西洋の皇帝制度 | 夜半の月

夜半の月

常ならむ 此の世と言えど あまりにも 想いはただに 夜半の月とは【自作】

徒然なるままに、医療や法律や経済や和歌などや音楽や映画やツーリングやエビアクアリウムについて書いて行こうと想います。研究者の目から見ての大学や受験についても書きます。

ヨーロッパにおいて皇帝と云うと真っ先に浮かぶのがローマ帝国になりますが、その後はロシア皇帝まで少し思い浮かんで来ないのでは無いかと想います。ローマ帝国は凶奴ゲルマン人の大移動とミラノ勅令までのキリスト教との宗教戦争と、生活習慣からの鉛中毒と奴隷売買と略奪を前提にした経済体制で、やがて全地域の単一制度による統治が困難となって東西南北四帝国分立は失敗して、東西ローマ帝国並立時代となったがゲルマン民族は漢による内訌策で匈奴は分裂した中で北魏を設立した五胡の一つ鮮卑に圧迫された匈奴の1部族フン族による侵略に耐えかねて軍門に下った東ゴート族以外の西ゴート族やブルクンド族やデーン人などノルマン人が押し出される玉突きで他のゲルマン民族やノルマン人全てが西ローマ帝国へ侵略移動して混乱の中で西ローマ帝国は滅亡する。東ローマ帝国もゲルマン民族とケルト民族の移動の中でビザンチン(現イスタンブール)を本拠地とするギリシャ北東部からバルカン半島と西小アジアを支配する国家となって15世紀に十字軍の侵略の為に国力を低下させてトルコに滅亡さそられた。西ローマ帝国はカソリックの守護者として神聖ローマ帝国皇帝として受け継がれてカソリックの守護者東オーストリアのハプスブルク家が十選定候を買収して代々神聖ローマ帝国皇帝となった故にオーストリアは第一次世界大戦で崩壊するまで帝国を名乗っていた。東ローマ帝国はギリシャ正教の東方教会の守護者として代々東ローマ帝国皇帝として君臨していたが十字軍の為に衰退してトルコに侵略されてビザンチン周辺領だけになってビザンチン帝国と名乗っていたがオスマントルコと戦うが負けて国家は消えた。やがてキプチャク汗などのタタールのクビキを脱しキエフ公国からモスクワ大公国となってキプチャク汗を征服して後にビザンチン帝国が滅亡すると共にロシア帝国となってイワン雷帝から始まるロマノフ王朝がギリシャ正教の守護者として東ローマ帝国皇帝継承者として東ヨーロッパからアジアに君臨する。つまり、ヨーロッパの皇帝はキリスト教の守護者と云う意味でしかなく王とは対等で独立している諸侯にも身分の格差が有る訳ではない。