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一之宮という称号は、はるか奈良時代に、はるばる都から赴任してきた国司がまず参詣する神社とされたことによる。「小野」の名は上代のこの地は武蔵国多摩郡小野郷であったゆえ。


武蔵の国は広大でしかも国府はその南端だ。六つの宮の神は国府の大国魂神社に配祀され武蔵総社六所宮となった。神は分つことができるのだ。

 

主な祭神は天ノ下春命(あめのしたはるのみこと・武蔵国開拓の神)、瀬織津姫命(せおりつひめ)。


謎の女神として語られる瀬織津姫命は、大祓詞で穢(けが)れを最初に川に流す。

 

  高山の末 短山の末より

  佐久那太理(さくなだり)に落ち

  多岐(たぎ)つ 速川(はやかわ)の瀬に坐す

  瀬織津比売 と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 

 

 

水神、龍神とも関わり、また、実は天照大神の荒御霊だったり妻だったり。さらには、縄文や蝦夷の封印された神との伝承もあるらしい。記紀には登場しない神ゆえ謎は深い。

 

 

 

 

木造随身倚像(もくぞうずいしんいぞう)

 

像内にあった墨書銘によれば、左の吽像は鎌倉時代末期の作。江戸時代にその修復が行われた際に右の阿像が作られたとある。(※ 阿像、吽像の阿と吽で「あうん」。「阿吽の呼吸」は互いの呼吸が合っていることで、口の表情で表現される。狛犬の口元がそうだ。)

 


随身とは貴人の近くで警護を行う者(舎人 とねり)のことで、弓矢を持つ。雛壇の左大臣、右大臣がそうだ。この像も手つきは何かを持っていた様子。背に矢は見られない。

 

倚像(いぞう)とは立像に対する言葉で台に腰かける姿。「倚」は「寄る」に似た言葉だが現代表現に用例が見あたらない。人偏の「イ」から読みをとればいい。

 

 

都指定有形文化財。

 

 

吽像の剥がれと黒ずみを画像に加工を加えて少しとってみた。優しそうな表情のおじさんです。

 

 

 

過去に火災にあい、焼けた足などを補修したらしい。表面のはがれがこの像の苦難の時を語っているのか。

 

 

 

 

 

 

 

随神門

「随身」が門では「随神」に転化した。仏教寺院の仁王門にあたる。

現行の随身像。こちらは弓は持っているが、やはり背に矢は見られない。

 

 

 

瀬織津姫は龍神を操るのだろうか?


      俵屋宗達の絵で風神を知る方、
      雷神ともどもここに居ります。


怖そうな神々も随神門で神域を守る。

 

 
 

二つの小野神社

 

さて、多摩川の対岸に「小野宮」とも呼ばれる小野神社がある。祭神は同じ天ノ下春命、瀬織津姫命の二柱。このふたつの小野神社を考えてみる。書籍やネット上で出会う記事を繋ぎ合わせての想像だ。AIなら違う話になるかもしれない。

 

初めに(創建になるが)府中の側に小野神社ができた。多摩川の氾濫から守ってもらうために水の神である瀬織津比売を祀ったことはここで納得しやすい。当時の多摩川の府中市側に広がる河川敷を考えると神社は氾濫にさらされたことだろう。近くの中河原などは河原の中だと地名自身が言っているし、新田義貞軍と鎌倉幕府軍の合戦の舞台分倍河原はさら外だ。

それで、対岸、多摩丘陵側に遷座した。水災鎮護の神社だから川からは離れない。人々が移るわけではないので元の地で小野神社を祀り続けたのが府中市側の小野神社(小野宮)、というシナリオだ。

 

どちらの神社にも遷座の記録はないようだし、平安時代の延喜式の神名帳に載っている小野神社がどちらかもわからないのだが、この二社は関係していることに異論はないようだ。現在の六所宮では両社とも一之宮として扱われているとのこと。

 

 

 

 

 

 

武蔵の国の二つの一の宮

 

律令の時代、武蔵国が設定され現府中に国府が置かれたころは、小野神社が一の宮で大宮の氷川神社は三の宮だった。当時も神社の勢いは氷川神社が圧倒していたが、府中との距離をみてほしい。地元は尊重されたのだろう。

時代は移り祭事構造も変化、室町、江戸時代には大宮の氷川神社が武蔵国の一の宮とされた。

 

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          奈良 平安  鎌倉  室町   江戸  明治

          国司         守護

 

では、現代に有効な一の宮はどちら?

現行の神社に序列はない。府中大国魂神社の六所宮での一之宮は今も変わらず小野神社。

 

ちなみに、それぞれの<武蔵の国の一の宮>の表現は

 「武蔵国一之宮 小野神社」(むさしのくにのいちのみや)

 「武蔵一宮 氷川神社」(むさしいちのみや)

となっている。

 

多摩市一ノ宮という地名は「一之宮小野神社」からだし、大宮の地名は大きな宮氷川神社のことだ。

神社は人の神への思いを受け止める装置なので、「一之宮」という修飾はそんな幻想を拡張する。

 

 

 

「小野」という地名について

 

冒頭に「武蔵国多摩郡小野郷にあったから小野神社」と書いたが、その「小野郷」が存在したのは「小野牧」とうい軍馬の牧場の記録とともに、武蔵国分寺の瓦に「小野郷」の刻印があったことで確かめられている。奈良時代には小野郷はすでに存在していたのだから、そこにある神社が小野神社なのは自然なことだ。

 

ここで、話を混乱させる状況がひとつある。武蔵国の国司として赴任してきた都からの貴族が「小野氏」だったのだ。同じく「小野牧」の管理者もまた「小野氏」一族だった。紛らわしいがたまたまのことらしい。

 

町田に「小野路」という集落がある。相模から小野郷に向かう道という意味だが、そこにも「小野神社」があるのだ。しかしそちらの「小野神社」は、都から赴任してきた役人の小野氏が祖先の小野篁を祀ったことがわかっている。多摩市の小野神社とは祭神も異なるので関係がないのだが、こちらも紛らわしいことだ。

 

 

 

「小野牧」について

 

小野牧の正確な位置は記録がないが、小野神社の近くの遺跡から馬具が出土している。多くの馬を放牧したのだから相当広いエリアのはずだが、馬が逃げ出されないためには、管理のしやすい閉じた地形が都合がよかったはずだ。蛇行した多摩川の河川敷を利用したのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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