と、言う日記を5月24日くらいに下書き保存。
今日まで続いてます、体重、摂取カロリーの記録、と摂食の心がけ、早起きの心がけ。
宣言としては下の事をやるつもりだったらしい。

1. ダイエット
2. 早起き
3. twitter, facebookなど

これ生活改善か?生身の体を含めての身辺整理といったつもりなんだろう、そうだろう。

1.ダイエット
43.5~44.5をさまよっている、なう、だったのが5月2(ry

43.0になったZEなう!
さまよっていた時期は体内環境変化中だったのか体重はほとんど落ちず。

って、毎日体重計に乗るワケではないのでそこんとこ記録はアレなんですが。

理由は体内の変化を数字ベースでなくてなるべく体で感じたい、という事です。
いや、それ数字も取って、ちゃんと体感と相関するのかを確かめろ、って感じなんですけどね。

反省とダイエットについては別記します。


2.早起き
ほとんどできてないよ、オイ。睡眠欲が半端ねえ。

まぁ多少は早目倒しな感じで起きてますけども、想像していた6時とか5時とかはまだまだ…。
実験で夜遅くなる傾向があるし、睡眠時間とらないといけない、となれば、実験終了時刻をいじらないとダメですね。睡眠時間はどうやら削れないみたいなんで。今後の体づくり次第でもありますが。


3. twitter
は使ってる。結構。有効活用、まではいかんが。でもfacebookはドンマイな感じ!うほう!


mixiの機能改悪したり、そもそも日記を書かなくなってたりしてうまくcommitしなくなっているからこそ、こっちで亢進頑張りたいですな。お、宝くじ資料(学振)書いてたせいで、時々文字変換がおかしいです。

更新。

ブルーすぎる、連休明け。

体はだるいし、頭もアンクリアー、強い焦燥感。
毎日、やるべき事をやってないない、という焦りの蓄積が恐怖を増産する。
休み明けで、それをますます痛感してしまう。

まぁ、ラボで手を動かし始めれば、出来る事をやるしかないということに改めて気付き、
すっと気分が晴れていくもんだというのも分かっているものの、
漠然とした焦りはぬぐえない。

毎日毎日、実はしんどい。

今は、恋もとてもうまく行っていて、幸せいっぱいで、その幸せが私を前に進ませてくれるけれども、
毎日の恐怖の前では、当然のことながら麻薬効果でしかない事もあって、誤魔化せば誤魔化すほど、
恐怖は増すばかり。

毎日の事は、毎日解決するしかない。

何よりも、人より頭悪い癖に研究なんて言う頭が廻らないといけないところに来て、
なのに勉強もしないでふつふつと毎日を無駄遣いして、
のほほんとしながら、やさしい人たちに甘やかされて、
こうやって追われることに慣れないまま、なんとなく毎日をやり過ごす。

こんな風にしていたら、人生を無駄遣いしてしまう。

でも、今ここから逃げ出すことは出来ない。
今ここで逃げだすということは、私の問題に対するソリューションが「誤魔化して逃げる」
であることを証明する事にしかならない。

だからとにかく、じっと自分を見ながら、焦りながら、「頑張る」ことが何をする事なのかを見極められるように、努力しよう。

ふう、いやもうこれ完全に鬱だろw
と思いつつ、書いたらちょっと落ち着く。

とにかく時間がない。

そのなかで大事なものをとことん大事にしよう。



うおおおお、だらだらしてええええーーー。
子どもの頃、親たちが車の中でさんざんかけ続け、聞きまくった、うんざりしながらもいい歌だと思ったもの。

の一つに、さだまさしの有名な歌がある。その中の、


相手に求め続けてゆくものが恋 奪うのが恋 与え続けてゆくものが愛 変わらぬ愛


と言ってるところ、コレすごいわー、と今頃がっつし琴線に触れてしまったようで。
(コレ、前半の歌詞も素晴らしく鋭く、暖かいよ。)

子どもながらに、ああ、そんなもんか、ま、オトナって大変だよね!と思っていたけど、
だんだんと腑に落ちてくる今日この頃、私も年をとりました…。

奪ってばかり、ほしいばかりなんだな、と反省してしまうわけです、なう。

恋愛の初期なんて、誰もがそうと言ってしまえばその通りだけど、なんていうか、
やっぱり愛されたいじゃない。

でも、あまりにそれが暴走するのはね…。

例えば、
その人が笑ってくれる、その理由が私であったらいいのに。
は微笑ましいとしても、
その人が笑ってくれる、その理由が私だけだったらいいのに。
となった瞬間に、なんかアレな感じ。


そういう事を続けると、
その人に関する出来ごとの全ての理由が私であったらいいのに、
みたいな発想につながり、果ては軟禁、みたいな、いやそれ寡占ですか、
という状況になりますね。

でも、はじまりは、
「私をみていてほしい、ちょっとでいいから」
という、なんともかわいいものなのに、おかしな話ね。
いや、おかしなことにしてんのは無駄に増え続ける、欲望。

ここで、悪い理由(背景)は二つあるんじゃないか、と自分は考える。

まず一つ目。
そんなに欲しいなんて、どう考えても、(恋愛以外に)他に世界がないんじゃないか。
あるいは他の世界でうまくいっていない。
こういうことに人が絡むと、大抵、その人との間にある距離感に甘え、頼り頼られ、ということで何かを満たした気になってしまうんじゃないだろうか。

そして二つ目は、なんでもかんでも、希望を突き抜けさせりゃいいってもんじゃないんだな(当たり前。これできなかったら犯罪者なんじゃ…。)。そういう「社会との整合性」と言う意味で「突き抜けない方がいい」という段階まで行かなくても、何ていうか、精神を上手にいい感じに保つのに、ある一定でとどまる、ってのはすごく大事な事の一つなんだな、と。
(もちろん、突き抜けた方がいい事もたくさんあると思う。)
ただ問題なのは、職業柄、「興味を突き詰める」事をよしとしていると、なんだか、突き詰めずにはいられない、みたいになってしまうんだな。

だから、何は突き詰めてよくて、何はつきつめずに宙ぶらりんでいなくてはいけないか、を慎重に選ばないといけないわけだ。もちろん、センスでうまい具合に無意識的に出来る人もいるんだろうけど、出来ない私は、意識して、私の望まない方向に行かないようにしなくてはいけない。

ただ、何をどこまでやるのか、を判断する際に、全体で「この程度でとどめるとbetter」まで見るのはとても難しい気がしてくる。
よほど俯瞰的な立場にいないと分かんないじゃないか…っていう。

少なくとも私は出来ない。
そして多くの人は出来ないんじゃないだろうか。(だから、実のところ見ているのではなく、直感とかセンス、なんだろうか?)

まぁ、「全体でどうなのか」という勘定の仕方が間違っているかもしれないんですけども。
(でも短絡的に「いまがよければすべてEEEEEE!」っていうのは損な気がする…。)

とにかく、バランス良く、うまく、適度に、っていうのは、簡単そうに見えて実はすごく難しいんだな、と痛感したわけです。


いや、何が言いたかったのかと言うとね。

[MAD]べジータが絶対に言わないこと18-相撲の特訓-
http://www.youtube.com/watch?v=DselO5XAqlo


「その例外であってはならない」。
って逝って頂点を極めることに専心する(という突き抜け)は、
恋愛において良くないですよね、と言う事を思ったわけです、このすばらしい動画を見て。
生命科学をやる人々は、しばしば、実験にて「固定」をする。

これは生きた細胞あるいは個体そのものを、なるべく生きた状態に近い形で保存する、というものだと思う。
始めてこれを聞いた時(多分中学?)、瞬時にこう思ったのを良く覚えている。
「いや、死んでるし。生きたままって、いや、だいぶ違うでしょ。」

そう。身も蓋もないけど、生きたままに近いって、なんだよ?と思ってしまったわけだ。
解りやすい固定の例としては、ホルマリン漬とかかと思う。今、私がここから簡単に連想出来る、「生きた状態と変わらない事」と言ったら、

「外見が変わっていないように見える」
とか
「腐らない」

つまり、たゆみなく動いている生命としての時間を止める、事なんだな。と。(あれ、当たり前感が全開だ!)

でも、良く考えると、固定された時点で、その物体は死んだわけで、たゆみなく動いている世界とは違う世界になってしまったわけだ。でも、その違う世界が今自分らがいるたゆみなく動的な世界と同じ時間軸に存在している、と思うと、あれ、ちょっとかっこよくね?と思いました。

すごいね。
つまり
「いま、今この瞬間を止めて、その状態を良くみたい!どうなっているのかを知りたい!」

というのが固定と言う事なんですね。と自己完結。

といっても、まぁ、死んだ瞬間に分子レベルではすごい勢いでエネルギーを失い、様々なものがどんどん失われていく、という動的な状況を辿るわけで、結局は、大まかな所では時間が止まっているように見えているだけ、本当は、物質としての動的な状態は決して失われない。
というもう収拾のつきずらい倫理的な方向へ行っちゃうので、それはこの辺で終わりにしておこう。

いや、言いたかったのは何かと言うと、今日、発生が進んでいる途中のマウス胚を固定して核を観察してたんだけども、分裂中期にあたる細胞がいっぱいいたのです。
発生初期は非常に細胞分裂が盛んで、当然、ある一定の時期で固定した際に分裂途中の細胞がいる確立も高いわけ。だから当たり前なんだけど、生きようと一生懸命時間を進めている細胞をさっと薬でがんじがらめにして、時間を止めてしまった事に、ちょっとだけムネがきゅんとしてしまったわけです。

や、べつに細胞は確固たる意志あって「がんばった」訳じゃないと思うんですが。
あくまで主観的なことに勝手にシンパシーを感じて胸キュンしてたわけだけど、
これって例のポンペイと同じかなって思ったらちょっとやっぱり切ないな、みたいな。
ヴェスヴィオ火山の噴火が一瞬で一個の街を飲み込んで、そこにいた人たちの生活を一変に止めてとどめて、私たちのいる時間まで運んでしまった。

ああなんか、すごいな。
っていう勝手なシンパシーを感じながら、顕微鏡覗いていた今日、華金。未だ私はラボにいる。
修士論文を無事提出、発表も無事終了、ついでに休暇も十分とって、
帰福、そしてラボ生活再開。

二日目の今日、火曜日。

今までは、色々あって所属が二つの学校にまたがっていて、私としてはどことなく、どっちつかずな気がして落ちつかなかった、というのが正直な感想である。

でも、今回の発表を終えたことで、一つの所属に幕を引くことになった。

私には、もう、ここしかない、という焦り。
私は、私が必死に選んで、なんとかして手に入れた私の成長にとってとても大事な場所を、
自分の意思で離れた、という事実。

その選択については、私は自分の直感から、その帰趨は必ず私を満足させうる、と信じているけれども、正解がどこにもない事には改めて愕然とする。

そもそも、私の直感は果たして、長い年月の間、きちんと磨かれていて、意味をなせる程に私の中に大きく存在していただろうか。私はきちんと考えて(もちろん考えたけれど)判断を下せたのだろうか。
ダウトをかけることはできても、それを確かめる方法はない。
すべて私の判断に寄ってしまうからこそ、自己満足でない、と言えるようなふぇーずに
思考を働かせなくてはならない、と言う事なんだろか。

解らない事は分からないままだけれど、向き合い続ける事が私に意味をなす、と信じている。
適当では当然駄目だけれど…。

ただ、一連の流れの中で、傾向として、どうしていいかわからないときに、私がしたいと思う事、の一例は理解する事が出来た。
それは、「第一感」めいた、直感を信じることと、納得は出来ないその事実を納得できるまで、納得に足るようなパーツをその環境から拾い集める事。

正しいとかそういう事はどこにもないのは分かるけれど、誰かに肯定してほしい、とつい甘えてしまう。
でも本当は、それを「正解」にすること、そして努力を惜しまずに日々私に刺激を加えて、ある種痛めつけて(アレ、ドMかこれw)、私のレスポンスをじっと見守り続けることが、
どこにいても、私がしなくてはいけない事なんだろうな、と思う。

今は、感傷なのか、ただ、
あの場所がもう今までのように私の中に存在しえない事を、切なく思うのだった。

私を育ててくれた全ての人に、心から感謝したいです。
そして、私がそれをきちんと返せるように、成長する事、がんばる、と簡単に言わずに努力する事を、忘れずに持っていたいです。それだけが、私が感謝を行動として示せる手段だと思うからです。

私のもらったものをいつか還元出来るようになるまで、
常に私にダウトをかける事を忘れずに、
きちんと種蒔いて日々を生きなくてはいけないな、と
強く思った最近なのでした。

うーん、今で書いてきた記事と内容的には同じ事言ってるな~新しいideaはあんまりないな~…。
まぁ、メモと反芻ということにしておこう。

人付き合いは本当に難しですね。


心の底では相手に理解されたい、分かってほしい、共有したい、あるいは、分かっている、ここまでは大丈夫

そんな風に思っていても、

踏み込みすぎたり、少しのズレや、マナーを守ることへのわずかな怠慢が出ると、親しき仲にも礼儀あり、の精神に反目する。


そういうちょっとしたずれで何か軋轢が生まれるという事態に遭遇した時の対策は、いわゆる、ケースバイケースだとは思うのですが、

私が大事にしている事を自己満足で書こうと思います。


最近の私のモットーの中には

「あやまりすぎない」

「嫌なことはNOと言う」

「我慢して鬱憤をためるよりは、有効な情報を得るために言いたい事を言う」

というようなものがありまして、これはすべて、誠実でありたい、ということから来ています。


一個ずつ理由を書きます。


まず、すいません、ごめんなさい、と謝ることは、悪いと思ったことに対する謝罪であり、相手に、自分に非があることをさしあたり分かってもらうためのマジックワードでしかない、と思います。

普通、反省する、と言うのは、状況を理解し、原因を突き止めて、それを改善するところまで行って初めて完遂されるものなのではないかと。でもって、改善は今すぐ直ちにできるものもあれば、多少時間が狩るものもある。で、時間がかかる場合、今すぐに「自分が反省していることを証明」することはできないので、なのでとりあえずごめんなさいと「言っておく」。


つまり、すいません、と言うだけでは、当然ながら、悪いと思ったことを改善、あるいは向上させる方向にはいかないので、何度もすいませんと言う暇があったら、改善の方法を考えないとね、と思ったわけです。


あと連呼しすぎすると馬鹿にしてるみたいだしね。



次に

内心ヤなのに、相手に好かれたいとか、一時的な友好を重視して、「いいよ」と言った場合、

プライドの高い私は、最終的には、自分が多少でも譲歩した分の見返りが欲しいと思っているわけです。

嫌な思いしたんだから、あんたも当然それ相応のリスクを払って当然だ、とゆーね。

でもそういう考えって実は傲慢ではないかな、とも思ったのです。

なぜなら、そういう「対価」を求めている行為自体が、内心、その物事に対して

「私とあなたは同じようにその物事に関して感じ、評価し、かつ理解している。そのうえで、それがどういった負担になるか、譲歩になっているかを分かっているのにあなたはそれを負わせた」

と宣言しているのと同じであり、つまりそれは価値観を押し付けているのと一緒なんじゃーなかろうか、と思ったからです。



次に、表面上、簡単に「いいよー」と言ってしまった場合、本当にいいと思っている時と、多少譲歩している時の二通りがあると思うので、前者ならともかく、後者だと、なんとなくフラストレーションがたまって、どっかで、

あの時私は我慢したのに、

と思ってしまうわけだ。


そういうのって微妙ですよね、なんていうか自爆と言うか。


なので、最初から自分の価値観を押し付けて、実は押し付けるどころか理解すらされてなかった、配慮されなかった、と苦しむよりも、

自分がどういうスタンスなのか、これに関して、あなたとどう違って考え、感じているのか、を先に伝えることが、

「NO」なのだな、と思ったからです。


相手の考えを尊重する、というのが前提ですけども、普通、さすがにそこまで無視する人はいないんじゃないかと・・・いたら何か別の方法を考えないといけませんね。



んでもってさらに、「言いたい事を言う。」

ってこれはもう上のやつと同じです。要は、Noだけではなくて、具体的に、どうあってほしいのか、提示することも必要なときは必要でしょう、と言う事です。


そもそも不理解が生じている時は。「お互いが考え、感じていることが実は違う」という事に気づいていないことも多いんでないかと思います。

なので、違いを分かるためには、お互いの思いを外に吐き出して、どういう風に思っているのか、というのを情報として処理していくべきだと思います、感情的になる前に。

いや、なってもいいと思うけども。

なにはともあれ、相手がわかってくれてない、と、自分がどう感じているのかも説明せずに、勝手に判断して、勝手に切れる、というのは相手に対して不誠実だな、と思うのです。


そゆーのを人に平気で出来るというのは、

「相手は自分に何かしらひどい事をしたんだから、そのことに対して何らかのぱにっしゅめんと(アタるなど等)、を受けるのは当然だ」

というやはりなんだか勝手に審判?的傲慢な態度な気がするし、

あるいは、

「相手は自分にとって取るに足らない、そういう事をしても許される下等な状況にいる」

と判断して自分の気持ちを紛らわせたり、あるいは単に、そういう風に扱ってもいい存在がいることに甘えている、という、なんだかreasonableでない何かなんではなかろーか、と思います。


ていうことで、まぁ、そういう不誠実な態度、を取らないために、

上記のように

「あやまりすぎずに、言いたいことは主張する」

ことをきちんとしようかな、と思っているわけです。


でもまぁ、主張しっぱなしじゃいけませんけどね。

聞くことも大事ですよね。

感情的になっていると難しいですけどね、ホントすごく。


とにかく、何かずれ、が生まれた時、感じた時は、

しっかり情報をゲットして、ディスカッションしましょう、と思う今日この頃だという事です。

私はおよそ空気を読まない。

読めない、と書かないことで、奢っているようにも聞こえるだろう。

うぬぼれながら書かせてもらえれば、そういう事だと思う。

しかし、読めるけど読まない、を実行したところで、

読めないから、何もできない、と結果は何も変わらない。

つまり、私は空気の読めない人です。


別にその事を自慢したいわけではなくて、

今相手がだいたいどういう気持なのか、が分かる、でもそれに対してどうにもできない、

という何も生み出しえない状況でおろおろするのをやめよう、という決意をしましたという報告がしたいだけです。


繰り返しになってしまうけれど、私は、

読めるけど、読まない、からして、つまり読めない人、アビリティーがそもそもない人たちとは同義でない、と言いたいのではないです。


さて、ここから少し頭を整理すべく問題提起を。

1. 定義がわからん

そもそも、実を言えば、どこまでが空気が読めない、という状況と呼ぶにふさわしいのか、という定義がよくわからないという、もはや前提を覆して空気読めてないんじゃないか的な空気を出せる疑問があります、私には。


なぜならば、それは人としてどうか、という問いになってしまうような、つまりそれはマナー違反の事を言っているのか?と思う範囲における「場にそぐわない」発言、が含まれることもあるだろうし、ちょっとした会話のすれ違いみたいなものを見て、ああ、空気読めてねーなー、と思うことも含まれ得ると思う。


多分、日常会話で、ちょこっとしたすれ違いみたいなものを「空気の読めない」状況だと、認識してるのではないかと思うんですけども。



2. 所謂空気が読めない、という病気に悩まされている人はどれくらいいるのか


そもそも、あからさまに空気の読めない人なんて、今の世の中にどれくらいいるんだろうか?

みんな、ちょっとずれた発言をする人を見ては、ちょっとなじって見ただけ、なんじゃないだろうか・・・?



3.そもそも空気を読む、ということがあったとして、それはどれくらい必要な事なのか


そもそも空気を読むことにどれだけ価値があるのか、というのも良く分かりません。

会話にある一定の方向性や目的性があって、達成しなければならない何かがあったら、それは「空気の読めない」発言からもたらされたデメリットは排除対象になりえると思うんですけど、それ以外は何ていうか、会話の中にある事なら、個性、とかそういうものに分類されるんじゃないでしょうか?


それに、私的な関係の中で迷惑だと思う事態が度々発生するのであれば、注意したり、つきあうのをやめたりすればいいわけで、「空気読めないね」なんていう建設的でない愚痴を言ってもなにもいい事ないような気がしたりするわけです。あくまで個人的感想ですけども。



まぁ、総合して言えば、空気の読めない奴め、という状況をあんまりクリアーに思い浮かべられない世間知らずな私なわけです。そして、今は空気読めない、というおおきなひとくくりで語られてしまうようになっているけど、

個々の色々な種類の会話の中での、かみ合わない感じ、を示す状況を表す言葉は、もしかしてそれぞれの種類の会話についてきちんと合ったんじゃないか、とか思ったりします。


上司部下だったら、

仕事の分からない奴め、とか?あれ、ちょっと行きすぎた感があるな。


だから何だ、って感じなんですが、言いたいのは、みんなちょっとはしょりすぎじゃね?いろいろと、ってことです。

まぁ、人間関係なんて複雑だし、いろんなところでいろんな思いが密かに錯綜していたりいなかったりするのが会話だと思うので、そういう複雑な状況をひとえにしょった言葉なんてのがあるわけないとは思いますが。


でも、定義もあいまいで、該当者もあいまいで、だけどとりあえず気に入らないからそこに分類してなじるために体のいい言葉、それが「空気読めない」だろうな~と思ったのです、書いてて。


だから、私がここで、「私は空気読めるんだぜ」と言ったところで、

それはほかの人にとっては意味が若干違う事かもしれなくて、

そういう状況を持ってして、私はこれができるんだ!と自慢しても何にも意味は無いかなぁと。

いや、自慢したいんじゃないんですけど。


で、言いたいのは、相手が自分に対してどういう気持なのかとか、(恋とかの話でなくて)

相手がいま会話中で何がしたいのかとか(ただ会話をしたい、コミュニケーションを深めたい、などなど)

が、わかろうがわかるまいが、

そのとき相手が自分に対してどういう気持なのか(卑屈な気分になってるのか、しゃべりたくない気持なのか、とか主にネガティブな感じのもの)については、もう、あれこれ考えて、なんとか機嫌がわるくならないような、そういう方向にばかり持っていこう、と思うのはやめよう。と思ったのです。


なぜなら、そういう状況が分かっても、私のする対応策はほとんど項を制することがないからです。

つまり、結局私はなんだかんだ、「空気を読みきれてない」のです。

だから、なんとか状況を改善しよう、相手に良い印象を残そう、とぐるぐるしてないで、言いたいこと、思った事を

すさっと言った方が、


我慢したのに、

頑張ったのに、


と下手に相手に対してストレスをぶつけてしまうのがなくなるよな、と思うのです。


つまり、コミュニケーションが下手でダメな私が、だからスキルを磨く、のではなく

できない故に無駄に人を恨んだり、ちぇっ、という気持ちにならないように対策しよう、という事です。

未熟者と言う事です。


もちろん、相手を故意に怒らせたり、いやな気持になる非論理的で意味のない罵詈雑言を、ためらいなく言いたいんだ!

ということではないですよ、念のため(笑)


言いたい事が言えなくても、せめて相手の目の奥を見すぎるのはやめよう。

その人がイライラしてようが、ニコニコしてようが、私にはあまり関係ない。

私が言わねばならない事を、コミュニケートしなければならない事を、必要な分だけしよう、そのために深読みして勝手に気付くつのはやめよう、ということです。

例のごとく纏まりのないまま終わる事うけあい、なのですが、今日は同人誌というものについて書いてみようかと思います。

同人誌にみられる個性とは何ぞや?

というのを、文字に起こしてみようかな、と思いま腑。


まずはじめに、こういう記事を書く癖に、私は同人誌的なものに詳しくはありません。

そして、私はこう見えても、コミケにも行った事がありません。

中学生のころは、周りに、同人誌をどういうわけか持っている友達とかがいたもんで、運よく見せてもらったり、ができたわけですが、所謂やおい的展開に対応できず、すぐにページを閉じてしまう純情系でした。


なので、「同人誌」の定義は、拝借しますところにより以下のようにします。ご存知と思いますが。


同人誌(どうじんし)とは、同人雑誌(どうじんざっし)の略であり、同好の士(同人 )が資金を出し合って作成された雑誌 のこと。(中略)元々は文学 などの著述の分野で始まったものであるが、現在では漫画アニメ などの分野の市場が拡大している。

(wiki様より)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E4%BA%BA%E8%AA%8C


最近、今もそこそこ人気があって、かつ昔いたくはまったゲームを思い出し、youtubeでサントラを探したりしてみては、ああ、こんなことあったな~とか感慨に浸ったりしているにわかオタク予備軍なわたくしでして、ある時ふと、

ネット社会の今日このごろでは、同人もののHPって一杯あんじゃね?

と思い立ったわけです。


で、探してみるとやっぱり当然あるわけです。


サンプル数はそれ程みてませんけども、

一般的に、それぞれ同人誌などの類(静止画以外)を作る人々というのは、

それぞれの世界観の中にいる、描きたいキャラクターを用いて、

個人の内にある「あったらいいな」的エピソードを想像し、そして創造してoutputするわけなんだな、

と思いました。(当たり前の事しか言ってなくてすみません。)


しかし、キャラの基本設定がオリジナルの中にすでにあるというのが前提なものの、

個人が新たに作り出したエピソードの中にいる「キャラ」はもはや本編からは独り歩きしている?

ものです。

つまり、みんながオリジナルの中で初めて出会い、好きになった「キャラ」が異なった「キャラ」にある種変換されていると考えることもできるかと思うんですが、昔の私はどうにもそれが受け入れられなかったのです。


キャラクターというのは例えどんなに素敵でも、オリジナルの中に生きる唯一無二の存在で、どんなに好きでも物語が終われば、それ以上、彼女ないし彼らを見ることはできない、つまり、別世界に生きている、存在論的には私たちと同じもの、みたいなものかな、というイメージを持ってたんだと思います。


だから、そのオリジナルから特定の人だけ勝手に抜き出して、好き放題にしてしまうのは、どこか嘘のような気がして、そういう偽物はわざわざ見なくてもいいや、と言う感じだったわけです。


そのため、自分のキャラの好きな部分、あるいは嫌いな部分を個人の好みでクローズアップする同人作品は、そのオリジナリティ故に、賛同できる、できないが、たとえ同人のそういうオリジナルの世界観の改変(orつけたし)を認められる人の間でも、(あたりまえですが)結構分かれるものであり、同人誌ビジネス(?)は非常に小規模かつ多数的なものなのかな、というイメージでした。


まぁ、同人が生き残れる理由はともかくとして(絵が好きだとか、コレクター性とかなのかと)

そんな昔を差し置いて、今の私は大人なのです。


みんな、その世界やそのキャラクターが大好きなだけなんだ・・・!!!


という事がわかったわけです。

やっぱ終わるとさびしいし、いつまでも生きて動いていてほしい・・・。

いつまでも貴方を見ていたい・・・できるなら独り占めしたい・・・。

的なそれで、

同人的欲求や、それはつきつめればやらな(ryとかガチム(ryとかと同じ要素でしょ!!的何かが飛び出してくるんだと、ええ、分かりました。


私もね、絵心は限りなくゼロで、どちらかといえば、経験値を足しても今マイナスだから+に触れるのはいつだろうね?みたいな状況にもかかわらず、大好きなキャラクターをお絵かきしたいZE。

という気持にはなりましたものね。

うふふ。

無理だけど。もちろん、すべての同人的状況を受け入れられたわけでもないし、見たくない、と思う事も多々あるけども。


そう、つまり、先ほども書きましたけど、

みんなが好きになったオリジナルのキャラが個人の妄想で改変されてもなお、好き!

を保ち、むしろ共有してわくてかする同人の世界観と言うのは、

強い共感性とコレクター性

に寄るものなるのかな、と(いう当たり前のことを)思いますた。


むしろオリジナルにつけたさせるキラリと光る個性によって、大好きなキャラたちはより愛すべくキャラに返信するのでしょう。


私よ、大人になりましたな!

自分の社会的立場を利用する、というのは、どこの世界でもよく聞く話だろう。

大げさに言うと、先日感じたイヤーな気持ちは、そういう事かな、と思ったので書いておこうかと思います。


先日、明らかに自分の非のあることで教えを頂いている側からお叱りを受けることがあった。

結局言い訳に近い事になってしまうが、普段のその人であれば、そんなに目くじらを立てて怒るという程の事でも無かったようにも思う。つまり、怒られた要因の中に、機嫌の悪さという私に関係ないものがあったため、あれ、と思ってしまったわけです。やったことはやった事なので、そこは反省する以外にないわけです。


それに、その時不快な気持になった理由は他にもあって、実はそのとき、私は非常に焦っていて、その焦りを作ってしまった原因というのが、無駄に遠慮してしまった事にあったからです。


ある時間までに仕事を終えたかったのですが、

仕事を教えてもらう関係で、結局その時間には間に合わなかったわけです。

普段は、教える側のその人も、時間の事は気にしてくれるわけなんですが、

以前に、「多少なら遅れても大丈夫です」といってあった事だったので、今回も大丈夫だろう、と(おそらく)勝手に判断されてしまっていました。

しかし、今回に限っては、あまり遅れたくない、という状況が実は自分の中にはあったわけなんですが、しかし、それを言わなかった。


ので、時間をオーバーしての指導になってしまった。

その時は、私だったら、例えオーバーしても大丈夫だと前に聞いていたとしても、状況はケースバイケースの場合もあるから、もう一度聞いて時間の事を気にするのにな。そもそも、指導にどれくらい時間がかかるものなのかが私は分からないので、時間がオーバーするとまずいです、という判断して言う事もできないのにな、と人のせいにしていましたが、まぁそこは、

「絶対ムリ」

とでも言うべきでしたね。もっときちんと、私の守りたいものを守らないと。

そこは遠慮してはいけませんね。


しかし、たぶん、そこで、ああ、私が完全に悪かった、申し訳ない、と思えないのはその人が普段から、

「自分は血液型がアレだから、人からは気を使っていない、気の使い方がわかっていない、といつも怒られる、だが自分は自分なりに気を使っているんだ!」

とおっしゃっており、

なんだ、結局この人もどこかで「自分は努力してるから、これでいいんだ!悪いのは自分ではない」

と行動で証明されてしまった気がして、がっかりしたからでしょう。


ということで、ここまででは

1.やつあたりされてイヤな気持がした

(上の立場を利用し、こいつならこういう態度に出てもまぁ良いか、という判断をされたことに疑問を持った。)

2.「上の立場」というものをなるべく少なくするべく、気を使っているという話だったが、結局できておらず、反省もしていないように感じられてがっかりした。


という事があったという事です。


さて、そういう事があって、また後日の事。

仕事の事で、その人はどうやら他の人に何かを先を越されてしまい、あー、しまったな~という気持ちになった模様。他にも、自分と似たような立場で、着実に結果を出している事を目の当たりにし、焦りと言うか、そういうものを感じてたようでした。


そういうとき、その人は、言い訳めいたことは、少々しか言いませんが、話して気を紛らわせたり、ようは慰められたいのか、絡みやすくなります。で、まぁ、教えてもらう立場であることもあって、いろいろ話を聞いたり、勉強になるディスカッションをさせてもらったわけですけども、なんだかなーとならざるを得ない感じです。


なんていうか、私は特に、色々柔らかい事しか言わないし、なるべくポジティブな事しか言わないんですが、そういう性質とか、下の立場であり、上の立場にあるその人をサポートするような言葉を発しやすい状況にいるので、何と言うか、慰み役に使われたのかなぁ・・・と思ってしまったわけです。


前述の「時間騒動」の事があってから、多分、私も、「遅れたらまずい」と焦りまくって寡黙になったため、それを反抗的な態度と取られたのか、コミュニケーションがそれまでほどに潤滑でなくなっていたのを感じていました。

会話をしている時の感じとかから、お互いに、ぎこちなさ、みたいなものがあるなぁと。

そういう時は、コミュニケーションをむしろ増やして、これまでの感じを取り戻そうと、自分はしたつもりだったのですが、向こうの方はどうやら、一度嫌だな、と思った相手とは、距離を置きたい、という方針のようでした。


なので、当りさわりなくしていよう、と思っていたわけですが、

その人は、自分がちょっと凹んだときには、身近にいて慰めを得やすい私とのコミュニケーションを増やそうとする。


つまり、やはり1.のような、上の立場を利用して・・・というものを感じてしまったわけです。


何でしょう、自分がどういう立場にいて、そういう立場にいると対面する相手がどういう対応を取ってしまうのか、というのは、自分の常識ではなく、相手の常識から来る判断によって決まってしまうのではないか。


つまり、

自分は立場が上でもフレンドリーにしているつもり、

でも

それを是として下の者が同じようにフレンドリーにするかどうか

というは下の者が勝手に判断してしまう事である。

いうなれば、

「あの人は立場は上でもそうしたいと言っているから、じゃあ、それに合わせよう」と思うか、

「そうはいっても親しき者にも礼儀あり、上下関係は意識し続けなければ」と思うか、というのは

意向を示された上での具体的な指示がない限り、下の者が勝手に判断するしかないような気がする、という事です。


だからこそ、自分は立場は上だけれど気を使われたく無い、と思っているのであれば、

「そういう風に考えなくていいよ」

と言うだけでなく

「具体的な行動の指示」

までしてくれないと、

本音と建前が横行する日本においては、なかなか真意が伝わらないのではないかな、と思います。

海外は知りませんけど。


まぁ、「自分は立場は上だけれど気を使われたく無い、と思っている」

という状況が一般社会的に存在するのかどうかが怪しいですし、普通の社会人であったらそんなの考えるまでもない事なのかもしれませんが、とりあえずそういう事実とそれに対するレスポンス、という事象だけを取り扱って考えてみた、ということで・・・。


なんにせよ、

自分のいいたいこと

を自分の思う通りに伝えるというのは難しいですね、本当に。

感覚的なものは、その人の中にしかないので、どんなに似ているとたがいに思っている事でも、

実はoutputしてすべて確かめてみるとぜんぜんちがう!

みたいな事だらけ・・・むしろ、それしかないんでないかな、と思います。


タイトルと大分それてしまいましたが、自分の人の良さ?みたいなところを利用されたから

あの時嫌な気持ちになったんだ、という事を、

書いて確認できてよかったです。もやもやしてほっとくのが一番ダメですね。

ただただ、対象となったモノや人を嫌いになっていくばかりな弱い自分ですので・・・。


なんにせよ、謙虚さを失わずに、自分の謙虚さがきちんと人に伝わる謙虚さなのかを常に意識しながら

「がんばら」なければな、という教訓です。


おとついの夜、家でのこと。

ついに、それ的な何か、が出たのだった。

それ的何か、とはご存知の通り、黒くて速く、飛ぶこともできるアイツの事です。


去年もやはり、古アパートに住んでいた私はその何かと出会ったものの、健闘の甲斐あって、見事、完全勝利をおさめていた・・・かに見えた。

が、それこれの経験が妙なトラウマを残し、一昨日はもう、あまりの恐ろしさとめんどくささとやるせなさで戦意喪失し、結局、友人を呼ぶはめになったのでした。


無事退治してもらったものの、部屋は当然(というか人が想像できる範囲よりも)散らかっていて、

ふと我に返ると、友人にはできれば見られたくないようなものたちも部屋には散らばっていたような・・・もしかして、見られてしまった・・・のか?!


ここから言える教訓は、

家は、いつだれが来ても大丈夫なような状態をキープすべきだ。

という事しょう。


ああもうこれ不変の真実になりつつありますわなー・・・私の中では・・・。


さて、もしかして見られたことによって、友人の中では新しい私のイメージが確立している可能性があるわけで、そしてそれがもしかしたら流布されるかもしれない危機があるわけですが、このネガティブな事態について、私の精神衛生の為、ポジティブシンキングを行ってみました。


ちなみに、


友人は見ていない

友人は見たけれどもそれについてあらたな着想(私への)を持たなかった

友人は新たなイメージを得てしまったが、興味がないので人に言いふらさない


という仮定はすべて無視し、


友人は見た、新しいイメージを持った、そしてそれを誰かに言いたい


という状況であることを仮定します。


第一に

言いふらされたとして、友人がいつどこで誰に言いふらしたのか分からないので、

友人から私の新しい情報を知った友人(例えば共通の友人とする)は

内心、驚いているかもしれませんが、私はそれを知りえません。

それに、そのまたぎぎした友人にとってよほどその事態が軽蔑するようなことでなければ、

その人は私を避けたりはしないだろうし、私との関係は崩れない。

崩れるようでも、まぁ仕方ない。私がまたぎきした友人にとって受け入れられない人だとわかってよかったね!

よっておk。


第二に

私の知らない、これから友人になり得る誰かが先にその情報を知ってしまった場合、

その人は私と友達になれないかもしれない。

けれども、その私の情報によって、私に近づくのを避けるような人とは、結局私も仲良くなれない可能性が高い気がする、というわけで、これは私と仲良くなれるかのソーティングであったとも考えられる。

よって問題なし。


第三に

そのような情報を知ってすら私と知り合いになろうとする人は

人の噂を5分目くらいで聞く、目で見て確かめる派の人

あるいは

気にしない人

であり、そういう人とは仲良くなれる可能性がより多い気がする

という事でのーぷろぶれむ。


人のうわさ話に対する心の対処はこんな感じですればいいんじゃないかと思いました。

あくまで自己流ですけどね。

そもそも、別にだれにでも嫌われて構わない、というスタンスなら何も怖くないですね。


だから、たとえ家にフィギュアがわらわらあっても、いいじゃない。

アニオタだろうと、ゲームオタだろうと、むしろ趣味は共有するチャンスを得るために、公開すべきでしょう。


あ、これはあくまでマジで例えですから、私んちにたくさんのフィギュアはありません。

ホントですよ。