被災地の今
“新聞に門脇小学校の記事が掲載されいるよ”という夫の声
それは全国の中学生が東日本大震災の被災地を訪れて
被災地の今を肌で感じるというプロジェクトが始まり
新潟市内の一人の女子中学生が参加し
今回石巻市を訪れたその報告記事でした
津波の被害はありませんでしたが
父や弟家族も被災したあの日から
何度も実家を訪れながらも
海のほうへは行けませんでした
実際仙台中心部にいる限りは
地震の痕を目にすることはほとんどなく
TV報道や番組で見る被災地は
少しずつ前へ進んでいるように感じられます
今、私たちにできることは何なのか
連休を前に被災した市町村のHP見ていたときに
観光に来て、泊まって、食べて地元の物を買うことも
復興への力になるという言葉に
父に会いに行く前に
幼いころ住んでいて、弟も生まれた町
石巻を訪れることにしました
私の中にある幼い記憶は
晴れた日に坂道の途中に立つ自分と
夕暮れの丘から母と一緒に見た
石巻の町の灯りです
行くことを最後まで夫と迷っていたので
ほとんど前日に宿を探したときには
東松島市の民宿も含めて
仙台、石巻、松島も満室の状態でしたが
なんとか見つり
夫の部活指導が終わった4日の午後出かけました
夕方到着した石巻のホテルでは
地元でお勧めのお店を紹介してもらい
地元のお酒と地元の海の幸を堪能
お店は地元の方たちでにぎわっていました
翌朝早くに石巻港を訪れました
海は穏やかに凪いで
被災から2年たっているので
操業を開始している工場や
新しく建設した水産施設もありますが
旧魚市場のあたりから門脇小学校に至る土地は
数件残った建物を除いて
一面原っぱのようになっています
残されている家の基礎が
そこに確かに人の営みがあったことを教えてくれます

プロジェクト参加した中学生が撮影した写真
基礎だけ残った家の真ん中に置かれた
小さなピンクの自転車を
私たちも目にしました
ぽつんと置かれた自転車は
いつも乗ってくれた幼子を待っているかのようで
それは胸に迫る姿で
カメラを向けることは到底できませんでした
そこから石巻駅に向かい
地元で生産しているとろろ昆布や
油麩、お菓子等を買いました
隣の市の東松島市では
市民ボランテイアが有料で
東松島の観光と被災状況の説明をしているというので
案内をお願いしようと事前に連絡をしていたのですが
最後まで連絡は取れませんでした
とりあえず行くだけ行ってみようと
東松島市へと車を走らせ
途中、当時自らも被災しながら救援にあたった
航空自衛隊東松島基地に向かいました
東松島基地の当時については
有川浩さんの小説“空飛ぶ広報室”にも
描かれています
東松島市の観光HPに記載されていた
観光と震災案内ボランテイアの連絡住所を
スマホのカーナビに入力して到着した場所は
津波の被害を受け駅舎も線路も使われていない
JR仙石線の野蒜駅でした

2年が過ぎても
線路も駅舎もそのままで
隣にあったお店は鉄骨を見せたまま建っていました
野蒜駅には代替連絡バスのバス停がありました
野蒜駅から海岸までは目と鼻の先です
美しい松林があったはずの海岸
住宅地が広がっていたはずのところにも
今は何もありません
車を降りて海岸を歩いていたら
野蒜駅を案内する標識が津波の威力を伝えてるように
ひしゃげたまま置かれていました

そして海岸から松林に視線を移したとき
まるで洞のように立ち尽くしている学校がありました
3人の生徒さんが犠牲になった鳴瀬第二中学校でした
校舎の壁の中央にかかる時計は
遠くからでも、津波が襲った午後3時47分ころで
止まっているのがわかりました

整地された校庭の土は
よく見ると食器や、さまざまな生活用品が
無数のかけらとなって埋まっていて
その場所に
あの時まで
生きてきた人々の営が確かにあったのだと
叫んでいるようでした
東松島市
亡くなられた方1093人、行方不明の方30人(平成24年9月21日)