方の遺品などなど、数多くのものが展示されていました。

「どんなに怖かっただろう。どれだけ生きたいと願っただろう。」
当時は夏休み期間中だった事もあり座席はほぼ満席状態で、9歳の子供が1人きりで搭乗していた席もあったそうです。

ただでさえ心細い思いをしていただろうに、経験した事の無い恐怖に襲われる中、どれだけお母さんに会いたかっただろうか。

沢山の方がそれぞれの目的を持って搭乗しただけなのに、突如襲われた恐怖の中、どれほど生きたいと願っただろうか。
搭乗者の心情を想像するだけで、とてつもない恐怖心を感じました。


「今まで画面越しで見ていたものが、今、自分のすぐ目の前にあるー」
事故原因となった緑色の圧力隔壁と、白い鉄板に日本航空のマークが描かれた垂直尾翼の一部。
この2箇所の大きな破損により結果的に520名の命が失われ、4名の生存者の心と体に深い傷を負わせたという事実が目の前にありました。

 

実物を見るととても大きなパーツがである事がよく分かります。

墜落時の衝撃力は100Gであったそうですが、戦闘機パイロットが耐重力加速スーツを着用した状態で耐えられる重力は6~8Gだそうです。

そう考えると、これらのパーツの何倍の大きにもなる機体が一瞬で粉々になった事も分かります。

当時の悲惨な状況を改めて実感することで、自分の生まれる前の出来事が事実としてやっと身近に感じる事が出来た瞬間でした。

 

 

慰霊登山へ

 

駐車場から登山道を進むと、沢の流れる音が森中に響き渡っていました。

遠くで鳥のさえずりが聞こえ、空高く伸びた木々の間を鳥たちが飛び回ります。

かつてこの場所で未曾有の事故が起きたとは思えないほど、静かで穏やかな自然に溢れていました。

 

更に登ると少しずつ傾斜がキツくなります。

登山者が登りやすいよう鉄製の階段が設けられていましたが、それでも容易ではない急な坂道が続きます。

 

8月12日になると、ご遺族や知人が慰霊登山のためこの地に訪れます。

ニュース等で高齢になられたご遺族が登山されている様子を見た事があったので、30代の自分なら簡単に登れるだろうと思い込んでいましたが、想像を遥かに超える登山道に呼吸の乱れを抑えられず、何度も足を止めてしまうほど過酷でした。

「これは覚悟がないと登り切れないなぁ...」

思わず口に出しつつ、息を荒げながら先を進みました。

道中で見つけた看板。

短い文章だけれど、とても切ない故人への溢れる想いが心に沁みます。

ご遺族の強い想いがこの場所を守り続けているのだと感じました。

 

坂道を折り返してしばらく進むと、筆文字が描かれたような木の板が並んで見えてきました。

徐々に近づくにつれ、それが何か分かった瞬間に心臓が大きく鼓動しました。

数えきれない数の墓標が立ち並んでいます。

この墓標は犠牲者のご遺体が見つかった場所を意味します。

スゲノ沢エリアは多くの犠牲者が見つかった場所になるのですが、まとまって並ぶ墓標もあれば1つだけ離れた所に立っている墓標もあり、この付近一帯におびただしい数のご遺体があった事実が目の前に広がっていました。

 

 

墜落現場で見えたもの

 

やっと慰霊碑の手前まで登った所で、男女のグループとすれ違いました。

「こんにちは」とあいさつを交わしてすれ違った後、なんとなく気になり後を振り返って見ると、墓標ごとに全員で手を合わせている様子が見えました。

「ご遺族ではない感じだけど、私と同じような一般の方なのかなぁ...」と思いつつ再び足を進めると、ご年配の地元の方らしき男性に遭遇しました。

 

「ご遺族の方ですか?」と聞かれたので、違う事を伝えて少しだけお話をしたところ、この登山道を管理されている方でした。

「いつもありがとうございます。ご苦労様です。」とお伝えし、頭を下げて別れました。

ちなみに管理人さんのお話によると、先にすれ違った男女のグループはJALの社員さんだったようです。

毎年この時期になると新入社員が研修の一環として慰霊登山をされている事は知っていましたが、偶然にも私と同じ日に登られていたようで、駐車場に停まっていたマイクロバスを思い出し、あーなるほどなぁと合点がいきました。

墓標1つ1つに手を合わせられている姿は、私の中で忘れられない光景でした。

目の前に続く階段を上り切ると『昇魂之碑』と書かれた石碑と『安全の鐘』が建っている広場へ辿り着けました。

事故の話を知らなければ本当に静かで風通しが良く、とても心地よい休憩所のような広場ですが、自分が立っているまさにこの場所が123便の墜落現場です。

まずは安全の鐘を鳴らし、昇魂之碑の前で手を合わせました。

 

事故から38年経過しているので、ここは綺麗に整地されおり一見なにも無い広場に感じますが、周囲を観察してみると当時の爪痕が至る所に見受けられました。

広場から見える向かい側の山に、一部だけ不自然な溝があります。

機体が墜落する直前、右翼部分の接触により削り取られた箇所になります。

この時の衝撃によりエンジンが脱落し、電源供給が失われたためボイスレコーダーがここで止まっています。

ボイスレコーダーが止まった数秒後に123便は墜落しました。

根本付近から先を削ぎ取られるように失われた太い木も数か所で見ました。

中には墜落時の火災により一部焼け焦げながらも残っていた「沈黙の木」と名付けられたものもありました。

38年という年月と雨風でかなり崩れてしまったようですが、今でも事故の大きさを静かに物語っています。

 

昇魂之碑の後ろ側を上がると、優しい眼差しの観音様がいらっしゃいました。

観音様が写る写真の左奥に丸太小屋が写っていますが、こちらの撮影は行いませんでした。

とうより、行えませんでした。

小屋の中には入らせていただいたのですが、壁一面に犠牲になられた方々の写真が貼られており

「ここは、この地で眠る皆さんとごご遺族が会話をする場所なんだろう」と私の中で解釈しました。

お線香はあげさせていただきましたが、部外者の私が長居する事も、カメラを向ける事も、許されないと判断してすぐに小屋を出ました。

観音様の右横には、520名の名前が刻まれた石碑が建てられています。

まるで観音様に守られているような、そんな位置に建てられていました。

 

 

墓標ひとつひとつに浮かぶ人物像

 

まだまだ登山道は続きます。

1つでも多くの墓標の前に立ちたいと思い、ほぼ地図通りに歩みを進めました。

 

ここまで歩いてきて、墓標の素材や形がそれぞれ違っている事に気が付きました。

また、墓標には故人の名前のみが書かれたもの、名前と一緒に年齢が書かれているもの、故人に対するメッセージが書かれているものなど、統一はされておらずご遺族の意向の違いが見受けられました。

 

若くして亡くなられた方

自分と同年代の方

誰かの親であろう方

墓標の中には「おとうさん会いたい」「愛をありがとう」など、優しい言葉を綴ったものもありました。

 

年齢が書かれている墓標や、お供えされているものを見ると、故人がどのような人物であったかが想像できます。

「この方はお酒が好きだったんだなぁ」

「女の子らしい小物が好きだったのかな」

「ラグビー部に入っていたのかな」

 

お供え物の量がひと際多い墓標も数か所で見つけたのですが、そのほとんどが幼くして亡くなられた子供の墓標でした。

電車の模型がいくつも飾られていたり、赤い洋服が着せられていたり、人形の置物が飾られていたり...

寂しい思いをしないように...

天国でもたくさん遊べるように...

そんなご家族の揺るぎない愛情を感じ、胸が締め付けられる思いでいっぱいになりました。

 

 

墜落現場が教えてくれたこと

 

登山道をほぼルート通りに回り、無事に駐車場まで戻る事ができました。

下山途中に墓標付近に付けられていた金属のプレートが風に揺れて「チリーン...チリーン...」と小さく鳴っていました。

私には「この場所を忘れないで」と言われているような気がしました。

 

今回の慰霊登山で実際に現場を歩いてみて感じた事は、ここは沢山の方の祈る想いが詰まった特別な場所であるということでした。

また、実際に登山して分かった事は、当時救助にあたった方々やご遺体を収容された方々は、本当に大変な思いで捜索されたのだと実感しました。1人でも多くの命を助けたいと思う気持ちが強くなければ、この山を何度も上り下りする事は出来ないと思います。

今では登山道が出来ていますが、当時は人の手が一切付けられていない山だったので、8月の暑い時期に墜落現場へ上るのも本当に一苦労だったと思います。(私は整備された登山道ですら気絶しそうなくらいしんどかったので)

 

また、この山を守り続けている管理人さんやご遺族の皆様も、共にご高齢となり体力的な限界を感じられていると思います。

それでも毎年のように登り続け、登山道を綺麗に保たれている姿は本当に頭が下がる思いです。

 

日本航空123便墜落事故については、事故当時から数多くの陰謀論が囁かれていますが、真実は今も明白にはなっていません。

私はJALの安全啓発センターで研修を受けた際に、職員の方からも事故原因などを実物の破損部品を目の前にしてご説明いただきましたが、正直全てを真に受ける事は出来ませんでした。

調べるほどに疑惑が浮かぶ事故ですが、もちろん噂に尾ひれが付いて出回っている話も多くあると思います。

 

ただひとつ、多くの命が奪われた事は紛れもない事実です。

犠牲者の多くが明日を生きたいと強く願ったはずです。

 

私にできる事は、この事故が風化されないよう少しでも多くの若い世代に伝える事だと思っています。

そして、明日を生きられる事を当たり前と思わず、しっかりと前を向いて生きていく事だと思います。

 

今回の慰霊登山で自分の中で区切りを付けたつもりは無いので、これから先も自分なりにこの事故や他の事件・事故にも目を向けていきたいと思います。

 

以前よりも今の日本は1つ1つの命が埋もれて見えにくくなったように感じますが、過去を偲ぶ事で大切な何かを気付く事も出来ると私は信じています。

 

御巣鷹山の尾根はこれから夏を迎え、命日の8月12日にはたくさんのご遺族が花束を持って故人に会いに行かれるでしょう。

墓標前には花が添えられ、積もる話を交わし、華やかで賑やかな1日となるのです。

犠牲者となった520名は、きっとその日を楽しみに待ちながら、静かに、安らかに、今もあの森で眠り続けていると思います。

決して遊び半分では行ってはいけない、大切で神聖な場所なのです。

 

最後に、ここまで読んでくださった方に深く御礼申し上げます。

 

この事故で亡くなられた520名の犠牲者の皆様のご冥福を深くお祈りいたします。