仏説現象学教授のブログ -2ページ目

★天皇の、思想とは無縁の、学問的存在意義

★補足★
脳は概念【言葉として象徴化した心的形象(時とともに絶えず揺れ動く動的な心象)】を実体的に把握する為に、其の概念を一時的に固着させる概念の貼り付け先(概念場)を必要とする。
例えば、優れた画家や彫刻家は動的心象(心的形象)の一瞬を形に捉える脳の動体視力の優れた人々である。しかし絶えず揺れ動く心象に潜む一瞬の極美を捉え、形に固定して表現するのは優れた芸術家に於いても至難の技である。故に真の芸術家は苦悩する。
概念場には個別の概念を貼り付けるにふさわしい概念場(形代)があり最適の概念場に張り付いた概念は強固に固着し、その実体的認識は磐石のモノとなる。

仏説現象学では
概念場とは特定の絵を描くにふさわしい特定の白いキャンバスのようなモノなのである。森羅万象の多様な変化に起因して脳に生じる観念(心的形象)を捨象・象徴した抽象画を実体的に表現する為には、それを画き止める為の特定の最適なキャンバス(概念場)を必要とするのである。また概念と概念場の関係は物理的な力、例えば重力と重力場(重力が働くために必要な時空間)の関係に相似する。空間が無ければ重力は実体的に捉える事が出来ないし、概念場が無ければ概念も実体的に捉える事が出来ない。

※人間の経験する≪事≫即ち事、事毎に遷り変る様々な動的表象(イメージ)=心的形象が「観念」であり、表象から共通の性質を抽象しシンボライズ(象徴化)し、個々の事柄にのみ属する偶発的な心的形象を捨てる(捨象)ことによって【言葉】の形をとるようになった観念の象徴(象徴観念)が「概念」である。つまり「概念」は一般的で論理的であるが、「観念」は個人的で感性的である。概念とは様々な個々の観念を象徴化した共通認識可能な【言葉】であり、様々な観念を象徴する。

また、以下、概念(象徴観念)の貼り付け先(概念の形代)を狭義に概念場と名付ける。

次に、仏説(社会)現象(認識)学の定理を提示しておく。

これらの定理は
天皇(=国家観念象徴体)
維持存続の基盤となる伝統ある皇室に立脚する日本の立憲象徴君主制こそが
国民の幸福感を最も適切に満たす理想的な中庸なる民主主義の実現に最も近い位置にある、人類史上最も進化し優れた国家システムである真実を理解する上で、特に重要である。



また、皇室制度とはフラクタル(大自然が採用する最も磐石な構造に必須の摂理)に構成された美しき国家秩序維持制度たる氏家制度の頂点に国家象徴概念場たる皇室(天皇家)を位置づける事で、国家象徴概念体(天皇)たる天皇家の惣領を磐石に生み出す、世界に誇る日本伝統のシステムなのである。

1600年以上をの長きに渡り、国家の存立要件である最適至高の国家概念体(国体)を磐石に生み続けるこのようなシステムは世界に類を見ない。

皇室制度こそは人類至上最も進化した国家概念体生成システムであり世界に誇る日本人の英知なのである。そして其処から磐石に生成される最適至高の国家象徴概念体=国体こそ天皇御存在の本質なのである。

★補足★天皇に対する尊崇感情に作為的に貼り付けられた宗教の属性を良く観察すれば、その欺瞞性はさらに明確となる。≪国家象徴概念=国家概念≫とそれを貼り付ける概念場との融合体=国家象徴概念体=天皇と言う存在に内在する≪尊崇観念の起源≫は大自然に遍在する太古のり神≫に根ざす≪人知を超えた大いなる大自然に対する謙虚な畏怖の念≫であり、一神教(キリスト教・イスラム教)の唯一絶対神に対するこしらえモノの偶像畏怖に根ざす作為ある人工の宗教的尊崇感情
では断じて無い。
一神教(キリスト教・イスラム教)の神は、
権力者の都合で意図的に作られた欺瞞概念でしかない≪博愛≫の美名に騙され易い精神状態にある寄る辺ない不幸な民衆を救う慈愛の神と偽装されてはいるが、その実、権力者の民衆誘導にとって好都合に作られた単なる作りモノの偶像に過ぎない


【仏説現象学定理Ⅰ】
社会主義以外に広義の君主(国家観念象徴体)の存在自体を否定できるような論理は人類史上、古今東西どこにも存在しない

【仏説現象学定理Ⅱ】
社会主義は教祖(マルクス)経典(資本論)を有し、宗教弾圧と同じ様に、その思想に反対する者全てを弾圧し、
粛清の名の下に一億3000万人の同胞を虐殺し尽くした、明らかな宗教思想である。

【仏説現象学定理Ⅲ】
多様な自然災害(荒ぶる多様な自然神)から万民を守る神道に一生をささげ、無私の心で、公の心で、日々万民の為に祈り続けて居られる神道の祭祀王(大神主)で在らせられる天皇陛下を頂く国家システムを天皇制と呼称することは、本来1600年以上の長きに渡り権力の範疇には無い天皇の御存在をあたかも権力者の存在ように見せかけて機会あらば権力者責任を追求糾弾してその尊厳を毀損し、存在意義を希薄化させて亡きものにしようと企むサヨクのこしらえた全く誤まった忌まわしきサヨク用語であって、天皇御存在の意味を国民に誤認させる極めて欺瞞に満ちた欺瞞用語である。正しくは≪皇室の存在によってこそ1600年以上の長きに渡り磐石に維持された美しき国家秩序維持制度≫即ち正しくは≪自然神道国家大神主制度≫と呼称すべきの事であり、、日本が世界に誇れる多様性統御法を育んだ日本文化そのものでもある。
皇室制度と言う言い方が正しいと言う向きもあるが皇室と言う呼称は氏家制度に担保された構造の頂点に位置する特別な宗家を表す呼称に過ぎず、
氏家制度は有っても皇室制度と言う制度は無い。
また、その≪自然神道国家大神主制度≫の中で育まれる祭祀王(大神主)天皇(=国家観念象徴体)への尊崇の念は、明らかな自己尊重・先祖尊崇・自国敬愛の念であり、宗教では断じてない。

【仏説現象学定理Ⅳ】
日本の皇室制度・天皇家の真の存在価値は、社会主義者や反日の輩が揶揄する『所謂右翼思想』などと言う思想的なものでは、実は、全く無い。
その真の存在価値は、国家概念の概念場としての存在価値及び、その概念場としての、他に類を見ない、磐石性が可能にする、『国家アイデンティティー(自己同一性認識)』の要としての存在価値なのである。
注:
『国家の自己同一性認識』これは、後述する純粋学問である所謂『社会免疫学的必要性』からも極めて重要である。

【仏説現象学定理Ⅴ】
我が国の安定的存立は、1600年以上の永きに渡り堅持された磐石の神聖不可侵なる皇室制度によって強力に担保されている。
皇室制度こそは、国家の健康維持に不可欠な
広義の免疫システム【生体免疫システムに相似した人間社会という複雑組織の健康維持に必要不可欠な社会組織体系免疫システム】
の要なのである。

【仏説現象学定理Ⅵ】
日本の皇室が過去に於いて、半島で滅ぼされ日本へ亡命した百済王朝の子孫と仮に関係があったとしても、
≪伝統に培われた王制を廃し共和制と軍事独裁を基盤とする、近代南北朝鮮・在日≫とは全く無関係である。

※補足※朝鮮日報は2001/12/23
明仁日王が『桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記録されている事実に、韓国との縁を感じる』とし、日王家が古代朝鮮半島と深い関係があったことを認める発言をした。と鬼の首を獲ったかの如く喧伝したが、これは、≪皇室(天皇家)≫と≪実は日本の皇室に憧れる近代朝鮮≫の親交を示す史料では断じて無い事実を、良識ある日本人は肝に銘じて頂きたい。


★桓武天皇(光仁天皇の第一皇子)の母は百済王家≪武寧王≫の遠縁で百済系渡来人の高野新笠(たかののにいがさ)という人物であるとされている。もしそれが事実であったとしても、即ち、天皇家(皇室)が新羅に滅ぼされ日本に亡命した百済王家の子孫と姻戚関係にあったとしても、少なくとも≪伝統に培われた王制を廃し共和制や軍事独裁者を成立基盤とする近代南北朝鮮・在日≫
とは全く無関係であると断言できる。

【良識ある日本人の為の事実に基づく歴史認識】王朝時代の朝鮮半島の人々は、伝統に培われた王制を廃し民族の誇りを捨て社会主義統治者の恣意的野望の具に成り果てた衆愚と成り果てた哀れ無残な近代朝鮮人≪実は日本の皇室に憧れる近代朝鮮人(失って長い年月を経て初めてその価値に漸くようやく気が付いたが後の祭り)≫・在日とは全くの別ものであり、王朝時代の支那由来の美しき伝統に彩られた人民であった。

そして、そのような王制国家の民同士が親交を深め交流する事は両国の友好・平和において極めて有意義なことであった。再度言う、王制時代の朝鮮人と近代朝鮮人≪実は日本の皇室に憧れる近代朝鮮≫・在日とは全く別物なのである。

日本人に、王朝文化華開く大陸の様々な進んだ技術を伝えたのも、この王朝時代の朝鮮人であり、同じく王朝時代の支那に倣って近代朝鮮とは比べ物にならない豊かな王朝文化を育んでいたとされるのである。

しかし、これは完全な史実だろうか、私個人としては
三保平清様の知見、即ち生母『高野新笠』は百済系と言われているが、百済とはそもそも何なのだ。日本の進出先「満州国」のような存在なのではないでしょうか。『高野新笠』は日本の皇族出身の「帰国子女」だ。でなければ、天皇の母には絶対になれない。せいぜい「女御、更衣」で終わってしまう。
に一般論を凌駕する優れた英知を感じる。

即ち日本人に、王朝文化華開く大陸の様々な進んだ技術を伝えた人々の多くは、実はこの王朝時代の朝鮮で様々な大陸文化を学んだ『帰国子女』だったのではないだろうか。

兎にも角にも、
王制国家間に於いて王家同士親交があるのは当然の事であり、国と国との友好上も実に好ましい事である。
したがって、ヨーロッパの歴史に於いても国家間で、王族同士が盛んに姻戚関係を結んで友好を育んでいたように、日本も、過去、文化国家である百済王家の末裔にあたる女性を皇后に迎える事が有ったかもしれない。しかし、
有ったとしても、この国家交流は近代南北朝鮮とは全く無関係の過去の王朝間の慶事であり、朝鮮半島で栄えた王朝の滅亡と共に完全に消滅したのである。

日本の皇室が半島で消滅した朝鮮王朝と仮に関係があったとしても、王家を崩壊させ王制をドブに捨てた温故知新なき南北朝鮮・在日とは全く無関係なのである。温故知新を旨とし良識人を目指す心有る日本人は、この事実を肝に銘じるべきであろう。

天皇家を在日呼ばわりする【反日工作分子や単なる馬鹿のお粗末な偽論・雑言】に惑わされぬ様、注意を喚起しておく

【仏説現象学定理Ⅶ】
≪天皇家は当初、日本の古代国家である大和国の王家として出現し、当時は祭政一致であったため、天皇は祭祀王、
すなわち祭祀をつかさどる第一人者であると同時に政治システムの頂点に立つ国王であった≫

【仏説現象学定理Ⅷ】
≪貴族階級や武士階級の存在する階級社会に於いては、
社会主義の回廊に用意された活気あふれる衆愚民主主義のお祭りが実現した国民皆兵は存在しない。
国同士の紛争も両国の貴族階級同士あるいは、武士同士の戦いで決着が着く。近代大戦の様な大量の戦死者を見ることも、大規模な環境破壊を見ることも無い≫

【仏説現象学定理Ⅸ】
文化とは国の内外に誇れるものでなければならない。したがって、
戦勝第三国人が戦勝特権を行使して強引に政府を恣意的に操作し、認めさせた唯一の私営ギャンブルであるパチンコは、単なる風俗業以外の何ものでもなく、誇れる部分など微塵も無い負の遺産。日本の文化の恥部なのである。

【仏説現象学定理Ⅹ】
元首の概念は時代により変化するものであるが、基本的には国家の象徴であること、首相任命などの一連の国事行為、外国元首や外交官の接受といった対外代表性など、
通常国家元首の有する機能を有していれば元首たる要件は必要十分であり、この元首が果たすべき儀礼的機能を≪天皇家の惣領≫が果たしていることは確かな事実である。故に国家観念の観念場(形代)たる皇室(天皇家)の代表者(天皇家の惣領)は立憲君主制国家の国家元首であり政治権力とは分離した象徴として君臨する象徴国家元首なのである。








★仏教哲学の真髄である般若心経と西洋哲学である現象学を融合した仏説現象認識学で明らかにする天皇論

先ずはじめに、所謂≪国≫とは何でしょうか?
≪国≫と言う言葉だけでは、人間の脳は、それが≪事=概念≫なのか≪モノ=実体≫なのか明確に認識できないのです。


≪国体≫と言う言葉こそが、国という言葉を脳が実体的かつ明確に認識する為に必要不可欠な、【概念(象徴観念※)】とその貼り付け場所である【概念場≪モノ≫】の融合を見事に体現した言葉なのです。


※一般に共通認識できる言葉として象徴化された観念(心的形象)を象徴観念(象徴心象)=概念と呼ぶ

さらに、この≪国体≫という言葉は、以下に明らかにする仏教哲学(般若心経)の悟りの境地、即ち極めて感性の優れた先人が見抜いた脳の対象認識システムの知見と西洋現象学の知見を融合した真の現象認識学【=以下、仏説現象学という】の真理を明確に象徴する言葉でもあるのです。


即ち、人間の脳が実体的に把握できるこの世の全ての物質的現象≪=物象=モノ=概念場≫には全て実体が無い≪象徴化した心的形象(観念)≫=事象=概念が貼りついているのであり、

実体が無い概念≪象徴観念=事象≫が貼りついているからこそ物質的現象≪物象=モノ=概念場≫を脳が実体的に認識把握できるのである。

即ち、実体が無い概念(象徴観念)≪事象≫であると言ってもそれは物質的現象≪物象≫を離れてはいない。

また、物質的現象≪=物象=モノ=概念場≫は実体が無い概念(象徴心象)≪事象≫を離れて物質的現象≪物象=モノ=概念場≫であるのではない。

およそ物質的現象(物象)という≪モノ=概念場≫は実体が無い概念≪事象≫(象徴観念)である。

およそ実体が無い(象徴観念)という≪事象≫は物質的現象(物象)≪モノ=概念場≫なのである。


したがって上記の【仏説現象学】に照らして≪国体≫という存在を読み解けば

脳が実体的に把握できる物質的存在としての≪天皇家の惣領≫(物象)たる

概念場(絶えず揺れ動く概念を固着させる場=喩えて言うなら揺れ動く心象風景の一瞬を捉え他者に伝達可能な静止画として残す為の白いキャンバスのようなモノ)には、


実体が無い国家象徴概念≪=物質的現象としての国家と言うモノに係属する様々な観念(心的形象)=(心象)が抽象・捨象されて象徴化した象徴心象=事象=概念≫が貼りついているのであり、


実体が無い国家象徴概念【=国家と言う言葉から思い浮かぶ様々な心的形象(観念)が象徴化した概念(象徴心象)】が、実体のある概念場【=概念(象徴化した観念)が貼り付く概念場たる≪天皇家の惣領≫(物象)】に貼りついて一体化し、つまり、
≪国≫の概念が実≪体≫あるモノ(概念場)に貼りついて≪国≫+≪体≫=≪国体≫となっているからこそ、

≪日本≫という悠久の国家概念を脳が確たるものとして実体的に把握できるのである。


即ち、日本という国の本質が、実体が無い悠久の国家概念(国家観念の象徴=心象)であると言っても、それは国家概念に係属する様々な観念が象徴化した国家概念の概念場たる≪皇室の代表=天皇≫(物象)を離れてはいない。


また、物質的存在としての≪皇室の代表=天皇家の惣領(物象)≫は、実体が無い国家概念(象徴心象=事象)を離れて物質的存在としての象徴観念場たる≪天皇家の惣領≫(物象)であるのではない。


このようして、およそ≪天皇家の惣領≫と言う≪物象=概念場≫には、≪実体の無い日本という国家概念≫が悠久に貼りついているのであり、

およそ≪日本という国家概念≫が悠久に貼りついているという≪事=概念≫が、物質的存在としての≪天皇家の惣領≫と言う≪物象=(概念場)≫の本性なのである。


そして、その国家概念場(天皇家の惣領)の存在あればこそ、
国家概念は明確に脳が実体把握できる国体≪事物≫となるのである[/b]

即ち、国体の磐石なる維持は国家概念を如何に実体的に磐石に認識する事ができるかに懸かっており
その意味で皇室宗家(天皇家)の御存在は日本国家と言うアイデンティティーの元となる国家概念を脳が実体的に認識し、磐石に日本の国体を維持するための概念場として、認識学上、人間の脳にとってなくてはならない御存在なのです。


国家概念を権力闘争の範疇にある大統領や独裁者・教祖・党幹部といった権力概念場に貼り付けてしまうと国家概念自体が意図的に其の概念場たる権力者に依って都合よく意図的に捻じ曲げられ改変させられてしまう。この事実はスターリンや毛沢東等の独裁者を概念場にして1億3000万人が粛清の美名の下に虐殺された旧ソ連や中共の悲劇が如実に物語っています。