時間はあるがヒマではない

時間はあるがヒマではない

ヒマはあってもカネはない
フルサイズミラーレスは買えない
APS-Cもセコしか買えない

第22話●パソコンは「色即是空」
…モノの本質が具体化した道具がパソコン。

灰皿は灰皿の形をしている。コップはコップの形をしている。椅子は椅子の形をしている。自動車は自動車の形をしている--これが、いままでぼくたちのまわりにある当たり前の道具だった。

道具の用途が形に現れていた。だからこの灰皿はきれいだからスープを入れて飲めるよといわれても、それは決してスープ皿にはなれない。灰皿の形をしているから、誰も灰皿以外には使おうとしないわけだ。外国のホテルなどで孔柄の模様が焼き付けてあって、吸いかけの煙草をのせる溝もはっきりしていない灰皿がテーブルに置いてあったりする。こんな時、あれっ、ここに吸い殻
を捨ててしまっていいのかな…と思ったりするのは、当たり前の形をしていないからなんだ。


用途が形に現れている道具を使うときは、ある程度経験がものをいう。だが、コンピュータは違う。これは用途が形に現れていない。なにやらプラスチックの箱形のモノが、計算機にも使えるし、ワープロにも使える.、ゲームにも。ソフトウエアによっていろいろに使えるわけで、言い換えると、使う人によって一枚の皿が灰皿にもスープ皿にもなるというようなせのだ。一種の仮想の世界なので、概念を把握しないと使うことができない。ここでは経験はものをいわない。だからクルマには一家言を持つオトッツアンが、パソコンにはまるで弱い。


仮想の世界でソフトウエアというのは、関わりあいの手順を設計したものなんだね。
コンピュータは人間が作った道具の中で、用途が形に現れていない初めてのもの。形がはっきりしていなくて、関わりあいを明確にすることによって使い方も使用目的も変わってしまう道具だ。パソコンが出現するまでは、あらゆるモノが見せかけの形そのもののイメージだったのだと、7年ほど前に突然気がついた。


人間の歴史では、ものの考え方を具現化するために血を流し合ってきた。十字軍の遠征もアレキサンダー大三の征服ももそうでしょ。それがそんなものに一切の関係なく、モノの考え方を具現化しちゃったのがパソコンだ。そしてソフトウエアというのは思想そのもの、人間の考え方そのものを具現化したものだ。ちょっと難しく哲学風にいうと、灰皿はひとつの現象でありモノの形で、パソコンはモノの本質を具現化したものだともいえる。


だから一部のアプリケーションソフトは、パソコンが本質を具現化しているにもかかわらず、形をわざわざ作って、灰皿として使ってください、スープ皿として使ってくださいといっている。もちろんモノによっては、ワープロのように形にしちゃった方がいい部分もある。コストも安くなるし、大量生産もできるからね。


マイツールは違う。モノの本質の具現化された延長上にある。仕事によってアプリケーションソフトを揃える、つまり「これしかできないものをた〈さん持つことで、何でもできるようになる」のではなく、マイツールのみ、つまり「ひとつで何でもできるもの」になっている。これはマイツールの開発当初から一貫して考えていたことだった。だって、モノの本質を具現化するものである以上、そうなるべきなんだからね。となると後は、バソコンの本質の部分を、どのように誰でもが使えるものにするかが重要だと思う。それをマイツールでは本気になって追求した。


形にとらわれないで本質だけを考えるというのは、日本人は得意だったはずだ。禅の公案とか仏教の経典には、形にとらわれることを読める言葉が、これでもかというほど出でくる。「色印是空」の色は物質モノの本質ということだ。また日本では利)様は八百万(やおよろず)の神というように、800万もあったようで、これだけあると逆にひとつの偶像にこだわるわけにはいかない。封建社会は形にこだわらないと管理ができなかったから,厳しい管理があったと思うけど、その中で宗教だけは形にこだわらない文化を作ってきた。次にとらわれない--それがいま大事になってきたことに気がつくべきだ。人間の歴史は道具の歴史だといった人がいたけれど、パソコンの出現によって大きく変わっていく部分があるだろうね。開発者が考えていた枠を、大き〈踏み越えてしまうような変化が…。

MUG Web Magazine
おわり
 

第21話●膝の上のマイツール。
…パソコンは1マイの紙を越えられるか?

今度リコーからラップトップ型のマイツール、LXが出た。LXにはいままで市場に出たラップトップ型パーソナルコンピュータとは根本的に違うことがいくつかある。20MBのHDを装満しているとか、ハード的な機能も素晴らしいけれど、もっともっと注目されていいのは、何れマイツールの機能とまったく同じなことではないだろうか。M.マイソールのデータフロッピーを入れればそのまま動くし、キーボードの配列も同じだ。使いやすさで定評のあるマイソールの機能がコンパクトになって実現されているから、初めてマイソールを使う人にも向いていると思う。


LXはこれまで使っていたスタンドアロン型のKr.マイツールと機能も使い方も、なにからなにまで同じのままだから、マイシールをどこへでも持っていけることになった。私たち経営者が使うとしたら、同じでないと困るからね。どんなに便利なものでも、それまで使っていたものと操作が違ったり、キー配列やキータッチが違っていたら、とても使う気にならない。人間の慣れの問題は、人質から考えたら当たり前のことなのに、これまでコンピュータの設計では無視されてきたと思う。人間工学には「使用習慣」というのも含まれているはずだというのがぼくの主張なのだけれど、小型化するために機能の一部を削ったり、キー配列を変更したりした機種が多いからね、世の中には(笑)。


さて、OA機器の発達でオフィスから紙がなくなるだろうといわれながら、いまだに紙であふれているのは、紙が簡単に移動できるということではないだろうか。紙は偉大な発明だと思う。もし紙が発明されていなかったら、いまのオフィスのシステムは根底からなくなる。紙は簡単にノートにできるし、数枚なら折り畳んでポケットに入れることもできる。どこでも広げて読めるし、ビールを飲みながらでも(笑)。
そしてそこに書き加えることができる。しかも折ってヒコーキにして、空中を滑空させることもできるんだ(笑)。パソコンはモノ
の本質を具現化したものだという話をしたけれど、紙の最大の用途は「書く」ことだが、形が不定で、ある面ではモノの本質が具現化したものといえる。だからパソコンは7枚の紙を越えることができなかった。

オフィスにMr、マイソール、自宅にLKを置くと、言類とフロッピーをプリーフケースに入れて持ち帰り、自宅でオフィスと同じンベルで仕事をすることができる。パソコンが個人等用機としてより使い易くなってきた。あるいはオフィスにしどを何台か置く。いまオフノスの合理化が必要なので、移動型のデスクを設置して営業マンが報告書を書くときはそこを使うようになっていたりする。LXなら使わないときはしまっておいて、デスクと一緒に出せばいいだろうし、5人に3合配備すれば共有できるだろう。


また、営業マンが基本的な見積も"を作っておけば、材料のサイズの変更などに伴う征・条修正は、クライアントの目前でできる。そこのプリンターを借りて出力してもいい。バンコン通信が利用できれば、修正見積もりを会社に送り、上司の承認をもらってFAXで送り返してもらうこともできるだろう。これまでのように書き直して再度届けるのでは最低でも2~3日はかかり、それだけ詰めがせくなる。

 

いままではハードウエアのあるところへ行かなければ仕事ができなかったのに、人間の移動と一緒にハードも移動できるわけだ。紙をプリーフケースに入れて持って歩くのと同じだね。LXはデスクの上と膝の上をイコールにした。これは大きな革命だと思う。
 

MUG Web Magazine


 

第20話●存在と無と。
…心で否定すると見えなくなってしまう。

一時期のことだが、佛教関係の本を夢中になって読んだことがある。葬儀社という仕事とは関係なくね。というのも、もともとぼくは何にでも興味がある方で、その興味の持ち方は体系的なものではなくて、もうムチャクチャなんだけれど…。それで仏教に興味を持ったのは、「価値観を超えるモラル」というか、スーパーモラルに興味があったからです。いまの時代には、スーバーモラルのようなものが必要ではないかと、突然思ったからなのだけど(笑)。


お経の本は、昔は人生のテキストだったんだね。江戸時代の末期になって御家人株を買うなんで例が出てきたけれど、原則として封建社会では、人々は士農工商というフレームから飛び出すことができなかった。そんな時代にも、宗教にはどんな階級からも入っていけたんです。それだけにストレスの強い、意識の鋭い人がここに集まったのでしょうね。


平安・鎌倉の時代でも僧は特殊な存在だった。ある意味では知恵の固まりのような集団を形成していたらしい。檀家制度以前の寺の状態を見ても、例えば僧や修験者が雨乞いをして、実際に雨が降らないと、堂に籠もっったまま餓死してしまう。すると後に来た僧が大事にされる。つまり次の時代に引き渡すためのスーパーモラルがそこにあったのだと、ぼくは思う。


中国に不空という人が訳した「理趣教」という教典がある。その中では男女の愛欲も「菩薩の境地である」と説いている。これは並の肯定ではないよ。菩薩の境地、つまり最高の位のものだと言っているのだから。スーバー中のスーパーモラルだね。空海は最澄にずいぶんいろいろな教典を示してやったけど、この理趣教だけは秘密にして見せなかったという。空海にはその真意がわかっていたけれど、誤解を恐れて世に示さなかったのではないかな。


いまは「双子座の時代」だ。「一生懸命働け」というのも正しいし、「ほどほどに働くべきだ」というのも正しい。誰もどちらかにすべきだといえなくなった時代。アンビバレンス(両面価値)の時代ともいえるだろう。でも、昔は単一(価値の時代だったか、理趣教などは当時の誰も、たとえ相当の僧侶でも理解できなかっただろうね。理趣教を読みながら、これを世に示さなかったという空海の行動を考えると、時代を超えて本質が見えていた空海が実感されてきて凄いなと、ぞっとする感じがしてくる。あるいは、本質を見抜くことで、時代を超えるのかも知れないけれど…。


理趣教が説いているのは、存在自体が最高のもの、ということだろうね。それを否定してもはじまらない。でも、人間は心の動物だから、存在していることであっても、気に入らないと心の底で否定する。そうすることで見えなくなってしまうんだ。


生まれたら死ぬ。1日は24時間。からだはひとつ--これは否定できない存在するものの条件、本質だ。お経の本はこういうことを教えてくれる。こうしたスーバーモラルは、事業をやる上でも、生きる上でも大切なことじゃないかと思う。仏教の教典を読んでいると、ガルブレイズあたりでもとても追いつけないという気になってくるね(笑)。

 

MUG Web Magazine

 

第19話●戦略的マイツール、戦術的マイツール
…戦略あっての戦術だ。

戦略と戦術について、ぼくの物差しで定義してみよう。戦略というのは方向性だと思う。戦術というのは作業目標と手順みたいなものだろう。簡単にいうと、どっちへ向いていくかが戦略で、そのために何をやるかが戦術だ。


戦術的には似ているが、戦略的に異質なものはたくさんある。例えば、よくビジネス誌で特集される戦争と企業活動。国家が引き起こす戦争は、おおむねやめるために始める。
戦争は一種の消耗戦だから、やめるための外交が同時に進んでいることが多い。これにひきかえ、企業がおこなう「戦争」は、いかに長続きさせ、その間に利益を上げ続けるかがポイントになる。同じ戦争でも戦略がまるで違うのだから、戦争戦勢や兵法書を読む場合は、それをよく承知した上で戦術面でのヒントを得るようにした方がいいだろう。


企業の戦略目標には、自分の未来から始まって、家族の未来、部下の未来、社会の未来まで関わってくる。ただ儲かればいいというのでは戦術は生きてこないし、モラル上思わぬ攻撃を受けて会社が危機に瀕することもあるからね。ほくは販売というのはお金の儲け方ではなくて、お金の使い方の工夫だと思う。上手に使うと大きくなって戻ってくる。お金を上手に使うためには細かな戦術が必要になる。いい品物を仕入れ、質のいい人間を雇うエ夫もいろいろ生まれてくる。


戦術でいうと--。スポーツと格闘技の違いかな。スポーツと格麗技の違いは、スポーツが条件を同じくするのに対して、格間技は条件を変えるところにある。ぼくは空手の師範をやっていたことがあるのだけれど、空手は相手の考えもつかない方法で攻めるのがコツになっている。ありえないと思っている攻撃を受けると、ほとんど防ぎようがない。


ぼくが三和仏商を始めたとき、葬儀社の伝統からスタートしたわけじゃないから、他の葬儀社のようにとらわれてしまうセルフコンセプトもなかった。これが良かったのだと思う。伝統にとらわれないから葬儀社を小売店として見ることができた。祭壇も法事の料理も物販として見ることができたんだ。この戦略に立つと、祭壇をレンタルしてうんと安くサービスする。
祭壇は何回でも使えるからね(笑)。法事の料理も形にとらわれないで季節のものを提供する。季節のものがいちばん安いのだから。とまあ、いろいろな戦術が立てられるわけ。


そして、ある程度シェアが伸びて体力がついてからは、粗利をできるだけ押さえて新規参入を防いだ。よく新規参入をこぼす経営者がいるけど、この競争社会では新規参入は当たり前のことなのだから、嗅く前に戦略と戦術をしっかり立てて対処すべきだ。


パーソナルコンピュータというものは、戦略的応用も戦術的応用もできる。マイツールにはデータを加工して管理に威力を発揮するような戦術的応用の面も、前に話したようにシミュレーションをして、その手項に従って仕事を展開させるような戦略的応用の側面もある。自分の常識の壁を見つけて、それを越える手だてを考えさせてくれるような戦略的マイツールの使い方ができるのが、とくに強みだろうと思う。


面白いのは、マイツールユーザーの中にも、いろいろな可能性を見つけてチャンジしている人と、コンピュータにはこんなことぐらいしかできないだろうと、先入観を持っている人がいることだ。コンピュータにはマイナスファクターの先入観ってのがあるけれど、先人観はひとつのこだわりなので、捨ててもらいたいとぼくは願っている。


MUG Web Magazine

 

 

 

第18話●公事と私事 -

-い人は二つの顔を持っているが--。

 

マイツールでデータを情報に変えるのも大切だけれど、出てきた情報を社員一人一人が自分の問題として考えてくれるかどうかが、もっと重要なテーマではないかと思う。情報をどうやって会社に定着させ、社員全員に認めさせるかという作業が必要だ。グラフとGEDを連結させて、より分かりやすくするというのも、そういう作業のひとつ。


マイツールで出した結果を、社員が自分の問題として考えられるように提出できるかどうか。それができる経営者は、マイツールのエキスパートだとぼくは思う。マイツールはデータを処理して結果を見るための道具なのだから、それをどう使うかが経営者の真価といえるんじゃないかな。前に三和仏育での「値引きコンテスト」の話をしたけど、あれも会社の問題を自分の問題として考えてもらうためのテだった。いま、仕事の終わりは次の仕事の始まりという話をしたが、やった結果を新しい仕事に展開しようとしても、社員にそっぽを向かれたら動かないことを、肝に銘じておかなければいけない。


例えば、ぼくの業界ではお葬式があればそのお宅に仏壇があるかどうか、お墓があるかどうか分かる。お葬式の後には決まった時期に何回かの法事があり、それはマイツールで把握できる。ただその時に、担当する営業マンが同じ人ではなく私の人になることも多いから、データをどういう形で受け渡すか、ちゃんと整えておかなければならない。これはどこの会社も同じことだと思う。売るだけではなく、引き渡すためのカードを書くとか、マイツールに入力するのを嫌がらないとか…、そうしたことは会社の仕組みとして当たり前にしておかなければならない。せっかくのデータが溶けてなくならないために、そういうことが大事だ。


いいと思ったことを、社員が自分の問題としてやってくれる仕組みと仕掛けを作る。そうすれば無限の可能性が広がっていく。社員が動かなければ、理屈として分かっていても何にもならないのだ。これは社員教育のいちばんのボイントだと思う。


世の中には「公事」と「私事」があるけれど、その評価の基準は全く違う。公事では結果を基準にして考える。私事では評価の対象はプロセスになる。受験には落ちたけれど、ウチの子はあれだけ頑張ったのだから仕方がない…これは私事。企業は企事だから
暖帰っても会社が潰れたのでは、まったく意味がないわけだ。個人は公事と私事を抱えているのだけれど、公事を自分の問題として強く意識してもらえないとだめなんだね。乱暴な言い方をすると、明日の給料より今日の仕事が楽な方がいいというのが人間だから(笑)。
社員が転職したりふてくされたりするのは、今日の仕事の愚にもつかないことから起こりがちなのですよ。
 

MUG Web Magazine

 

第17話●終わりは次の始まり
業は商売の集合体。

第3次創業期とか、第3次マーケティングの時代とかいわれている。いまなぜ創業
期なのかというと、何にも伸びないから、創業するしか成長の手段がないのですよ。人間の知恵でああじゃないこうじゃないといじり回さないと、伸びなくなっちゃってるわけ。つまり、会社の業績をさらに伸ばそうと思ったら、動きのない現在の市場で苦労を重ねるよりも、何かをキ一にして別のものを作った方がいいということです。となると、業態に対する考え方も変わってくる。例えば、業というのは商売の集合体だと考えると、いろんなチャンスが生まれてくる。
 

ぼくはホテル住まいが多いので、時々ホテルのことを考える。ホテルはどんな商売が集合しているか…。飲食業がある。クリーニング屋もある。空間のレンタルもしている。部屋のメンテナンス。観光案内やコピーサービスなど情報産業もやっている。すると、単身赴任者のために部屋を掃除してクリーニングしてという、ルームメンテナンスの仕事がこれから考えられる。地方のホテルなら宿泊者名簿を元にして、名産品の通信販売もできる。その地域のイメージも懐かしさも、想い出もあるから、そんな情の世界に物品を乗せることもできるだろう。

 

あるいは逆に、温泉地の観光ホテルで暇な時期に、空間を貸しますという新しい仕事を作ることもできる。学生を一泊ニ食付きでタダで泊まらせる。その代わり1日5時間は働くという約束で。その5時間をその温泉地の各所に売る。そういうやりかたもある。

現在の会社の状態を単純に「ホテル業」と見るか、商売の集合体として見るか。それで情報が他に繋がったり繋がらなかったりするのだね。身の回りにこういうことはたくさんあるでしょ。自動車の整備工場で、お客さんに農家が多いと分かったら、自社の整備カのイメージと営業力を利用して、耕運機を売ってもいい。


業は商売の集合体と考えると、ひとつの仕事の終わりが次の仕事の始まりとなる。数珠玉のように、いまやっている仕事が終わったら次の仕事が始まって、それが終わったらまた次が始まるような状態を作ればいいのです。そのためには、どうしても情報管理が必要です。商売の集合体をつなげている「糊」のようなものが、情報だと考えてもいいでしょう。


大企業はバイオとかエレクトロニクスに新しい分野を求めて動いているけれど、そんな大がかりな創業ではなくても、中小企業が始められる創業の芽はどこにでも転がっていると思う。問題は、それを見つける目なので、ダイレクトにやるのではなく工夫すればどこかで引っかかるような気がする。自分の会社の最大の売りは何だ、ということ。そこでデータを情報にするために自分の物差しを持たなければいけないわけ。でもその物差しは個人差がいっぱいあるから、自分でパソコンを操作して自分で見つけるしかないのです。

 

MUG Web Magazine

 

 

 第16話●バイリンガルが当たり前
互換性とは、簡単にいうと言葉が通じることなんだ。

日本は減点型社会などといわれるが、アメリカなどと比べればずっと加算型評価の社会だと思う。アメリカは一種の契約社会だから、これこれをやるという契約に基づいて仕事をする。契約に基づけば、仕事

でのマイナスは契約に違反した行為となるわけだ。マイナスは取り返しのつかない失敗だし、契約条項からはみ出すこともいけないこと。だからアメリ力ではやってはいけないことをやれば、減点法でマイナスされていく。日本は違う。日本では自分がやっている以外のことでも、付加価値のある「いいこと」をやれば評価が加算されていく。基本的には加算型評価の社会構造を持っている。


例えば、日本では、社長が社用のクルマの運転手に「君だったらこういう場合どうするかね‥」と聞き、運転手が「僭越ですが、私ならこういうふうに…」と答える場面を想像することもできる。アメリカ社会では、こんなケースを想像することはできない。それぞれ裁説が決まっていて、はみ出すことはマイナスなのだから、こんな社長がいたら「うちのトップはバカだ!」と思われるだけだろう。


TQCがこれだけ日本に定着したのも、ある意味では日本が加算評価型の社会構造であることを証明している。なぜならTQCとは、いいと思ったら積極的に隣のことに口を出しなさいということだから(笑)。


こういう社会風土の違いがどういうものを生み出しているかというと、アメリカの会社の場合は教育は自分持ちで、契約に基づいた職能でまっすぐ昇格していく。日本の会社の場合は教育は会社持ちで、人事異動を繰り返しながら螺旋形を描くようにして昇格していくことになる。そうすると日本では、これ以外はダメよ、これしかやっちゃいけませんというコンピュータソフトを使っていたのでは、変化する仕事に対応できなくなる。なんでもできるソフトでなければ、会社の中で共通な言語が生まれてこないんだね。


単一作業のためのアプリケーションソフトで教育・管理していくと、人事異動するたびに新しい仕事と新しいソフトの勉強をしなければならない。極端な言い方をすると、ひとつの会社の中にフランス語と英語と日本語を話す人間が共存して、お互いに言葉が通じない状態になっているわけ。国際化時代に入って一人で何カ国語も話すバインガルな人が出現しているけれど、そうした時代に逆行するかのように、通じ合わないコンピュータ言語をいくつも使うことになる。


データの互換性があればいいと考えるのも、間に通訳が立てばいいと考えるのと同じで、やはり不便なものを我慢することに変わりはない。操作性が同じ、コンピュータの対応パターンが同じなど、人間の慣れの問題にちゃんと添ってくれているかどうかも問題。人間の感性の部分で共通していないと、道具というのはなかなか使いにくいものなのです。このコンセプトを間違えてコンピュータシステムを導入すると、不便なだけではなく、将来とんでもないコスト高に繋がってくる。


日本の社会構造にあったシステムにするには、コンピュータの共通の言葉を作らなければいけない。これを実現すれば、業務処理や管理のノウハウの蓄積が可能になる。しかもその言葉はいろいろなものに対応できるものでなければいけない。そして会社の中にパソコンエリートを生まれさせるようなものではいけないのです。というのも、分からない人間は、分かる人間のいうことを聞くだけになってしまうからです。電子工学部を卒業した学生が大銀行に就職したので、メーカーに行かない理由を聞いたら「上の方にコンビュータが分かる人間がいないので、たぶん自由に仕事ができるだろうから…」という答え。こんな状況は非常に良くないことです。パンコンは誰でもが当たり前に使えるように、易しいものでなければいけない。マイツールは、こういうコンセプトから開発されたものなのです。

MUG Web Magazine

 

 第15話●今日も雨垂れの音が聞こえてくる
パソコンは難しいか?

ある経営者に、マイツールを導入したのだがうまく動かないという相談を受けたことがある。キーボードが苦手とか、英語主体のコマンドがとか、この手の話の定番の理由がいくつか…。で、話をよく聞いていくうちに「それはパソコンをうまく動かせないのではなくて、人を動かせないのじゃないか?」と答えたら、その経営者がビックリしていた。経営者が、人を動かすのが自分のビジネスだと承知していれば、パソコンは動くし、誰かが動かしてもくれる。いちばん根のところでふらつくのが問題なんだ。率直に社員にお願いしたことはあるのか。給料を払っているのだからやるのが当たり前だという考えが、どこかにあるのではないか。絵料を払ったから一で済んだのは昔のことで、いまは違う。経営者が自分の仕事がなにか分かっていなければ、人は動かない。
 

1日は24時間しかないし、身体はひとつしかない。それは誰も変えることができない厳然たる事実。企業を経営するということは、この厳然たる事実、この壁を突破することなんです。マイツールを使うのも、この壁を取る手段なんです。だって、大量のデータ処理を手計算でやっていたら、1日が30時間あってもやっていけないもの。


企業は社員を教育しなかったらやっていけない。経営者の仕事の90パーセントは、会社の未来を方向付けることと社員の教育ではないだろうか。経営者は現場から遙かに違い存在です。現場は現場をやっている者がいちばんよく知っているのだから、その現場の人たちが経営者に近い物差しを持ってくれていれば、会社は非常に強固になる。つまり経営者が何十人といるわけで、そういう社員を育てるために、経営者は頭を使わなければならない。


また人間関係でいうと、その社員が会社にいる限り、ほぼ絶対的に彼を信じなければならない。もちろん、彼の生を成り代わって生きてやるわけにはいかないのだから、条件付きの思い入れなのだが…。また、その思い入れは決まって裏かられるものなのだが、それでも社員に思い入れのできない経営者は失敗する。90パーセントこの人は'年以内にやめると思っても、彼が退職するまでは信じていかなければならない。


ぼくにも、懲戒免職させなければならないような立場に追い込まれた。社員教育の失敗の経験がないわけではない。また、「私、結婚するのでやめます」なんでいう。ビジネス上なんの正当性もない理由で、女子社員にポッとやめられたこともある。それでビジネスのある部分が吹っ飛んでしまうんだけど、でも、そういうことがあるという前提にたった教育をすることはできない。そこまで思い入れ、信じようとする理由は簡単なことで、人の心は鏡と鏡なのだから、経営者がその心を放棄したら組織が崩れるからだ。経営者が社員を信用しないと、社員の会社に対する信頼もモラルも失ってしまうのです。


そこで同じ立場の経営者の方々にいいたいのだけど、こんなに難しい経営に比べたら、パソコンを動かすなんてじつに簡単なことではありませんか。決まってキーポードアレルギ-という返事が返ってくるけど、そんなもの気にするようなことでしょうか。ポツンボツンと雨垂れの音のようにキーを打っても、別になんの差し障りもないじゃありませんか(笑)。


MUG Web Magazine

 

第14話●1+1+1+1+1+1+1+1+…
組織はパーソナルニーズの集合体

組織って不思議だなあと思うのは、小さければ小さいほど、ダイナミックに動けるということ,組織は大きくなればなるほど、動脈硬化を起こすような傾向がある。
そこで大企業では事業部制にしてあたかも中小企業の集合体のようにしたり、ひとつの課をひとつの事業体のようにして動かしていたりする。さらに細かく見ていくと、一人一人の個人の能力が、その事業体を動かしているのが分かる。特にいまは人間の能力
に依存する割合が大きくなっていると思う。


その理由は、需要がどんどん伸びる時代が終わってしまったからだ。「ガチャマン」なんて言葉が生まれた時代があって、機械をガチャンと動かすと'万円札が日てくるような、作ったら作っただけお金になっちゃうような時代もあった。そういう時代は、大きな川がとうとうと流れていて、システムという木の枝をポイを投げると、自動的に流れていってくれたものだった。


需要が伸びない時代は、大きな池がどんより淀んでいるようなもので、木の枝を投げても動かない。流れている時の木の枝の流れは面を構成するけれど、動かない水面に投げ込まれた木の枝は点しか作らない。点を動かして面にするには、人間の能力に依存するしかない。こういう需要が伸びない時代、不確定な時代、明日が見えないなどという時代は、システムに依存するよりも、個人の能力に依存せざるをえない時代なのだ。そんな時代がとっくに始まっているんだね。


いま、知能データベースといった意味合いで「AI」がもてはやされているけれど、これは経験したことを「この場合はこうするヨ」「これはああするョ」と集積するわけだから、経験してないことはんに組めないんだね(笑)。ところが前にもいったように、いまの会社経営というのは未経験へのチャンジジ。それこそ映画のタイルじゃないけど「未知との遭過」の連続だから、経験則の上には成り立たない。

 

だから人間の能力を引き出し、その知恵と工夫を受け入れて拡大する道具がないと、大企業だろうと中小企業だろうと、これからの時代はとても厳しくなる。いま会社に求められているのは、社員-人-人がいかにパーソナルニーズを持ち、能力を発揮できるよ
うに組織するかということだろう。

 

MUG Web Magazine

第13話●パソコン通信とワープロ通信
ご機嫌よう、さようなら…でよければワープロをどうぞ。

今後、コンピューダ通信は、バソコン通信とワープロ通信という風に別れると思うのだけど…。パソコン通信というからには、やり取りしたデータが自由にハンドリングできなければならないよね。でも現在のパソコン通信は文章転送だけで、技術がないと受け取ったものをデータとして管理できない。受け取ったデータをそのままたエできる「パソコン通信」が広がっていくためには、パソコンの互換性が幅広くなっていかなければならないだろう。


そうした中では、MUG-NETがいまのところ唯一の「パソコン通信」だと思う。だって、受け取ったデータをそのままかエできるのだからね。MUG-NETは、今度り2メニューが出て機能が強化されたけど、これからもっともっと機能的に充実していく。ボーリングといって、「人がいくつものプライベートボードにひとつの文章を同時に掲載できる機能もついた。例えば、年質状などを指定する多数の人に同時配信もできるわけ。これは使い方を聞違えると、迷惑になることもあるけどね(笑)


ワープロ通信ももちろん大事で、これはコミュニケーションを実感できる、楽しいカオスの部分だから。まだまだパソコン通信は黎明の時だから、いろいろとできることをひとつずつ潰していけば、もっと身近なものになると思うよ。


本当は、MUG-NETはMUGというユーザーズグループのBBSではなくて、ユーザーズVANなのだよね。だからぼくは、ユーザーがMUG-NETを使ってVANと同じような仕事をすればいいと思っている。例えば、広告51Gのようなものが考えられる。合員同士で自分たちの商品の広告をMUG-NETに掲載する。みそ屋さんがみその広告をやったり,ホテルが観光旅行のイベント広告をやったりすると面白いのじゃないかな。プリントフォーマットを送って、その下に受注表を付けて、プライベートボードのここへオーダーを入れてくださいと書いておく。受注したらそのまま顧客名簿にもなるし、受注管理にも使える。


こうしたことはSIGを作ってルールに沿ってやれば、混乱しないで実行できると思う。SIGというのはSpecial Interest Group(スペシャルインタレストグループ=ある特別のことに興味があるグループ)のことだけど、まぁ会議室のようなもの。バソコン通信の上でのルームを作るわけだ。MD6本部が広告料なども含めてルール作りをすればいい。広告料といっても、一種のライセンスフィーとして格安にすればいいだろう。


他にも、イベントのSIGを作って、みんなで意見を出しあって、参加募集のプリントフォーマットを付けるとかね。MUGニュースも編集SIGを作って、みんなでMUG-NETを使って編集する。地区の活動もMUG-NETを通してMUGニュースに反映させるとか。
オープンボードに書き込んだ人の通しコードナンバーで、年末に大福引き抽選会をやるのも面白いかな。
何度も書き込んだ方が当選する確率が上がるから、きっとROM人間はいなくなる(笑)。


MUG-METはいま始まったばかりだけれど、将来は昭G本部と地域MGのオフィスとをMUG-NETを使ってネットワークして、データのやり取りなどをしたいと思っている。今後はもっともっと発展すると思うけど、いろいろな可能性、それも大きな可能性を秘めているね、パソコン通信は。


MUG Web Magazine