赤色の夜景
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2.多面性と単一性

 無人交通の停車駅に向かうためビルを出た澤木と伊藤は、まだ十一時だというのに、静寂に包まれている都会の歩道に、その足取りを緊張させていた。
 先月三十五歳になった伊藤は隣で大きな息づかいをしながら歩く男の存在の意味を普段は理解していなかったが、「こういう時に所長は必要なのか」と一人納得し、自分の歩くペース配分を合わせていた。
 INCOのような行政関係機関の広報部門には、民間企業が行う利益追求型の宣伝広告を企画するようなクリエイティブさは一切ない。人にインパクトを与えるような巨大広告を打ち上げれば国民感情を逆なでし、かえって逆効果となりかねない。自分たちの存在意義を慎ましやかにひっそりと伝える事が大切である。
 伊藤はこのようなひっそり加減が好きな性格だったため、今日はとにかく早く自宅に帰るタイミングを図る決心をしていた。『皆様の安心を静かに支えるINCO・・・ネットワーク安全宣言!』という今年のキャッチコピーの意味するところとは正反対の思考であった。
 突然、強烈な破壊音が何度も前方から聞こえたかと思うと、たくさんの飛び散った煌めきが路上に散乱した。ショーウィンドウのガラスが二人が歩くする10メート先で破壊されたのだった。
 「きゃあ!」

 と大きな声を上げた伊藤は澤木にしがみついた。
 数秒後、数人の男たちが靴や時計といった製品を手に持ち、ショルダーに詰め込みながら歩道に飛び出してきた。ビルの壁際に身を寄せた二人は様子を見守る。
 普通の窃盗犯であれば、逃走する場面だが、男たちは急ぎながらも次のショーウィンドウめがけて大きな工具を振り回した。
 「そうか、防犯カメラか」

 澤木は防犯カメラがネットワークの不都合で使えなくなっている事を理解した男たちによる犯行である事を察知し、伊藤と何事も起こっていないというそぶりで、先に進むことにした。男たちは次のショーウィンドウの中で窃盗行為を続け、通行人には見向きもしなかった。
 さらに無人交通の停車駅に近づくと、そこには座り込んだ十数人の民間人が居た。
「20分ほど前に動かなくなったよ。」

 と初老の女性が尋ねる前に教えてくれた。
 「このまま歩くしかないな・・・」

 と澤木がつぶやいた。犯罪を目の当たりにして、不安を隠せない伊藤にもう一つ、ヒールの靴擦れの心配が重なった。
 二人はそれまでのペースを少し上げながらおよそ一時間かかる首相官邸に徒歩で向かった。
良治はINCOの比較的セキュリティレベルの高いネットワークルームに一人入っていた。レベル6のIDを入力済みの操作端末は、設置された全てのネットワーク機器を管理者権限で操作できる状態になっていた。

 INCOの設立及び維持管理費の殆どが日本のネットワークを監視するためのこの部屋に集約されていた。セキュリティレベルは6段階の設定が可能であり、通常は部品交換程度のメンテナンスのため、良治が今まで使ったIDは内部情報にアクセスできない3~4だったが、今日は初めて全ての機器の操作が可能になっていた。「外部接続が全部アラート(赤)じゃないか、接続できるかどうか微妙だな。・・」操作端末と丁寧にラックに固定された高性能なネットワーク機器類との間は、赤外線通信によって操作可能になるのだが、良治が予想した通り、赤外線の信号は全く応答してくれない状態になっていた。
「やっぱりあれが要るよな・・・」良治はこの部屋に来る前に自分のオフィスに立ち寄れば良かったと後悔しながら、ネットワーク室を出た。
 良治の専用オフィスの隣には杉下のオフィスがあった。杉下は危機管理マニュアルを必死に読み込んでいたが、良治の作業を手伝う技術が自分には無い事を良く理解していたため、廊下を通る良治の姿を腰掛けたまま目で追うだけであった。
 「ケーブル、ケーブル、どこだっけ」と何度も口にしながらロッカーやデスクの引き出しを、下唇を噛みながら開け閉めしているうちに、何種類かのケーブルをデスク上に並べる事が出来た。
「全部つなげられるよな・・・」

 良治はまるで誰かに確認するようにケーブルを置いたデスクの先の一カ所を見つめながらつぶやくと、ケーブルを鷲掴みにしてオフィスを出た。
 良治が見つめたところにはフォトスタンドがあった。そこには、若い良治と肩を組んだストレートヘアの女性が優しい笑顔でこちらを見つめていた。
洋子とノーマンは、回線の混雑が最も少ない外部接続のファイバーケーブルを選び出すことに成功していた。
「こののケーブル以外の外部接続をすると、ネットワークコントローラの状態が確認できなくなるわ。ノーマン、内部に向かっているケーブルは全部外すわよ。」

 ようやく原因究明につながると思いながら二人は手際よく数十本のケーブルを外していた。そのネットワークコントローラのLEDランプはケーブルを外すごとに消えていき、赤とオレンジの激しい点滅と本体が正常であることを示す青色に発光するLEDの2個だけになった。
 二人はノートPCの制御用ソフトウェアを覗き込んだ。ノートPCとネットワークコントローラに入っている管理ソフトウェアはまさに自分達の会社の主力製品であった。
 「多分、パケットモニタを全種類の通信で指定すると内容の把握ができなから、タイプを絞って見てみて。」ノーマンはキーボード操作によって素早く監視する信号の選択画面まで到達すると、「どれにしますか?」と洋子に指示を求めた。
 「まずはプログラムパケットね」

 このネットワーク機器の最大の特徴は、通常の音声や画像、データ通信のパケットだけでなく、ネットワーク自身が実行可能なプログラムを交換できるプログラムパケット機能にある。
 この機能は機器に制御の遅延などの不具合や、機器の機能を向上させるソフトウェアをネットワーク機器同士で自動交換しながら修正したり、拡張する仕組みになっている。このソフトウェアを開発したのが二十代の頃の洋子であった。
 このプログラムパケットがネットワーク内で普段滅多にお目にかかれない種類であることはノーマンも当然承知しており、素早く設定状態を正しく入力すると、「設定OKです。洋子さん」と言うと、少し大きめに息を吸って肩の力を抜いた。
「よし、始めて!」
 画面から少しずつではあるが、プログラムパケットの種類のカウントが増え始めた。画面上の上から順にパケットの大きさと概要を示す行が一秒間隔ほどで表示されてきたのだ。
「絶対おかしい!」洋子はノーマンと顔を見合わせた。プログラムパケットがこれほどの数が出てくるのはありえない。
「ノーマン、プログラムパケットの解析を進めるわ!PCに2~3分間のデータを保存して!」

 ファンの音のうるさい部屋で続くノーマンに指示を出し、洋子はネットワーク管理室を出た。
 洋子のデスク上には三台のディスプレイがデスクパーティションの壁に掛けられていた。 洋子はディスプレイのうちの一枚にプログラムの説明書と命令語の検索プログラムを起動し、もう一枚のディスプレイにはプログラムを編集できる空白の画面を用意した。
 洋子は自身がこのプロジェクトに参加していた時の記憶をたどりながら、あらゆる可能性を否定しないためには、既成概念にとらわれないようにしなければならないと自分に言い聞かせ、「ふーっ、」と息を吐き出すと、椅子をコーヒーメーカに向けて回転させながら立ち上がり、両手を天井に向かって一杯に伸ばした後、二カップ分のコーヒーを取って再びデスクに戻った。
「記録持ってきました。」洋子の愛用のノートPCを両手で大切そうに持ったノーマンがオフィスに戻ってきた。
「始めるわ。」洋子は、タッチペンを操作しながら、ノートPCとの赤外線通信機能によって、中央の画面にプログラムらしいパケットの情報を受信した。さらに、これだけではセキュリティロックが解除されていないため、洋子は自分が作成したパスワード解除ツールを起動し、解読を始めた。
 解除ソフトは、全ての文字の組み合わせを総当たりでさぐるものであり、10桁で構成することが定められたこのパケットのパスワードを解除するために必要な時間は、多く見積もっても20分ほどである。
 洋子はコーヒーカップを両手で持つと、肘を両方ともデスクに付けて、とても慎重に口をつけながらほんの少しずつのコーヒーを口に入れた。
 画面上では10桁の無作為なアルファベットと数字の羅列パターンが高速に変化し続けている。静寂の中で3分ほどの時間が流れた。
 「ピッ」という音と同時にパスワードのパターンが判明した。10桁の数字だけのパスワードだった。洋子は直ぐにコーヒーを手放すと、タッチペンとキーボードの操作によてパスワードを中央のディスプレイに入力した。

 「次は解読ね」
 プログラムはネットワーク機器に登録された単なるコードの集まりになっているため、そのままでは人間が解読することは困難である。このため、人間のコードに逆変換する操作が必要となる。洋子はプログラムが並べられている画面上部のメニューから、逆変換の機能を選択した。
「出てきたわ・・・なにこれ?単なるループと転送の集まりになってるわ。」
「もしかして・・・」

 ノーマンは最近この種のプログラムの確認作業ばかりをやってきたのだ。
「プログラムパケットにボットが入っているなんて・・・でも仕掛けがハッキリしたわ。ネットワーク機器自身がプログラムのコピーを他のネットワーク機器に受け渡すのだけれど、そのプログラムは自分のコピーを作る以外には何もしない無限ループになっている。だから、他の種類のパケットに影響を及ぼすことは無いはずよ。結果としては単にネットワーク機器の実行速度を徹底的に遅くするだけ。しかもこの仕掛けはうちの会社の製品にしか使えないはずだわ。」
 「ボットの発生源は普通、PCやサーバ機になってるから、ボットの正体を突き止めるのは普通の人では無理だと思う。」
 「洋子さん、どうやってネットワーク全体のボットを停止できるのですか?なぜなら、一台の機器の中にあるボットを駆除しても、ケーブルで接続された別の機器からコピーが来てしまう。世界中で同時に同じ機種の停止をして、駆除するプログラムをセットする事はできない。そして、今回と同じパターンで別のボットがあったら、駆除ソフトのディベロップメントに時間がかかると思います。」
 「確かにそうね、でも、プログラムパケットを解釈しないようにネットワーク機器の機能を限定してしまう処理ならできるわ。そのためには、一般の人でも簡単にネットワーク機器の機能を制限できるソフトウェアを開発する必要があるわね。ノーマン、開発頼んでいいかしら?」

 そう言いながら、洋子は右側のディスプレイに顔を向け、画面上の検索ボックスに「パケットプログラムの機能を停止する方法」と素早くキーを叩き、検索結果から、機能を停止するための命令語のマニュアルを画面に表示させた。さらに続けてデスク上のページプリンタにそのマニュアルを二部印刷し、一部をノーマンに手渡しながら話を付け加えた。

「とりあえず、うちの機器はこのマニュアルで機能を制限してみるわ。」
 二人はプリントアウトしたマニュアルと操作用のノートPCを持って再びネットワーク管理室に入った。先ほど操作していたネットワーク機器に素早く幾つかの命令を入力すると、オレンジ色と赤色の点滅がオレンジと緑の点滅に復活した。「これで内部ネットワークの制御は問題無くなったはずよ。外部ネットワークを接続しても、この機器の外側で信号が大量に行き来するだけだから、ケーブルを元に戻すわ。」二人は素早く外部ネットワークに接続されたファイバーケーブルを機器に接続しなおした。
 ファイバーケーブルを接続しているコネクタのLEDは相変わらず赤とオレンジの点滅を繰り返しているが、内部ネットワーク側のLEDは緑色とオレンジの点滅のまま正常な動作に戻っていた。
 「よかったです。管理端末の操作も問題がありません。ところで、洋子さんはこの後どうするんですか?」

 ノートPCの蓋を閉じながらノーマンが尋ねた。
 「まず私は携帯端末用の通信を復旧させたいの。ほら、携帯が使えれば心配な家族や友人と連絡が取り合えるようになるから、混乱の解消が早いと思う。それに、音声用の回線網なら、うちの製品ほど大げさな装置は必要ないから、回線網の中心部にあたる機器をなんとかすれば多分うまく直せると思うの。それに、今朝私が気が付いた最初の異常は携帯の接続不良だったの。だから、そこから原因に近づける気がするの。」
 「わかりました。気を付けてください。」
 「ありがとうノーマン、自分の携帯を充電しておいてね。うまくいったら最初にあなたに連絡するわ。ソフトの開発よろしくね。」
 洋子はノーマンからPCを受け取ると、身分証や先ほどのマニュアルと合わせてバッグに押し込んで、オフィスを飛び出した。

「これだけ大量の信号が出入りしているのに、プログラムパケットばかりだ。原因はプログラムパケットか・・・」セキュリティ解除されている高性能なネットワーク機器とワイヤー接続された端末の前で良治はうなだれていた。INCOは、外郭団体であり、プログラムを解析するようなソフトウェアは所有していない。そのため、良治は、ネットワーク機器をのものが持つ管理機能に行動を制約されていた。
 「原因の特定にはプログラム解析が必要になる。通常状態に戻せる方法だけでもさぐれればいいけど・・・」
 管理用端末には、ネットワーク機器同士の間に接続して、流れるパケットの監視や制御をする機能が備わっている。良治はこの機能を使ってネットワーク機器間の制御を試みることにした。
 まず、外部から入ってくるケーブルをネットワーク装置から引き抜き、それを制御端末の第1コネクタに、そして制御端末の第二コネクタと引き抜いて開いた状態のネットワーク装置との間を手持ちのケーブルで接続した。 「よし、これでパケットコントロールできる。」良治は普通の人は使わないようなキーボードのオルトキーやファンクションキーを多用しながら、素早くパケットを制御端末上に表示させると、さきほど疑問に思ったプログラムパケットの通過を遮断した。すると、ネットワーク機器の信号が赤色からオレンジ色の点滅に変化した。
「どうやらプログラムパケットが原因か・・・しかし、ここにある機器は全てUS製で、国産機のようなプログラムパケットを解釈する機能は持っていないはず。ということは、外部に大量に出回っているプログラムパケットが他のパケットの通信を邪魔していると考えるのが妥当だな。」
 良治は端末を眺めながら数分考え込むと、ハッキリと目を見開いて、大きな声で独り言を叫んだ。「プログラムパケットを通過させないためにファイアーウォール設定ができれば、内部ネットワークは全て安全な状態を取り戻せるぞ。」 
同じネットワーク管理室内の本棚に並べられ大量のマニュアル類の前に立った良治は、右から順に一冊ずつ辿っていき、途中にある機器の設定用リファレンスを見つけ、素早く取り出した。そして、プログラムパケットの棄却方法に関するファイアウォール設定の方法を探すために音を立てながらページをめくった。
「よし、これだ・・・」良治はワイヤー接続中のネットワーク機器にリファレンス通りのコマンドを打ち込むと、第1コネクタと第2コネクタのケーブルをそれぞれ引き抜き、元の状態にした。
「よし、いけるぞ」良治のファイアーウォール設定によって、ネットワーク機器の内部向けのLED表示は緑とオレンジの点滅に変わった。それを見届けた良治は、以前自分が勤めていた会社の研究所に行かなければならないと考えていた。ネットワーク管理室を出ると、すばやく杉下に状況の報告を行った。
「ネットワークが輻輳状態にある原因と考えられるパケットの種類が判明しました。プログラム専用パケットです。このパケットは国産の中規模以上のネットワーク機器の殆どにに採用されている機能で、日本の企業がこのパケットの特許を取得しています。このパケットはもともと他のパケットに比べて優先度が高い上に大量に流れているため、他のパケットが極端に通過しにくい状況になっていると考えられます。解決方法はネットワーク機器にファイアーウォール設定を施すことです。今、INCOの内部ネットワークは殆ど影響を受けなくなりました。」
杉下は、解決方法が判った良治の話を真剣で誠実な顔をしながら聞くと、「特許を持っている企業は?」と尋ねた。
 「Nテクノロジーです。」この機能を持ったハードウェアは殆どがNテクノロジーが販売したものです。Nテクノロジーの本社に顧客DBがあるはずですので、全ての製品にファイアーウォール設定をすれば事態は収拾できると思われます。」
 うなずいていた杉下だったが、はっとして良治に反論した。「ちょっと待て、どうやって世界中のネットワーク管理者に設定方法を知らせるんだ?現状では外部ネットワークは使えないままじゃないのか?」
「そうです。今のところ、該当機器を辿りながら修正するしか方法がありません。プログラムパケットの中身を解析すれば、何か別の方法が見つかるかもしれませんが・・・自分が以前勤めていたNテクノロジーのラボに行く必要があると思います。」
 杉下は目を丸くしながら困惑した表情を見せたが、「所長には事後承諾でいいから、今回の対策についてレポートを提出してから行ってくれ。」と告げた。
 「わかりました」

 良治はまだこの状況の打開策について考え続けていた。ネットワーク機器が音声や放送などの多種多様な信号を単一で取り扱っている事がこの状況を引き起こしている事は間違いなかった。良治は、「これで、インフラ整備の方針は変わる事になるだろうな」と事後対策の得意な政府の方針転換を嘆きながらレポートを作成し始めた。

1.コントロール

 無人交通というものはラッシュアワーに詰め込めるだけの人を無理矢理押し込んで運んではくれない。客室が制限重量以上になると、はっきりした丁寧な警告メッセージを伝え続けて発車しないだけだ。

 今日も丁度満員の客室で揺られている洋子は、昨日と全く同じ十代の頃の通学風景を頭に浮かべていた。
 「しまった。」

 職場まであと二駅というところで、夕食の準備をしていなかった事を思い出した洋子は、慌ててヘッドフォンの先に接続されているスライド式の携帯端末を顔のすぐそばで開け、8つのメニューからカロリーが中くらいのチキンソテーを選択しようとタッチパネルに触れた。

「めずらしいわ・・・」

 路線上のネットワーク端末の最大接続数は数千台はいけるはずだ。乗車中の人々が全てインタラクティブ映画の鑑賞をしているのならともかく、たかだか夕食のデリバリー予約にこれほど返事が遅くなるはずがない。洋子は携帯端末の契約時に故障保険をケチった自分が悪くなかったと思いたい一心でスライド式端末を優しく叩いてみた。

 数秒後、「ご予約を承りました」と画面上に表示が現れた。

「よかった。今日はサプリメントにしたくなかったから」

 洋子は小さな喜びと何か腑に落ちない不安感を一度に味わいながら目的の駅である種の息苦しさから解放された。
 一週間後に発表予定だった新しいボット対策プログラムの性能試験のため、昼夜を逆転させているノーマンは日本人以上に働くと評価されているイギリス人である。通常のウィルス対策ソフトのような簡単な性能試験であれば学生アルバイトでも十分対応できるが、ボット対策ソフトの試験になると特別な技術が必要になる。
 ボットは人間のPC操作を真似た動作信号をネットワーク上に流すため、ボット対策ソフトは、コンピュータの計算速度と比較すればとてつもなく長い時間ネットワーク上の信号を測定し続けて信号の送り主がボットなのか人間なのかを識別する事になる。しかも、できるだけ多くの種類のボットに対応できる事が売りの今回の対策ソフトは、測定周期を無数のパターンに変更しながらネットワーク上に乱れ飛ぶ信号がボットによるものか人間の操作によるものかを類推する。ほんの1時間観察しただけでボットによる信号である事が見分けられるようになれば、ボット制作者の目的を大きく阻害し、この企業は当面の間資金調達に苦労しなくなるだろう。そのためには創造性と言ってもいいカンを徹底的に働かせながこのソフトウェアの性能試験を行うこになる。
 ノーマンはこの2週間で数百パターンのボットプログラムと自身の操作信号を対策ソフトウェアに連続的に通過させる実験を繰り返していた。
 「ノーマン、おはよ、っていうより今晩はになってる?」

 疲れた外国人が一人しか居なかったオフィスに入ってきた洋子はストレートの黒髪を耳の後ろに流しながら明るい声で呼びかけた。

「はい、もうこんな時間ですね。そろそろ休憩しようと思っています。」

 ノーマンの日本語は発音も良く、殆ど標準語しか使わない。おそらく日本ではなく、イギリス在住の時に仕込んだのだろう。
 洋子はコーヒーサーバ向かいながらノーマンの休憩の事を聞かなかったように話しを続けた。

「ねえノーマン、今朝電車の中で私の携帯端末の接続が遅かったんだけど、原因思いつく?」

 両手に持ったコーヒーカップの片方をペンタブレットの横に置きながら画面に向かうノーマンに洋子は訪ねてみた。
 「私は一昨日からボット対策ソフトのテストをしていましたので・・・」

 訪ねたことが、自分の仕事への興味のなさがこの優秀な同僚に悟られたのではと思いながらも、負けずに洋子は続けた。

「会社の他の人は何か言ってなかった?」
 2つめの質問とコーヒーの香りで完全にPCに向かう気がなくなっていたノーマンは自作ボットのログを保存した後、PCのシャットダウン処理をしながらコーヒーを持ち、洋子の方を向いて丁寧に答えた。

「ポータブル(携帯端末)のOSは最新ですか?」
 「私の携帯は先週買い換えたばかりで、OSの修正プログラムはまだ出ていないわ。それに携帯のOSは消費者向けのAタイプだし。多分OSが原因じゃないと思うわ。」

 自分もコンピュータ企業の一員であることを主張するようにやや強めの口調で洋子が答えた。
「ごめんなさい。今週中に対策ソフトの検証を終える予定で勤務時間が他の人とあっていなかったので、ネットの状況はわかりません。コーヒーありがとう。」
 ノーマンはPCの電源が切れるのを見届けた後、カップを持ったまま洋子にゆっくり視線を送りながら仮眠室に向かった。

 良治は政府の外郭団体である情報ネットワーク危機管理機構(INCO)に勤めて4年になる。その日常はアメリカから発信されてくるワームやウィルスの発生情報及び駆除対策について日本語に翻訳してWebに掲載する作業が殆どである。勤務シフトはフレックスタイム制であるが、モバイルPCを持っていれば地球の裏側でも仕事ができる。自由なライフスタイルを望んでこの職業を選択していたが、正直ここ最近は飽きてきている。自身が興味を持っていた産業機械向けの組み込みソフトウェアの開発を仕事にすればよかったと思うことがしばしばである。
 良治は自宅ではなく今日は勤務先の自分専用オフィスで作業月報を打ち込んでいた。
 「音声認識より絶対キーボードだ。キーボードならこうやって独り言が言える・・・」

 と、得意の独り言を言いながら、滑らかなタイピングで先月発生した120件ほどのワーム、ウィルス情報をまとめていると、突然机の隅にあって勤務し始めてから4年間全く稼働しなかったFAXがビー、カタカタっと音を立て始めた。
 「何だ?そういえば今日はUSからのレポート無いよな」良治はまた独り言を言いながら、信じられないくらいのスローペースで出力されてくる丸まった記録紙を覗き込んでみた。すると、「Security Alert」という大きなゴシック体の文字が目に飛び込んだ。
 このFAXはまだインターネットが普及を始めた時代に回線を機械的なスイッチで切り替えながら接続する方式になっていて、通信時には一時的に直通の回線が形成される。INCOは、アメリカや韓国など、ウィルスが多発する海外各所に駐在員を置き、ネットワークが使用できない緊急時(バックアップ回線が無数にはりめぐらされている今日ではまずあり得ない状況)に対応するための非常通信手段として置かれているが、内情は廃棄予算を計上するのが面倒で今日まで放置されてきた代物だ。
 良治は英文のFAXに目を通すと、すかさずUS駐在員同士のチャットルームとWebサイトを確認するため、素早くタッチペンを操作した。

「つながらない・・韓国もインドも同様だ。しかし、日本のサイトはまだつながるようだ。」
 良治はこんな時のために危機管理研修を何度も受けさせられてきたが、いざとなるとオフィスを飛び出して今日が休暇だったと後で上司に報告したい気持ちになった。
 デスクのPCのセカンドディスプレイ上にインタラクティブTVを起動し、USのチャンネルに切り替えてみると、そこにはただ黒い画面だけしか見えてこなかった。

「こっちもダメか・・・」
 PCにインストールされている所内放送ソフトを起動し、パスワードを入力し終えると、イヤフォンマイクのマイク部分を慎重に口元近づけて、急ぎながらもはっきりとした口調で所員の招集を呼びかけた。「ネットワーク事故発生、USよりFAX受信、所員は第1会議室に集合」言い終わって放送用ソフトを終了した瞬間、接続できていたはずの日本のWebサイトの自動更新画像のフリーズが目に入った。

「リロードできなくなった。何が起こってるんだ!」

 良治はデスクの反対側にあるスチールロッカーに走り寄り、ロッカー内の中段にある四角いプレートの付いたステンレス製の小さい扉の前に立った。首に掛けていた磁気誘導方式のカードキーを扉の正面に近づけると指紋認証用のプレートが青く発色した。親指を押しつけると、

「音声を記録します、あなたの名前を言ってください。」

 と聞き慣れないナレーションが静かな部屋に響いた。

「真宮良治」・・・
 小さな扉の中にはINCO所内の全てのルータ及びネットワーク監視ユニットの接続パスワードが入った操作端末がある。充電済みの予備バッテリーと、普段使っているノートPCを両脇に抱え、良治はオフィスの扉を開けた。
 第一会議室には今朝から勤務している3名の職員が既にテーブルを囲んでいた。所長の澤木信二は、内閣官房及び防衛省との連絡係として兼務発令されている官僚である。澤木
と既に話し込んでいる男は良治の上司で民間ソフトウェアの調査及び評価を担当している杉下亮一であった。同僚で広報を担当している伊藤恵美子は、不安そうな顔をしながらテーブルに片方の手をつきながら直ぐにでも立ち上がれる姿勢で待っていた。
 「半数も居ませんね。」

 良治は今発生している状況に対して懐疑的な自身の心境にとまどうことなく、杉下にFAX文書を手渡すと技術責任者として冷静に話を始めた。
 「US駐在所からのFAX文書では、数時間前にネットワーク網が完全に利用できなくなり、外部との通信手段が失われたそうです。このFAX文書が届いた事はネットワークが完全に使えなくなった証拠とも言えます。今回のネットワーク事故の特徴は建物内のネットワーク設備への内部からのアクセスはさほど問題が無く、ネットワークデータの計測もできるとの事です。外部ネットワークは慢性的な輻輳状態となっており、バックアップラインも全て同様になっている模様です。この状況が数分前には日本国内でも発生していると自分も考
えています。一秒でも早い段階でレッドアラート(危機に直面している状況をネットワーク管理法で客観的事実に基づき定めた脅威段階の最高レベル)の緊急公告をする必要があります。」
 澤木は小太りな男で、椅子の肘掛けぎりぎりのお腹を横にひねりながら良治の上司に目を向け口を開いた。「そこまでの緊急事態だと杉下君も考えるのか?」

 杉下ははっきりとしない気持ちをほんの少し首を傾けることで表現していたが、指名された瞬間に澤木の顔を見据え、

「はっきりした事は直ぐに調査するとして、人の動きがあまり見受けられないビル周辺の状況や、出勤予定の職員が到着していない事も考えれば、早い段階のレッドアラートは必要と考えます。」と応じた。
 「わかった、内閣官房への緊急連絡回線を起動してくれ。」

 小太りの男は長方形の会議室の壁面にあるセンターパネルのディスプレイに自分の身体を向けるために椅子180度回転させた。
 良治は回線を起動するために自分の部屋から持ち出した携帯端末をセンターパネルに向けると、赤外線通信機能でソフトウェアを起動すると、音声によるパスワード入力状態に
した。直ぐに澤木によるパスワード解除がなされ、内閣官房の危機管理室に接続中であることを示すメッセージがパネルに映し出された。残りの3名もディスプレイを覗き込んで
いたが、そのメッセージが10秒経っても変わらない事から直ぐに互いの顔を見合わせ始めた。
 良治は緊急回線が使えない現実を、これこそ素人のお役所仕事だと所長にぶつける気持ちで説明をした。

「考えにくい事ですが、官邸の内部ネットワークが被害に合っているかうちの内部のネットワークが既に使えなくなっている可能性が高いと思われます。官邸までは無人交通で20分ほどで行ける。直接行くべきです。」
 澤木はINCOの所長として2年目の勤務であるが、普通官僚は2年の勤務で次の職場に転属される。転勤を重ねるごとにより大きな部署をまかされるのだが、こんな予算の少ない部門で事故などは絶対起こしたくなかった。ましてや法学を志した自分がウィルスだのプログラムだのといった自分の肌に全く合わないこの職場で不祥事を起こすことは心情的に許されない事であった。

「よし、伊藤君一緒に官邸まで行ってくれ。」
 今まで場違いな感じを持っていて、直ぐに逃げ出したい気分だった伊藤は少しだけ口を横に大きめに開きながら素直に「はい、お供します」と返事をした。伊藤は、絶対外に出
た方が気分が良くなる。大嫌いな所長のお供でもビルの中はイヤだと思っていた。
 所長の結論が出た直後、低い声も会議室に響いた。

「私と長瀬でネットワークの状況について調査を進めますので、承認願います。」
 澤木は椅子から立ち上がって歩きながら、「ありがとう、進めておいてくれ」と答えたが、行く手を良治が塞いだ。「所長、調査するためにレベル6のIDを発行してください
。」良治は、この利己的な官僚の不甲斐なさにあきれる思いを押し殺してメモ用紙とペンを渡し、レベル6のIDを受け取った。
おそらく最も早い段階でネットワーク異常を体験したプログラマーであろう洋子は、仮眠室で横になろうとしたノーマンを直ぐに呼び出し、二人で社内のネットワーク管理室に入っていた。「やっぱり原因の特定ができないわ、もう一度ネットワークを再起動するわよ。」洋子は使い慣れた自分のノートPCの中にある数本のソフトウェアを立ち上げた状態でネットワーク機器から数メートル離れている開けっ放しの電源ボックスに向かった。「いい、ノーマン、電源を入れるときのソフトの様子をよく確認しておいて。」と冷却ファンとエアコンの音でかき消されないような大声で叫ぶと、スチール製の板に並んでいる左に倒れたブレーカの一つを選び、力を入れながら右に倒した。そして、数秒心の中で数えた後にスイッチを元の状態に戻すと、お気に入りのノートPCに走り寄った。
「スタートメッセージの途中で、画面の動きが止まりました。オペレーティングシステムは起動できている様ですが、通信が始まると動作が止まるようです。」ノーマンは正確な状況を可能な限り丁寧な言葉で洋子に伝えた。
「そうね。じゃあ、外部接続回線をはずしていきましょう。」ネットワーク機器の外部回線は20本ほどの光ファイバーケーブルがあり、それぞれ様々な相手と物理的な経路を構成している。洋子はノートPCの画面の状況を再びノーマンに託すと、様々な色をした光ファイバケーブルを一本ずつ抜き始めた。外していないケーブルが残り数本になった時、ノーマンが「動き始めました」と大声で洋子に向かって叫んだ。

「わかった。どのケーブルが原因か突き止めるわ。」

 洋子の戦いが始まった。

オフィスビルや高層マンションには洋子が苦戦しているようなネットワーク機器を収納する専用の部屋が殆どの場合設置されている。 ネットワーク通信網は、電気のように受益者と供給者の立場がはっきりと保たれた質量的なインフラとは異なり、プライベートとパブリックの二面性を強く持ちながら無作為に進化してきた。誰もがその気になれば簡単に壊せてしまいそうなこのインフラを維持するのは、国際的な条約と各国で定められたネットワーク関連法によるものである。そのため、民官問わず、ネットワークは自己防衛するものが当然と考えられている。
 ネットワークを守るための小部屋は、二十数度の低温が維持され、人間が入るためには2回以上のパスワードとバイオメトリックス認証が求められた上に、音声や高精細な全身写真を記録されなければ入室できないようになっている。
 澤木と伊藤の向かった首相官邸には、国家間の機密情報を受発信しているための、最も厳重なセキュリティレベルが設定されたネットワーク管理室がある。太陽光が全く入ってこないその部屋にあるネットワーク機器には通信ケーブル一本一本の状態を示す数百に及ぶLEDランプが常時点滅している。小さな光の絶え間ない瞬きは整然と並んでいるのだが、照明器具を点灯していない状態ではまるでビルの屋上から眺める夜景のようにも見える。光の色は通常緑色とオレンジの点滅で通信状況を示しているが、回線が混雑するとオレンジ色が支配的になる。そして、異常が発生した場合には赤色の発色になることで回線不良をエンジニアにはっきりと知らせてくれる。
 洋子が自社の小部屋で外部ネットワークの異常を突き止めた頃、官邸の薄暗い部屋の瞬きは次第に赤色に染まっていった。

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