≪あかばやしブログ≫
始まりはよくわからないけれど
「当たり前」に世界はあって
「当たり前」に僕らは存在している。
古代ギリシャに
そんな「当たり前」の認識に
まったをかけた人がいました。
かの有名な ソクラテス です。
ある日、ソクラテスの友人カイレフォンが
デルフォイの神にソクラテスより賢い者がいるのかと問うたところ、
神はいないと答えました。
即ち彼は、私以上の賢者があるか、と伺いを立てたのである。
ところが巫女は、私以上の賢者は一人もいないと答えた。
ソクラテスは事実を確かめるため、賢者と呼ばれる者達に話しをしてまわりました。
そして、ある認識に至るのでした。
私達は二人とも、善についても美についても何も知っていまいと思われるが、
しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、
これに反して私は、何も知りはしないが、知っていると思っていないからである。
要するに、ソクラテスも賢者と呼ばれる者達も、何も知らない。
けれど、賢者と呼ばれる者達は、何かを知っている気でいるが
ソクラテスは何も知らないということを自覚しているということです。
これが、『 無知の知 』のロジックです。
ソクラテスは、このロジックを間近に控えた彼の死にも当てはめました。
なぜならば死を恐れるのは、自ら賢ならずして賢人を気取ることに
他ならないからである。しかもそれは自ら知らざることを知れりと信ずることなのである。
思うに、死とは人間にとって福の最上なるものではないかどうか、
何人も知っているものはいない、しかるに人はそれが悪の最大なるものであることを
確知しているかのようにこれを恐れるのである。
つまり、人は死については何も知らない。
しかし、死を以て悪としている。
これは『 無知の知 』に反するとね。
とすると、
人って何かを知ることができるのでしょうか。
というよりも、人が知ることができる
何かって存在するのでしょうか。
あらゆるものごとが
個人の観念でしかなくて
実体のようなものがないってことなのでしょうか。
あてになる
確かな存在ってないのでしょうか。
どうなんですか。
ソクラテス。
『 コギト・エルゴ・スム 』
なるほど
今だからこそ言える
ルネ・デカルトの言葉。
なんて
ちょっと浅はかすぎました。
しつれいしました。