特性良感喉元

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特性良感喉元について

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お久しぶりです。
今月、15日に祖父が逝去いたしました。
ここから先は長くなるので、お時間のある方はお付き合いください。
7年前から認知症と角上性麻痺徐々に筋肉が麻痺していくを患い、自宅でデイサービスを利用しながら生活していました。
私の事は7年前から忘れてしまっていて、知らない人になっていました。
昨年の12月に転倒し、大腿骨骨折。
その後、手術はしたものの自力で動くことができなくなっていました。
退院後はデイサービスで通っていた施設が、長期預かりを申し出てくれてお願いしていたのですが、小さな施設で素人と変わらない程度のスタッフさんが多く、尿路感染症を繰り返してしまい、入退院の連続。
施設には限界があると判断し、5月に大学病院の付属の老人保健施設に入所。
しかし、入所から数日で敗血症となりました。
敗血症になると、多くの方は亡くなる確率が高いのです。
幸いにも私は仕事を決めていなかったので、看れるだけみようと決めていました。
そして、ありがたいことに夫も最期まで看てあげなと言ってくれました。
実家と会津を往復し、大半は実家に滞在しながら祖父の看護にあたる日々でした。
何度も血圧が70台まで下がり、施設から何度も覚悟してくださいと言われていました。
状態が悪くなると夜は施設に泊まり込み、祖父のベッドの横に私のベッドを用意してもらって看護させてもらいました。
昼間は叔母や母が付き添い、夜は私の担当。
そんな毎日を1か月半、繰り返しました。
施設の看護、介護のスタッフさんたちは、ほとんどの方が親切で懸命に祖父の看護、介護にあたってくれました。
しかし主治医が初めからありえない態度でした。
高齢だから死ぬとしか言わず、私が質問したことにも満足に答えられない知識のなさ。
初めから治療しようとする態度すらみせません。
挙句に、私が病室にいれば逃げ帰る。
そして、私がいない間に、叔母たちに手渡した用紙。
そこにはがん患者で積極的な治療を望まない方に対して、涛Hの量を減らし穏やかな死を迎えさせる方法が書かれていました。
私は、その内容を読んだ時、怒りしか感じませんでした。
高齢だし、状態的に長くないことは分かっていました。
それは身内全員が理解していることです。
しかし、祖父が生きたいと思い、祖父の寿命が続く限り見守りたいと思っていたのです。
その紙を手渡されてから数日後、治療を望むなら病院へ移せと言われました。
初めに敗血症になったとき、主治医は病院に移しても呼吸器装着等を望まないのならば、施設でも治療内容に変わりはないと言ったのです。
祖父は環境の変化に敏感で対応できないため、施設に残すことを選択したのですが。
私は祖父の49日が終わったら、病院へあてて手紙を書くつもりです。
私は医療の知識があったから祖父の身を守ることができました。
しかし、医療知識のない家族は黙って医師の言葉や行動を受け入れるしかありません。
医師の身勝手で命を終わらせることは絶対にあってはならないと思うのです。
今まで、看護師として仕事をする中で、様々な医師に出会いました。
一生懸命に治療にあたる医師、適当な医師、家族の信頼も得られない医師。
すべてが素晴らしい医師は稀です。
医師も人間。
完璧なはずはありません。
しかし、いかに誠意をもって関わるかです。
祖父の主治医からも学ばせてもらったことはあります。
医療者として絶対に投げ出すような医療はしてはいけないこと、誠意をもった態度で関わること。
反面教師ですね。
賢くない主治医のことは、愚痴になってしまいました祖父は敗血症になってから、食べさせてもらえない期間が長かったために、食べ物を奥に送り込む筋力が低下してしまいました。
しかし、食べたい意欲はあり、喉が渇くことが何より辛そうに見えました。
身内で相談し、誤嚥して肺炎になったとしても食べさせようと決め、梨が大好きだったのですが、まだ市場に出回らない時期。
ちょうど、梨ジュースを見つけたので果汁は1製氷皿で凍らせてシャーベットにし食べさせていました。
食べると言っても、水分にしたら数滴です。
本物の梨が市場に出た当日、まだ青い梨を購入し、すりおろして果汁を含ませたり。
まだ事。
があって、顔をしかめていましたが。
そんな毎日を過ごし、私は看護師長さんから許可を得て、医療行為吸引もさせてもらっていました。
泊まった翌日は、起きてから顔を拭き、髭をそり、口の中をきれいにして食べていないので分泌物が固まってしまうのです、水分を含ませる。
おむつ交換にも入れてもらったり、シャンプーが好きだったので、何回かしました。
一度、髪が伸びてしまったので理容師の母が寝たままカットしたり。
会話はできませんでしたが、頷くことはできたし嫌なことは顔をしかめて意思表示したり。
お盆になるため、一度、会津に戻り、2日置いて夫とワンコとともに那須に戻りました。
しかし、戻った12日は呼吸が苦しそうになっており、頻回な吸引が必要であったため泊まり込み。
翌日も夕方に施設に戻ったところ、同じような状態で叔母たちの希望もあり泊まり込みました。
14日の夕方、会津に戻る前に施設に行き、一通りのケアを終えて施設を後にしました。
予定では2日後に那須に戻るつもりでした。
施設を出て10分ほどのところで、車のガソリンを入れるために、セルフのスタンドに立ち寄りました。
夫が車を降りて、給油しようとしたときです。
突然、カーナビの音楽が大音量に。
通常、12程度で聴いているのですが40MAXに。
何かあったのではと、施設にいる母に連絡を入れましたが、変わりないとのこと。
電気系統の接続部を引き抜いて会津に戻って2時間後、呼吸が停止したとの連絡が。
その日は、母の妹の夫が泊まり込みをしてくれていました。
実は、2週間ほど前に、祖父が夢枕に立ったと言うのです。
夢枕にたち、伯父がじいちゃん、どうしたんだいと聞くと、俺、お盆までは死なないからと言ったのだそうです。
今年は、もう一人の叔母の嫁ぎ先で初盆がありました。
きっと、そこは乗り切ろうと思ったのだと思います。
14日が初盆でみんなが集う日でしたので。
伯父は直感で、危ないと思って泊まり込みを申し出てくれたそうです。
最期に立ち会ったのは伯父一人です。
私では頼りなかったし、祖父からすれば若い私には可哀想だと思ったのでしょうね。
自宅に帰って、布団に寝かされている祖父は穏やかな顔で、施設のベッドに寝ている時と変わらない姿でした。
不思議なことは続き、お通夜の日、私の従姉妹の婚約者が大阪から駆けつけてくれました。
みんなで祖父の顔をみて、その場を離れようとしたとき、ふすまが突然、倒れたのです。
きっと、律儀な祖父のことなので遠いところ、ありがとう。
孫を宜しくお願いしますと言ったのでしょう。
葬儀には400人ほどの方に来ていただき、花の祭壇に囲まれた祖父は穏やかに旅立ちました。
火葬でしたが、87歳にして全て、自分の歯だった祖父は、火葬後も歯が残り、火葬場の職員のかたも、この年齢で残っている方は初めてみましたと言っていました。
その立派な歯に、口の中をきれいにする時に何度も噛まれたんですけどね笑祖父は私が大阪から戻り、試験も通過するのを待っていてくれたように思います。
祖父が私に看せてくれたのだと思っています。
戦後、シベリアに4年間抑留され、過酷なところから生還。
国鉄で勤勉に勤め上げ、国鉄時代には陸橋の線路の亀裂を発見して電車を停止させ、事なきを得たと表彰されたことも。
当時の新聞が実家に残っているそうですが、後で祖母にみせてもらわなきゃ退職後は、庭木の手入れにいそしみ、晩年は娘たちたちと私、祖父母で青森、宮城、山形と旅行したり。
シベリア時代は過酷であったことと思いますが、きっと幸せな人生であったと思いたい。
私に残してくれたものは大きく、私が海外に興味をもったのも幼いころから聞かされたシベリアが影響しているのだと思います。
悲しみはあるものの、祖母も娘たちも私も、十分に看せてもらったので後悔はありません。
頑張ってくれた祖父に感謝しています。
亡くなったあと、私は祖父にいい看護師になれたかなと問いかけました。
答えはまだありません。
まだまだと言う意味なのでしょうね。
今回、祖父の看護を通して学ばせてもらったことを、今後の看護師人生に大いに生かしていかなくては7年前から私の事を忘れてしまっていましたが、今年に入って毎日通っているうちに、孫と認識はできないまでも身内とは感じてくれていたようです。
結婚願望人の叔母と私の声には反応してくれていましたので。
すべてにおいて、ありがとうの気持ちでいっぱいです。
取り留めのない日記になってしまいましたが、お付き合いくださった方、ありがとうございます。
私の今後ですが、49日が終わってから就職しようと思っています。
祖母が落ち込んでしまうと困るので、当分は実家と会津を行き来しますが、時間調整がつくようになったので、お時間のあるかたは会津へいらしてください祖父の看護中、励ましをくださった皆様、ありがとうございましたmm