中国においては、進路選択はいかようになされているのでしょうか。
日本の場合は、たとえ「勉強のためではない、就職のために大学へ行くんだ」と言ってみたところで、受験の前にまずどこの大学のどの専攻に入りたいのか決めないことには受験できません。
ですから就職のためと言うことで、経済・経営といった大まかな範囲の中で志望大学・学部を決めたり、文学部であってもその中で、外国文学であったり歴史・哲学等、自身の興味にあった学部を志望したりすると思います。
もちろん何かこだわりがあれば、こだわりのある専攻に応じて志望大学を決めたりします。
人によっては「何したいかわからないから大学へは行かない」という選択する人もいます。
良くも悪くも、大学受験を前に一度何か考える、それが結構いいことなんじゃないかと思います。
自分がなにも考えていなかったことを発見するのも、自分を見つめ直すいいきっかけになるでしょう。
中国の場合
しかし、中国の高校生は受験の前に、大学へ入った後何がしたいのかということは一切考えません。
学校の教師も学生に求めないし、父兄も子供に考えさせることはありません。
教師、親を含めて、受験生の関心事はただ一点、「高考」 (年1回のセンター試験)で何点取るかです。
そして、取れた点の中で出来るだけランクの高い大学を選びます。
専攻などはそのあとです。
「高考」 が行われ、その後各人の点数が確定した後で、約2週間程度のスパンの中で志望大学と専攻を決めてしまいます。
学生に問えば、「この専攻に興味があって選んだ」となるのでしょうが、「外国語学部」や「法律学部」「金融学」といった名前だけで選んでしまったという感は否めません。
何せ長い時間熟慮されたわけではありませんから。
当然の事ながら経済が発展中で将来性のある「法律」や「金融」といった学部というのはもともと点数が高くないと入れませんので、たった1回の成績が良くなければ選ぼうにも選べないと言うことになります。
ですから、日本語学科の学生の中にも「私は女の子なので外国語学部を選びました」という学生がいて、しかも「入学したら英語と日本語が選べたので、日本語を選びました」、「それは英語は人が多くて競争が激しいからです。」というわけです。
しかしながら「日本語がこんなに難しいとは思いませんでした。選んだことを後悔しています。」と。こんな学生がたくさんいます。
例えば最初から法律家を目指し、その目標に向かって勉強し、目標を達成するというサイクルではないわけです。
とりあえず何も考えないで、「高考」 で出来るだけいい点数をとり、取った点数の結果、「法律家になることができる」とか「金融の世界に入ることができる」といって自分の進路を選んでいるわけです。
この結果が北京大学を筆頭とする「エリート」といわれる人を生み出しているわけです。
中国の「エリート」については、また教育制度を一通り語ってからお話ししましょう。
中国の大学受験はどうしてこのようになってしまうのでしょうか。
もちろん制度の問題もあると思います。
しかし、中国人の思想とも大きく関わっていると思います。
中国の社会は、とにかく学歴だけが重視される社会です。
これは就職のみならず、その人そのものの価値・評価をも左右するのが中国社会です。
特に中国人にとって格別重要なのが「面子」です。
これは日本人には理解できないレベルの重さです。
親戚との集まり、また知人との関係、高校時代の同窓会などで、学歴と収入は大きな意味を持ち、一般より劣れば、それは自身の人生の全否定に繋がります。
当然親にとっては子供の学歴・収入は親の面子に繋がりますので、親も受験では成績の善し悪しだけを重視します。
「うちの子供は「高考」 が何点だった」「どこの大学に入った」というのが自慢にもなり、劣等感にもなるわけです。
親にとって専攻の選択など、後からついてくるものです。
日本でも親戚が集まったり近所の人とのコミュニティーの中で存在すると思いますが、中国人の「面子」の感覚は想像を絶します。
こうした学歴重視をもたらす「面子」があるかぎり、親も子供も受験に対する姿勢は変わらないのだろうと思います。
「面子」について
「面子」という言葉はそのまま日本語で翻訳できるわけですが、中国人にとっての「面子」と日本人にとっての「面子」の意味合いは全く対応しません。
日本人の感覚で「面子」を計ると理解できません。
簡単に中国人の面子の特徴を書いておきます。
1.他人の面子には無頓着で自分の面子だけを重視。ただし、他人の面子には無頓着なのに、相手には自分の面子を重視するよう求める。
2.面子を失うことに善悪の別がない。悪いことをして他人から非難されても「面子が潰された」となる。わがままが通らなくても「面子が潰された」となる。
3.相手の「面子」をたてるのは、相手が自分よりも「力」が上位の時だけ。
対処法としては、
中国人個人にとって「面子」が大事なものであっても、他人が顧慮する必要はなし。
ただし、中国の社会は「法治」ではなく「人治」社会ですので、公私を問わず「権力」を持つ人の面子にだけは注意すること。
となります。