友達に対してやネット上で、政治思想の話をするべきでないと僕が思うのは、僕個人がまた日本人が、その話し合いについて成熟していないと思うからだ。

それらの意見を忌憚なく交換できるという理想には、その事によって個人が不利益を被ることがない、という前提が必要だ。
しかし僕は例えば友達が公明党に票を入れると言ったなら、その人との付き合い方から考えてしまうし、今回の選挙で言えば、民主党に入れたという人も、そういう人なんだという目で見てしまう。それはもちろんただの僕個人の思想なだけだけれど、つまり政治思想と個人を切り離して見られないのだ。僕はそんな情報をできれば知りたくない。
もしかしたらこれは創価学会という宗教団体が公然と母体になっている公明党の問題が大きいのかもしれない、かつて佐幕派と倒幕派がその思想の違いで殺しあった教訓から来ているのかもしれない、また宗教や思想の多様性を日本での普段の生活からはほとんど感じることができないからかもしれない、が、とにかく政治の話だけで済まないことになりうるのだ。
もしそのような未成熟な状態で無理矢理意見を交換したならば、それはもはや民主主義ではなく全体主義になってしまうのではないかと思う。
不利益になりうる、認められずらい思想の持ち主は、生活を守るためにはそれを捨てるか誤魔化すかしなければいけなくなるからだ。今の現状で、原発推進の思想をもつ個人が、その思想をはたしてどれだけ発露することができるだろうか。

そしてTwitterやFacebookというネットでの個人発信というのは、情報の入手や拡散性に優れている反面、簡単に恣意的な情報が広められてしまうという危険もある。そして実は一番重要かもしれないことは、人々は、ネットにおいてはなぜか現実の対話よりも理想主義的になりがちであるということだ。魅力的で理想的な、現実的でない謳い文句で、知らず知らずのうちに政党のプロパガンダに利用されているかもしれないのだ。
結局まだ意識の高い自分に酔っている段階だと思うのだ。それは選挙に行ってきたことをわざわざ表明する人の多さにも現れている。それら玉石混合の情報を賢く使いこなす教養はまだまだ不足していると思うし、政治というものに踏み込んでいくにはとても危ういものなんじゃないかと思う。

それならばいっそ政治思想というのは個人の聖域であり、簡単には覗いたりさらけ出したりしないものとする、という日本人の様式は実はとても理にかなっていることに思える。海外ではどうだとかは知らないが、自分だけの炎を自分の中だけで燃やし、核心を避けて器用に人付き合いのできる日本人というのはそれはそれで美徳だと思うし、個人の神秘そのものはそのままでいいんじゃないかと僕は思う。