富森助右衛門正因

(享年34歳)

表門部隊

とみもり

すけえもん

まさより

馬廻・使番

200石。

 

寛文10年、赤穂藩御留守居役

富森助太夫の子として生まれる。

母は山本源五右衛門の娘。

 

父が早くに死去した為、

幼くして浅野内匠頭に仕え、

天和3年に小姓になり、

元禄3年江戸詰馬廻兼

使番200石になった。

 

いついかなる御用を

仰せつかっても良いように

20両の金子を常に懐に入れていた。

また、俳諧をたしなみ、

室井其角に師事し、

春帆と号していた。

 

元禄6年12月

備中松山藩水谷家が改易となり、

浅野内匠頭が収城使に

任じられると江戸から国許へ

下準備を知らせる急使に任じられる。

通常15日かかるところを6日で

赤穂に到着、家中の者を驚かせた。

浅野内匠頭が

勅使御馳走役に任じられる。

 

元禄14年3月

勅使が江戸へ下向すると、

高田郡兵衛と共に品川まで出迎え、

伝奏屋敷まで案内している。

 

3月14日

浅野内匠頭が吉良上野介に

切りかかる事件が起きた。

この時助右衛門の母は深く憤り、

不公平な裁きをした御政道を批判。

復仇をし武士としての本懐を

果たすよう助右衛門に言ったとされる。

 

赤穂藩改易後は

川崎の平間村に

母の隠居所を立てて移り

山本長左衛門と変名し隠れ住む。

仇討ちが決定すると、江戸の

新麹町5丁目の借家に移った。

平間村の隠居所は、

 

元禄15年10月

大石内蔵助の江戸下向に際して、

宿として活用されている。

 

新麹町5丁目に移ると、

吉良邸の探索を行い、

屋敷の構造から

屋内での戦いが

主体となると考え、

屋内戦に有利な

9尺の短槍を考案する。

 

12月15日未明

吉良邸討ち入りでは

表門部隊に属し戦う。

母から送られた

女小袖を肌につけ、

姓名を記した合符の裏に、

 

「寒しほに身は

むしらるる行衛哉」

 

と書いていた。

 

討ち入り後、赤穂浪士一行は

高輪泉岳寺に向かったが、

途中で吉田忠左衛門と共に、

一行から離れ、

大目付仙石久尚の屋敷に出頭し、

討ち入りの口上書を提出。

 

その後大石内蔵助らと共に、

細川綱利の屋敷にお預けとなる。

 

元禄16年2月4日

江戸幕府の命により切腹。

享年34歳。

 

 

妻と子(長男、長太郎)が居た。

妻は田村右京太建顕家来で、

物頭並の菅治左衛門の娘。

名は不明・・・。

 

当時2歳だった長男の長太郎は

母方の伯父に

預けられ、大赦後に壬生藩主で、

譜代大名の加藤家

(加藤嘉明末裔、後に水口藩主)

に仕えた。

 

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短槍を考案したと書かれてるけど、

像が持ってるのは長い槍ですね。

 

奥さん子供さんの事、

詳しく解らないままでした。

謎の多い浪士も沢山居ますね。

 

 

 

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