昨夜はお客様と会食していました。
そこで最近の教師の著しく品位や人間性に欠ける行動、はたまた親御さんのモンスター化に振り回される教育界について、あまりのふがいなさを話していると、
医療業界もノイジーマイノリティが破滅的な問題を起こしているケースがあるというお話をされていました。
例えば、その薬で何百万人への効果が認められるのに、少しの副作用が発症したクレームのせいで、薬自体が廃止になるケース。
例えば、オペすれば治るのに、からだはメスをいれないで温存するべきだとの思想の下に少数の医師と患者が同調し、みるみる悪性腫瘍を肥大させるケース…
世の中で、正しいことは当たり前のことだから、正しいことこそウチに秘める、つまり、サイレントマジョリティになりがちですが、襷坂、いや、欅坂の話じゃないですよ笑、
やはり正しいことこそ、正しいと大きな声で発言し続ける世の中にならないと、そこに奥ゆかしさなんていらず、この国を常識の船から落っことさないようにしなければ、やっぱり先行きを憂う国家になりそうで物凄く怖いんです。
明治時代に文芸評論家で活躍された内田魯庵さんはこう記しています。
遊民は如何なる国、何れの時代にもある。何所の国に行っても全国民が朝から晩まで稼いで居るものではない。けれども、国に遊民のあるは決して憂うるに足らぬことだ。即ち、これあるは其の国の余裕を示す所以で、勤勉な国民に富んで居るのは、見ように依ってはその国が貧乏だからである。遊民の多きを亡国の兆 だなどゝ苦労するのは大きな間違いだ。文明の進んだ富める国には、必ず此の遊民がある。是れ太平の祥であると云って何も遊民を喜ぶのではない。あっても決して差支えないと言うのである。
其所で、遊民があるとして、無智で下等な遊民の方が好いか、智識ある高等の遊民の方が好いかと言えば云うまでもない高等遊民が好い、同じ貧乏人でも、無智で低級で下等な奴よりは、智識ある高等な貧乏人の方が好いのである。それで、何所の国にでも此の遊民はあるのだが、其の遊民に智識があると否とで、其の国の文明が別れる。智識ある高等遊民のあるのは其の国の文明として喜んで好い、遊民其の物を喜ぶのではないが、国が文明になれば遊民も亦智識が進み、文明になる。それは、国が文明に進むに伴れて教育の進歩した結果、当然来ることで、それを恐れて教育を加減するが如きは可笑い話である。一国の文明に於て国民の智識は平等を欲するが、其の平等は高い程度に於てでなければならぬ。例えば大臣から下等官吏の間に、其の器度才幹に於て差はあっても、智識に於ては同じからねばならぬ。それでなくては一国の文明は完全なる進歩と発達を遂げることが出来ない。そう云う風に一般の階級の人間の智識程度を高めるには、一般の人間が高等の智識を受け入れることが出来るような設備が必要である。高等遊民が出来ることを恐れて教育の手加減をするなどは愚の極 だ。
最う一つ言えば、一体国民の智識の高まるのは必然の大勢である。文部省の方針や、制度の塩梅 手加減で何うすることも出来るものではない。文部省の施設如何に拘らず、国民はそれ自らに大勢に依って進歩する。我々は高等遊民其の物を決して国家の為めに恐れるものではない。たゞ、高等遊民を恐れて、高等の智識に走らんとする国民の大勢を抑えんとするものあるを恐れるのである。
其所で、遊民があるとして、無智で下等な遊民の方が好いか、智識ある高等の遊民の方が好いかと言えば云うまでもない高等遊民が好い、同じ貧乏人でも、無智で低級で下等な奴よりは、智識ある高等な貧乏人の方が好いのである。それで、何所の国にでも此の遊民はあるのだが、其の遊民に智識があると否とで、其の国の文明が別れる。智識ある高等遊民のあるのは其の国の文明として喜んで好い、遊民其の物を喜ぶのではないが、国が文明になれば遊民も亦智識が進み、文明になる。それは、国が文明に進むに伴れて教育の進歩した結果、当然来ることで、それを恐れて教育を加減するが如きは可笑い話である。一国の文明に於て国民の智識は平等を欲するが、其の平等は高い程度に於てでなければならぬ。例えば大臣から下等官吏の間に、其の器度才幹に於て差はあっても、智識に於ては同じからねばならぬ。それでなくては一国の文明は完全なる進歩と発達を遂げることが出来ない。そう云う風に一般の階級の人間の智識程度を高めるには、一般の人間が高等の智識を受け入れることが出来るような設備が必要である。高等遊民が出来ることを恐れて教育の手加減をするなどは愚の
最う一つ言えば、一体国民の智識の高まるのは必然の大勢である。文部省の方針や、制度の
本当に今の世の中の何人が、智識を蓄え、文明を創り出そうとしているのかと思えば思うほど、数百年後に思い返された僕らは、まさしく「失われた世代」のようなレッテルになると容易に想像できるんです。
だから、将来の世の中に常識を引き継ぎ、現代のノイジーマイノリティに立ち向かおうとするには、正義の智識を声高々に主張する強さが、今を生きる僕ら一般ピープルに必須なんです。で、それを貫き通すことこそが、真の子育て、つまり、自分の子という個体の単位だけの将来を心配するなら、多くの子どもたちの将来の心配ができる限り少ない世の中をみんなで作り上げちゃえばいい、って、長女が出来た2003年の3月からずっと思っているんですが、それが文明になると信じて貫きたいです。
いやー、随分しつこい文章になりました笑。