入院中の母親の面会を済ませ、LEONのサントラを聴きながら、しんみり考え事がしたくなった。ここ最近は、こんな調子だな。

 

 夕食の配膳直後だったようで、ベッドに端座位になる母親の前にはお粥と極小刻みという典型的な病院食が並んでいた。母親は、突発性血小板減少性紫斑病という難病指定の持病があるので、両上下肢や舌は内出血していたり、傷を修復できない状態で当然食事するのも辛そうだった。

 

 補給食として付いていたウィダーインゼリーは口が開いていて、母親は私に「これ食べんね」と渡してきたが、些細なもてなしの気持ちなんだろうけど、栄養状態が悪い患者からカロリーが高い補給食を受け取るなんて・・・あり得ない(笑)

 

 そして、さらっと母親は「足は切らんなんげな」と言ってきた。特に落ち込んだ表情でもなく、すでに覚悟は決まっている様子だったが、私は手術前に医師より「もしかしたら切断もあり得る」と聞かされていたとは言え、未だに身体の一部がえぐられるような、吐き気がするような複雑な気分が抜けきれない。

 

 私が知る限りの母親の人生を振り返った時、旦那の他界、息子の自由奔放独身生活に始まり、うつ病との長期闘病の挙句に上手く人間関係が築けずに引き篭もりに近い生活を送ってきた。そんな母親の人生に私は同調することなく、この前までなら「自業自得だろ!」っとバッサリ言ってた気がするけど、流石にね、流石に「何て人生だよ」って涙ぐんでしまった。

 

 意地を張って直ぐに病院に行かなかった母親が悪いとは言え、取り返しがつかない状況にならないと母親は分からないと距離を置いて眺めていただけの私にも原因はあるわけで。いつもだったら割り切って考えたり、絶対涙なんて出ないはずなのにね、ちょっとは人間らしい自分を目の当たりにして不思議な感覚ではある。

 

 来週にも足を切断するという話しを医師から受けて、「これは命を繋ぐ為に止むを得ません」と言われて私だったら納得するだろうか!?と自問自答した。特に私にとって走ることが生き甲斐の大半を占めている現状からして、つまりは「生き地獄を味わって下さい」と宣告されてるに等しいような・・・とても冷静に表現もできない動揺がある。

 

 安定剤等の薬の影響なのか、母親からはネガティブな言動は見られなかった。私だったら希望を失いそうな宣告を受けても尚、明日が来るのを受け入れる覚悟がある母親にとって何が希望なのか!?それが私だとしたら荷が重いと思いつつも、いやいや甥っ子や姪っ子の成長を見たいんだろうと気を反らした。

 

 人は自分の弱さを認めた先に成長があると思う。一人で抱えきれずに母親の壮絶人生をネタに自分の弱さを晒している私は一見崖っぷちなようで、今が自分を見つめ直す時だと思っている。そして、母親もまた身体の一部を失う状況になって、潔く自分の人生を見付め直すことができるのか・・・どうなんだろう。

 

 最近、社会の風潮は半人前でも一人前に権利や持論を主張する(できる)ような流れを感じる。私が若い頃は・・・という説教そのものが死語なんだろうけど、こいつらが人の上に立った時に、果たしてその部下や組織を柔軟に支えて行けるのか。そんな現状を嘆きたかったけど、私が本気で向き合うのは奴らではないなと気付いてしまった。

 

 人間関係は許容と分別(ふんべつ)。直感で「この人の為に生きたい、この人を応援したい」と思ったところに線を引く。私みたいにほとんど味方がいない凡人に救える人は少ないだろうけど、より明確に線が見えてきたことで、私自身潔くなれる気がするよ。自分の人生と母親の余生がどう好転していくのか・・・今はその方法を考えている。