情熱大陸をみて、胸が熱くなった
泣けてきた。
20代半ばの自分に自信もないし歌はなおさら自信がなくて
凹んでいた日々。
そんなある日、佐藤涼子先生のHPに書いてあったことが
当時のメンタルと歌・声の悩みの繊細でミクロ単位で感じていた歪みと
自分で調整しきれないボーカリストとしての悩みがリンクして、
絶対にここで学びたいっ!っておもったのを覚えてる。
即行動タイプの私は真夜中にもかかわらず、レッスンに申し込んだ。
カウンセリング初日。
PBレッスンスタジオは、一面大理石のエントランスで
部屋(兼地下スタジオ)は、おしゃれすぎて綺麗でエレガントすぎて
自分がこの場所にいることにアンマッチな感じを抱いて
全然落ち着かずキョロキョロして、背筋ぴーんってしてたのを覚えてる。
当時カウンセリングしてくれた未歩さんは、
まず、私をみて「黒ッ!」と一言w
真っ黒の服と爪先を速攻でダメ出しされた。
なんで?って思ったし、歌うだけなのに関係ないし。
ってその時は思ってたw
それまで私は人に話せるような自信の持った生き方をしてこなかったからだと思う。
人が話してる時とか自分が話す時、目は見てるんだけど、心の奥底を見透かされそうな気がしてすぐに目線を逸らす。性格だった。
今思えば、あの頃はすっごいすっごいカッコつけで、誰も土足ではいってくんな。みたいなw私の心に入ってくる人を全力で拒んでた時期でした。
言葉では優しくてニコニコしてるけど、誰にも心に入られないようにしてたと思う。
それは幼少期とか家族の間で、みんなが答えを私に求められ、取捨選択しなければいけなかった。
末っ子だったけど何故か選択を求められる立場だった。
みんなが平和にいくように先を加味して答えを言う。みたいな。
自分の一言でみんなが分裂してしまう気がして怖くて言えなかった。
意見を言うというよりも、環境整備に努めた答えを言うしかなかった。っていう感じ。
別に今では何も壊れていないし、あの答えを言ってよかったと思ってる。
そうそう、で話を戻すとね
それまで違う教室で、違うボイストレーナーの方に教わっていたけれど、
誰からも言われたことなかったことを言われて戸惑っていた。
でもその時間は歌のことを話してたはずなのに、いつの間にか心の奥深くでずっと蓋をしていた言葉がでてきたり、不思議と相手の前で涙を流すくらいに
過去の恋愛・死について、時間をかけていろんなことを吐き出して
この人なら信頼できる。って思えた。
私が話すことで、相手に嫌な思いをさせたり
嫌悪感を持たれることが最初は怖くて嫌だったけど、この人なら聞いてくれるのかな?
って信頼できたら、そこから心は全開だった。
(そういうとこ今でもある悪い癖w)
だって、どんなにささいな嘘でさえも見破られたからw
そうしてレッスンをしていくほどに、歌ってただただ歌えばいいだけではないことは
高校2年生からバンドをやって、「感情」だけは無くさないように歌うことを心がけてきたことにだけは自信があったはずだったのに、それよりもっともっとその歌の奥深さを知った。
コピーバンドから、オリジナル曲にバンドが移行していって、ロックな歌い方「か行」の発音がずっと強くてそれが癖だった。
そりゃ10年くらいその歌い方してきてしまったからね•••
当時は、今の歌い方に矯正されることがすごく嫌だったし染み込んだ癖をなおすってすっごく難しかったんだよね。
母音をはっきり発音してこなかったから、歌詞を今まで伝えられてこなかったんだな。って強烈に思って泣きながら帰ったレッスンの日も何日もあった。
母音をはっきり歌う歌い方が、なんか自分の中で恥ずかしくて嫌だったんだよね。当時はw
今ではなんであんなに拒んでたんだろう?と不思議に思うw
そうやって、高音は伸ばすことは難易度はそんなにだったけど、低音を響かせて、安定して出すことが苦手だった。
最大のポイントは、丹田を使って発声できないことだった。
軸ができていなかったから、声がブレるブレる。
これが一番正直上達できなかったし苦戦し続けた。
7年くらい経ったある日、家で歌ってたら声が爆発的に出るようになって。
!!!!!!!!!!
でも、不安定で、ようやく私に丹田の神様が体感で感じられた〜!!!
って、あの時の感動を今でも覚えてる。
でも、動くと丹田の神様がいなくなってしまうくらい不安定だったw
私も生徒さんにその感動を体感してもらえるその日までサポートしたい。と思っている。いまだその感動の日は迎えていませんw
だから、声が震える。とか地声で大きく発声したい。という子がいたら放っておけないっ!私は何年もその壁が課題だったし、悔しいし痛いくらい気持ちがわかるから。
今ではその人の歌を聴けば、その人がどんな性格かまでわかるようになった。
人への気遣い、ボーカリストとしての目線・振る舞い。
私が思っていた以上の繊細な心遣いを学べた。
レッスン以外にも、仲良くさせていただいた。
「身近な人も大切にできない人が何百人を幸せになんかできっこない」
「ライブはデート」
懐にすっと落ちた言葉は数知れずにある。
レッスンでは、毎回録音して聞いて聞いてノートに書き出していた日々。
とても懐かしくて愛しい日々でした。
京田未歩さんには感謝しきれない想いがあります。
たまに夢にも出てきますw
佐藤涼子先生メゾットで育ったひとりとして
これからも、お婆さんになっても歌っていきたいですね。
歌は私の人生の相方であり、学びそのものである。
哲学者みたいw
とまぁ、私って不思議で何考えてるかわかんない。とか掴み所がない。と言われるところには過去の人格形成があるわけで、そうしたくてこうなったわけではなくてw
今後は、仮面とかしないで生きていきたいですw
私については、またいつかのブログで書きますね。
長文を最後まで読んでくれた、そこのあなた
本当にありがとうございました。
私は、大人になってようやく自分のことをこうやって語れるくらいオープンになってきたので、ブログでは私という人を公表していきますのでよろしくお願いします。
人はいつどうなるかわからないので。
ではまた