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多摩境(町田市)にあるストーンサークル。

 

訪れた冬至直後のこの日、太陽は蛭ヶ岳山頂から少し下がった稜線に沈んでいった。太陽下から少し右の尖った三角形が蛭ヶ岳。

実際の遺構はこの下に埋め戻されている。

 

 

この場所は冬至の日に太陽が丹沢の最高峰蛭ヶ岳に沈む。現在は遮られているが少し右に白い富士山も見えていただろう。

墓も発掘されていてここは墓域だった。冬至の日には死と再生の祭祀が行われたと思われる。

 

 

 

地形図を見ると、ここは丘陵のへりの高台で、丹沢山系の大山から蛭ヶ岳、そして富士山までが一望できる眺望の地であることが読み取れる。

 

 

西から来た縄文人たちが相模野を抜けると、行く手に多摩丘陵が立ちふさがった。そして一度歩みを止めたらしい。西日本由来の遺物の出る遺跡が多摩丘陵西縁ラインに並ぶ。

 

しかし、縄文人たちはやがて小さな峠<内裏峠という>を越え大栗川沿いを進む。その道は現在の多摩ニュータウン通りと重なり、そこには多摩市だ。

その相模原から武蔵野へと多摩丘陵を抜けたルートはいま「古代甲州道」と呼ばれる。八ヶ岳と結ぶからだ。

 

 

 

 

 

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