日曜日の午前中、久々テレビを点けた。渦中の松本人志さんがワイドナショーに出演すると聞いていたので。結局裁判に持って行く流れで出演は見送られたようだけど、コメンテーターも大分言葉を選びながら発言していたし、お笑い界の屋台骨が一気にぐらつき出した事件ではある。私も昨年暮れまでは、いちファンとして好んで出演番組を観ていたけど、BPO等が眼を光らせている中で大分攻めていたなとは思う。そこに生じる笑いに当然賛否は分かれただろうけど、今回の件でまず芸能界復帰はないと思っている。本人も辞め時を探っていたようだし。松本さん側は、今後裁判で名誉棄損を主張するようだけど、普通に考えれば性加害という事実を芸能活動休止という形で有耶無耶にして、被害女性の納得の行く解決策を探るのではないか。その間、この件を取り上げ続ける週刊誌はバカ売れだろうし、松本さんが戦いたいのは被害女性というより、週刊誌ではないのか⁉と思ってみたり。何にせよ、芸能界で大きな影響力を得て相当天狗になっていた松本さんが、今後何を発しても笑いにはならない状況となったことが、本人にとって一番の罰のようにも思う。「すべらない話」や「IPPONグランプリ」は誰かが継承するだろうか。数年間の裁判は覚悟が必要のようだけど、間接的に相当傷付けたであろう家族の為に余生は大人しく過ごしてほしい。

 

 今回の雑談も浅く読み取れば「傷付ける」という内容ですね。それだけだと物足りないので、昭和臭も少しだけ漂わせてみましょう。

 

実は人を傷つけている言葉5選

 

 1,「え、そんなこともわからないの」

 2,「え、意味わかりますか?」

 3,「育ちが悪いね」

 4,「あなたにはできないよ」

 5,「あなたのために言ってるんだよ?」

 

  この雑談含め、ブログを書けば何度も読み返して誤字脱字や言い回しについて私なりに校正を行います。コミュニケーションにおいて、今まではスラスラと感情や考えを言葉として相手に伝えることができていたけど、歳を重ねるごとに咄嗟に的確なワードが出てこなくなったような。本来伝えたいことが半分くらいしか伝えられないこともちらほら。私が発する言葉が読み手や聞き手にどう影響するのかを考えることは、自分の考えを相手に伝える上で当然通すべきフィルターだと思っている。それは、大人になるにつれて自然と身に付けるものかもしれない。相手がどう感じるかという意識がないまま好きなことを発するのは、自分の言動に責任を取るつもりはないということに等しい。言葉は使い方次第でどうとでも相手を傷付けることができるから、ブログやSNS、友達との会話であれ、自分の言葉には相当の責任を持つ意識は必要でしょう。これがある意味私なりの結論なんだけど...更にダラダラと語ってみる。

 

 普段から冷静でいようとは心掛けるけど、私も本性は決して善人ではないから、相手の言動に対して「育ちが悪いんだな」と考えることはある。でも、それを態々相手に伝えようとは思わない。伝えなきゃ独り言であって、自分の感情を表に出すストレス発散まで話。ある意味、ガス抜きだね。車は独りで運転することが多いというのもあって、口が悪くなるタイプですw 運転に意識が持っていかれて、フィルターを通す余裕がないのかな。そういう人なんだ!と思われそうだけど、私には感情を必要以上に溜め込みたくないという思いがある。良い人で居続けるのは疲れるよ。気持ちにゆとりが持てることって理由があると思うんだ。それなりの経済力があったり、色んな人と関わって人生経験が豊富であったり、支えてくれる家族や仲間がいるとか。そういうところを他人同士比べていくと、やっぱり幸不幸、恵まれている貧しいという線引きは必ず存在する。比べてしまえば劣等感に襲われるので、言っちゃいけないと分かっていても独り言の範囲で毒を吐くし、妬みの感情が顔を出してしまう。私がそういう人間、性格であることは否定できない。但し、人と比べたところで自分の人生が良い方向へ進むとは限らないから、意識し過ぎないようにはしている。

 

 平日の16時くらいになると急に外が騒がしくなってきて、私の住むアパートの周りで鬼ごっこが始まる。感情を爆発させるようにギャーギャー言いたいことを発したり、やりたいことを感情の赴くままに行ってしまう小学生低学年くらいの子たち。私は子供が苦手なので上手く注意する自信がないけど、ベランダに置いている物が壊されたり、長時間騒ぐようなら親や学校へ通報という手段も頭を過ぎってしまう。「教えてあげなきゃ!」というのは、そのレベルだと思うんだよね。大人になってまで、こんなこと言わせるなよ‼って思ってしまう場面の対処法はとても難しい。私にも過去に指導職として後輩や学生と関わっていた時期があった。仕事内容は理論的に話すように努めたけど、テレビや映画の見過ぎかな!?私が教えるからには人情味溢れる人になってほしいという願望が強くて、私の奥深な指導方法が上手くハマる人もいれば、意図を読み取れない曲者もいてw 何が正しい生き方・考え方なのか容易には分からないけど、別の視点や選択肢を持つことは人生の刺激となって面白いと思っている。とは言え、ハラスメントという認識が一般的になった昨今で、言い方ひとつ気を付けなきゃいけないというのは、どこまで相手の気持ちを汲むべきか⁉という昭和のオヤジ泣かせな社会になってしまった。言いたいことが言えない、相手の取り方次第で言った方が悪者になる。弱い立場の者を救う意味でハラスメントの意識が高まったことは意味があるかもしれないけど、一方で本当に未熟なおとなこども(精神的に未熟な大人)が厳しく指導される機会が減って...当然オヤジのゲンコツ的なものを知り得ないわけでしょう。

 

 私の元嫁は小学校の教員として働いていた。交際中は理解も深くて思いやりもあって...人としてできていると感じることもあった。結婚後に豹変してしまうんだけど、引越しや転勤など環境的変化に加え、私の接し方等、複合的な要因があったから深くは触れないでおきます。叱ることと怒ることは違うと言われるけど、どっちにしても言われる方はそれ相当傷付く。私も悪意があってやってないのに一般常識に照らし合わせれば、説教部屋行きのダメ人間な一面があったようだし。正直「常識」って括りは誰基準だよ⁉って思うから私は嫌い。職業病的に私に説教する元嫁に対して、私は内心で(そんなの知らないよ‼何でうちの親は教えてくれなかったんだw)と俯き加減でボヤいていたのが懐かしい。私は幼少期に金銭的に困るような生活はして来なかったけど、両親が私の人生にどれくらい関心があったのかは感じ取れなかった。仮に関心があったとしても両親とも口下手で深い話をする機会はなかったから、将来の選択肢であったり、コミュニケーションの取り方を教わることはなくて。そして、友達も少なかったから...と、環境的要因は避けられなかった話に至ってしまう。

 

 「私の率直な気持ち」「私の本性」「指導と言う観点」「結局は生い立ち」など、色んな視点で考えてみたけど、言う方も言われる方も結局生い立ちが問題なのか!?

 

 読み返していて気付いたんだけど、この5つの言葉には相手を傷付ける要素とは別に極々僅かな親切心も含まれているのではないか。相手が傷付くと分かっていても伝える使命感や持論の正当性、親切心が勝ってしまう。私を説教していた元嫁は親切だったのか、それに反論したり逆にダメ出しをしなかった私は不親切なのか。どうなんだろうね。本心というのは上手く伝われば分かち合うこともできるんだろうけど、感情がぶつかり合えばすれ違うことの方が圧倒的に多いように思う。感情を言葉に詰め込み過ぎるのはトラブルの種、用法容量を守って‼というやつだね。確かに傷付ける可能性はあるけど、言い方次第であって、伝えなければ別のトラブルを引き起こす幼稚な大人も存在する。私は身近に本気でぶつかって更生させなきゃいけないような人はいないけど、この人を救いたいって気持ちから不可抗力で傷付けてしまったことが完全に悪いとは言い切れない。

 

 行き付く先が「育ちどうこう」と言う結論だとしっくりこないので、余計なことを付けたし付けたししてしまったw 時代は変われど、様々な手段で人同士は関わり続けていかなければならない。数秒でも数時間でも、時間が許す限り考えて話す習慣を付けましょう‼当然だけど、相手の話を聞き取ろうという気持ちも忘れずに。双方の気持ちが通じ合ってこそコミュニケーション。5選のような言葉だけで上手くコミュニケーションが図れるとは思えないけど、一方通行にならないよう心掛ければ、厳しい一言も必要だと思う。それは古臭い考えなのかもしれないけど、人を思う気持ちが薄れればどんどん薄っぺらい人間性になってしまう気がするんだ。


 タイトル含め何度も書き直しちゃったし、今回は自信のある文章ではないんだけど...今日も少しだけ自分の感情や考え方を整理することができました。最後まで読んでくれてありがとうございます。