尊徳記念館(神奈川県栢山町)を訪ねて | 小阪やすはるのブログ

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尊徳記念館(神奈川県栢山町)

─経済と倫理の調和─sakujyo

 

長男の入学した小学校の校舎は、軽やかなクリーム色で、人数のすくない教室には、テレビや個人用のロッカーなど、私が子供のころの小学校とは、くらべものにならない設備があった。校門の桜の花はおなじでも、それは学校全体の明るい雰囲気をさらに引き立てている。郊外なので運動場もひろい。その端に立って、自分がかよっていた小学校のいくぶん重苦しい雰囲気とはちがう、この明るさになじめなかったが、ふとその原因のひとつに気がついた。

 

校長先生がお話をされる朝礼台はある。そのうしろに国旗掲揚のための旗ざおもある。しかしそのそばに、二宮金次郎の像がなかった。

 

 

私は転校したのでふたつの小学校に通学したが、どちらの学校にも二宮金次郎の像はあった。夏休みに遊びに行った従兄弟たちの小学校にも、その像はやはり校舎の正面に立っていた。柴を背負い、本を読んで、どこの小学校にも二宮金次郎はいた。その姿は、刻苦勉励、苦学力行という学生の徳目だけでなく、われわれの人生はそのようにあるべきだと教えているように感じられていた。

 

しかし戦後に開校した団地の小学校に、金次郎の像を寄付しようとする篤志家はいなかったのだろう。校庭はバスケットボールやサッカーの設備でにぎわい、二宮金次郎はもういない。

 

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新宿から小田急の電車にのると、小田原の四つ手前に栢山(かやま)の駅はある。この駅では「二宮尊徳、生誕の地を訪ね 尊徳像再発見、遺跡めぐり」という案内図を配布している。これを見ながら、空がひろい静かな町を十五分ほど歩くと、尊徳記念館につく。

 

隣接した敷地に金次郎の生家ものこっている。一家離散になった後、他人の手に渡っていたのを買い戻して、この生地に修復したものである。案内板によるまでもなく、もともと貧農でなかったことは、家の大きさで分かる。昔の家だから部屋数はすくなく、ざしき、土間、へや、その他に、でい(筆者注 「出居」だろう。広辞苑によれば客間に用いた)だけだが、三一・三五坪でけっしてちいさな家ではない。

箱根の連山がまぢかに見え、すぐ背後には酒匂川の堤防があるはずだ。

 

記念館は昭和六三年に完成した鉄筋三階、地下一階建のりっぱなもので、その一階の半分ほどが金次郎についての展示室である。二階は全国各地から学習のため参集する、主として報徳会のひとたちのための宿泊施設であり、三階には講堂、研究室がある。入室する前に折りたたみの椅子をもってはいるよう勧められた。腰掛けてゆっくりアニメーションの説明を見ることができるための配慮である。

 

金次郎のおおきなわらじがある。足は二六・五センチだったそうだ。小田原城脇の報徳博物館には、実弟が「兄そのままだ」と語ったといわれる画像もあった。渡辺崋山門下十哲の一人、岡本秋暉によるもので、目鼻がおおきく、髭は濃く、身長は一八二センチ、体重九四キロだそうで、戦国時代なら侍大将にでもなっただろう堂々たる偉丈夫である。

 

金次郎の勤勉と成功の一因がこの体格にあったことは疑いないし、雷鳴のような大声で叱ったと伝えられるのも、誇張ではないだろう。やせた少年が重い柴を背負っているというより、人並みすぐれた体力をもつ金次郎が、他人に数倍する柴を軽々と運んだというのが事実に近い。つまり柴を背負い、本を読むという姿は、刻苦勉励よりも、ひとつの時間をふたつに使うという経済的合理性の象徴だと解釈したほうが、金次郎にはふさわしいことになる。

 

金次郎が柴を刈ったのは栢山から四キロ程の入会山で、八キロほど離れた小田原で売った。夜遅くまで仕事や勉強をし、朝は早く起き、粗衣、粗食は知られるとおりだが、後年の金次郎を知る人によれば、眠くなるとどこででも寝たそうだ。砂を入れた半紙のおおきさの箱もある。この砂に字を書いて勉強した。適切に改正したので農民に喜ばれたといわれる新枡も展示されている。

 

この記念館はさすがに入館者がおおい。若いお母さんが子供に教えている。「お手伝いもしたのよ」。それでじゅうぶんなのだ。

 

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二宮金次郎は天明七年(一七八七)、この地に生まれた。弟がふたりいる長男なのに金次郎となっているのは、もともとは金治郎だったのが、小田原藩に登用されたとき誤記されて、そのまま定着したのだそうだ。尊徳は諱(いみな)である。

十四才のとき父を失い、十六才のとき母も亡くなった。この前後の金次郎が、銅像となって日本国中に知られることになった。

 

金次郎がこれほど有名になった経緯は『報徳記』の初めにある。

相馬藩士富田高慶(たかよし)は塙保己一の高弟である屋代弘賢や昌平校に学んだが、藩の財政復興については得るところがなかった。二六才のとき、金次郎になんども入門をねがい、ようやく許可された。金次郎に師事するかたわら相馬藩の改革に力をつくし、金次郎の没後、この『報徳記』を書きのこした。

 

この本は、私たちが子供のころに読んだ偉人伝の金次郎の原著である。これを藩主相馬充胤(みちたね)が明治天皇に献上したところ、宮内省から刊行されて、知事以上への配布となり、さらにひろく官吏に読ませるため、農商務省版として明治十八年に発行された。明治三六年に国定教科書制度ができてからは、明治天皇のつぎに登場回数がおおい人物となって、日本人ならだれでもが知っているほどの名になった。

 

したがって充胤が『報徳記』にどのように感動したかは、金次郎その人の実像というより、当時のひとたちの価値観をあらわしている。充胤は最大限の賛辞を送る。

 

「その教えと申しますのは、風俗を厚うし、礼譲を尊び、身寄りのない者を哀れみ、

怠惰を戒め、節用厚生、これ以上に良い仕方はないというほどであります」(『現代版報徳全書 報徳記(上)』十四ページ)。

 

このような紋切り型の評価が、そっくり当てはまったところが金次郎の特徴のひとつなのである。

 

弟子たちが伝えている金次郎の経済思想は、現在でもじゅうぶん通用する。たとえば「積小為大」というのは、ちいさな行いでもすこしずつ積上げてゆけばおおきな蓄積になるということだ。

 

「分度」という言葉は、支出と収入のバランスをとることを表している。農村の立て直しを引き受けたときは、実地に測量をし、過去にさかのぼって気候の状態から凶作を推し計り、十年から二十年間の支出の統計を取り、平均をめやすとした。

 

 流通経路にも詳しかった。農民に柴を刈ってもってこさせて自分が売ってやっている。当時の農民がそれほど商品の流通に疎かったほうが不思議だが、金次郎は少年のころから物を作っては、他の物と代えたり、売りに行ったりという生活もしていたので、そのような知識が身についたのだろう。

土木技術の知識も豊富だった。茅葺きの屋根が雨水を防いで漏らさないことを応用して、独自の方法で堰を築いたりしている。

経済の建て直しのために無利息の貸し出しもした。つまり元金だけ返せばいいという方法である。しかしそれだけではせっかくの救済が一時的におわってしまうから、こころを改善することで、無利息の恩に報いて一年ないし数年分を自発的にゆずることを期待している。当時は年二割が普通だったようで、利子と考えても低利ではあるそうだ。このあたりに、実質的な経済活動を倫理観へ転化しようとする、金次郎独自の経済観の一面がみられる。

これらの方法と平行して、朝早くから村々をまわり、釜のなかまで覗いて、麦がおおければ褒め、村人による投票で善人を選ばせては表彰した。

 

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記念館のすぐ隣が金次郎を引き取った伯父万兵衛の家で、今も「二宮」の表札がでている。

 

栢山の町は水が豊富だ。おとずれたのは渇水の年の夏だったが、町の用水路には豊かに水が流れていて、その流れで釣りをしている人もいる。しかしこの豊富な水が酒匂川のたびたびの洪水となって、金次郎の家を破産させもした。

 

しばらく行くと善栄寺の墓地にでる。善栄寺は北条氏康夫人の墓もある古刹である。少年金次郎がこの寺の考牛(こうぎゅう)和尚に観音経について自分の考えを述べたところ、和尚は金次郎の才能に感心して、僧になることをすすめたと伝えられる。

 

油蝉がしきりに飛んでいる。こじんまりして、清掃が行き届いているお寺で、金次郎も母や父とともにここに眠っている。木曽義仲の妻、巴御前の墓もあるのには驚くが、友人の平家物語の研究家によれば、巴御前の墓は全国いたる所にあるから、どこにあっても不思議はないそうだ。

 

さらに歩くと村田医院の鉄筋のりっぱな建物を過ぎる。金次郎の父が困窮して薬代を払えず田畑を売ったとき、それを諌めて薬代を受け取ろうとしなかった医師村田道仙の御子孫が、今も繁栄しておられる。先祖の徳というべきところだろう。

 

すぐのところに土手がある。かなりの高さをよじ登ると、酒匂川だ。川床が高く、住居側と同じくらいである。近くの町内会の催し物で、川原に人が大勢でていて、携帯マイクが参加者の集合を呼びかけている。

 

 二三才のころまでに自分の家と田畑を再興した金次郎は、三四才の時期まで栢山で田を買い増す一方、小田原藩の家老服部家に仕えながら財政立てなおしを勤めた。

 その勤勉さは後世に語り伝えられたとおりだが、その陰で最初の結婚には失敗している。三一才で結婚したが、服部家の財政再建を引き受けたころは、ほとんど家に帰らないばかりか、無給だった。妻はひとりで所有地の一部を耕さざるをえなかった。さらに生まれたばかりの長男を亡くし、落胆してついに離縁を申し出た。金次郎は、畑に棉をまいて、秋にその綿で欲しいものを織ってもって帰るように勧めたが、それを振り切って実家に戻ってしまった。金次郎が三三才のときである。

 勤め先の服部家では、これを不憫におもって、同家の女中を再婚の相手として薦めた。十八才年下だったが、当の女性の強い意志もあり、金次郎もこれに感じて再婚した。歌子夫人といい、後年、内助の功多大であったと伝えられている。

 

三七才のとき、小田原大久保家に家臣として召し抱えられ、小田原藩の分家である桜町(栃木県二宮町)の復興を命ぜられて、一家をあげて移住した。

このころから金次郎の実績を聞いて、財政の建て直しを頼みにくる藩や個人がふえている。水野忠邦の改革のころには五六才で、幕臣として御普請役格に取り立てられた。

 しかし一技官であることに失望したそうである。天保の改革は、手で竹をおさえつけるようなものだ、と述べた。つまり贅沢を禁じても、人間の気もちが変わらなければ元に戻るという意味だ。あくまで倫理性を基本に判断するのである。それでも幕府の要請で、利根川工事の調査や、幕領である日光の再建にも努力した。

 

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 金次郎の仕事の大半は、経済的に行きづまった領地での農政だった。彼が遺した教えは、たとえが上手で、説得力があるものもおおい。

 

「……一枚の鍬がこわれた。隣家へ行って、「鍬を貸してください」と言ったところが、

隣家の老人は、「いまこの畑を耕して菜を蒔こうとしているところだ。蒔きおえるまで貸すわけにはいかない」と言う。自分の家に帰ったところが別にする仕事もない。私は「ではこの畑を耕してあげましょう」と言って耕し、「菜の種を出してください。ついでに蒔いてあげましょう」と言って、耕したうえに種を蒔いて、そのあとで鍬を借りた。そのとき隣家の老人は、「鍬だけでなく、何でも困ることがあったら遠慮なく申し出なさい。きっと用だてましょう」と言ってくれたことがある」(『日本の名著 二宮尊徳』二一七~八ページ)。

 

 ひとつの場面のなかから、人間の欲と徳を一瞬にして切り取ってみせている。この話の要点は、「別にする仕事もない」時間を、他人のために使ったことで、老人との末ながい信頼関係が生まれたところにある。

これはわれわれの身近にしばしばみられる、小さな親切のたぐいの話ではない。その場合には、行為する者自身が満足するだけのことがおおい。これにたいして金次郎のたとえが説得力をもつのは、善意がかならず対価となって返ってくるところにある。無為に過ごすはずの時間を、話のもっていきかたをすこし変えて、他人のための無償の労働に変えれば、それにはるかに越える利益をもたらす倫理的信頼関係を結ぶことができる。こう冷静に分析しているのだ。無償の労働という倫理と利益が合致できることを実証しようとしているのである。

 

 実践的で独創的な思想家のおおくがそうであったように、金次郎も実行に時間をさいたので、経済と倫理を合致させる思想を理論的に体系化することはなかった。

 その思索は、当時の権威ある学問を学ぶことでかたちづくられたのではなく、まず自分の実践の体験があって、それを既製の学問と照らして合わせて、体験の有効性、正当性の裏づけとするという傾向を示している。『二宮翁夜話』を著した福住正兄(まさえ)もそのあとがきで、当時の思想取り締まりのため、金次郎は神道、仏教、儒教を借りて自分の考えを語ったと述べている。

 孔子や釈迦も、実践からその説を導いたのだが、それが有用だったので、後世の学徒はまずその説を学び、その後で、現実にそれらを当てはめようとする。つまり師匠たちとは学問の方向が逆で、先立つ体験がないのだ。そこに金次郎の嫌う「腐れ儒者」が生まれることになる。自分自身の実践が先にあったという意味で、孔子などとおなじ立場に立っていることを、自分でも明確に意識していた。

 

 それにしても、遺された言葉のなかにしばしば見受けられる以下のような種類の話は、金次郎の言うように、そんなにうまくいくものだろうか、というわれわれの疑問を増幅する。

 

「仏教家は施餓鬼(せがき)を功徳の極致としている。しかし、わが法には及ばない。

なぜならば、施しを受ける者は、いたずらに人の施しを待つばかりで、人に施そうという気持ちがないのだ。わが法はこれと異なる。投票によって善人を挙げ、その荒地をひらき、借金を償い、質入れした田を受けもどし、その家産を復興してやる。そこで遊惰は奮い起って精励となり、貧困は変じて富裕となり、悪人は変じて善人となる。およそ、そのきらうものを除き去って好むものを与えるから、人々はその徳に報いる心を生じる。……これは、神、儒、仏の三道を推し拡めて創立したところの法であって、世の中にこの法に匹敵するものがどこにあろうか」(『現在版 報徳全書』六巻 一二八~九ぺージ)

 

 金次郎の自信は計り知れないほどだが、この話のなかでわれわれが不審をもつのは、「遊惰は奮い起って精励となり、貧困は変じて富裕となり、悪人は変じて善人となる。……人々はその徳に報いる心を生じる」という後半だ。人のこころがそんなにすんなりとかわるものなのだろうか。

しかしそんな批判をしてみても、つまらないことだ。金次郎も、実際には、手に負えない人間にはなんども出会っている。だからきれいごとばかり言っているわけでもなくて、いろんなところで説諭が成功しなかった人たちのことも述べてもいる。注目すべきなのは、さまざまな困難や挫折にもかかわらず、実体験からこのような思想を導き出せたことなのだ。たいせつなのは発見した基本方針にそった、実行なのである。体験と理論の整合性ではない。

金次郎は不動尊が好きだったそうだ。決めたらけっして動かないことの象徴である。

 

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 炯眼、勝海舟も金次郎を見抜けなかった。

 

  「二宮尊徳には、一度会ったが、いたって正直な人だったよ」

               (『氷川清話』勝海舟 角川文庫 六六ページ)。

 

 金次郎は、海舟だけでなくほかの上席者におなじ印象を与えたはずだ。海舟が評価はしたものの見破れなかったところに、時代に正面から逆らうのではなく、しかし自己の方針をけっして放棄することがなかった金次郎の凄みを感じ取らなければならない。

金次郎の正直や勤倹力行が賞せられたのは時代の要請だ。その当時称賛された人は職業にかかわらず、おおくが正直や勤倹力行の手本とされている。金次郎の生活様式は時代の求めにかなっていた。

しかしそのことが金次郎の多面性を見誤らせた。たしかに正直だったが、あらゆる局面で正直を押し通したわけではない。いかに当時の農政が人材不足だったとはいえ、身分制度は厳然としてあった。家柄や身分による金次郎への圧力は生涯をつうじてつづいている。組徒格の桜町陣屋時代、やりかたに反対されて、その地を飛び出し、成田山へ篭ったのも上役との関係に悩んでのことだったといわれる。

同時に、金次郎がいたわった農民たちも、皆が善人というわけではなかった。きびしい年貢を、そのまま納めていたのでは生きてゆけないことが、農民たちをある意味でずる賢くしたのは、やむをえないことだ。

このように金次郎は権力者である役人と、油断ならない農民の間で悪戦苦闘したが、しかもかなりの実績を上げているのもたしかなのである。そのためには、法を逆手にとったり、役人に酒を飲ませることもしたし、農民にも、あるときは優かったが、あるときは頑固親爺と呼ばれなければならなかった。「いたって正直な」だけでは、けっして金次郎の成果はありえなかった。

 

  「だいたいあんな時勢には、あんな人物がたくさんできるものだ。時勢が人を作る例

は、おれは確かにみたよ」(同右)。

 

 海舟が鷹揚にうなずいてみせたとき、おおきな体をちぢこまらせて平伏していた金次郎は、表情も変えずに、冷徹な眼で畳を見つめていただろう。海舟もその後の時代も、金次郎の多面性を把握しきれなかった。『氷川清話』のこの章は、大人物というものは、海舟ほどの人でも見抜けないことを、後世に示したことになる。

 

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金次郎はものごとを基本原理から考えようとしている。しかし話が具体的で、上手なたとえで語るから、そのまま読むと原則を見過ごしそうになることもある。

 

「およそ事を成就しようと欲するなら、始めに終わりまでの計画を細かく立てるべきだ。たとえば木を伐るのに、まだ伐る前に、木の倒れる所を細かにきめておかなければ、倒れようとするときになって、どうにもすることができない」(『日本の名著 二宮尊徳』四0五ページ)。

 

木を伐る話をしているのではない。「事を成就しようと欲するなら、始めに終わりまでの計画を細かく立てるべきだ」という原則が語られているのだ。金次郎のこういうあたり前だけれど、徹底した考えかたが、人に教えるときの、たとえ話の正確さや説得力につながっている。

右の話は分かりやすいが、つぎのような主題になると、慎重に考えて受け取ったほうがよさそうだ。

 

「一郷こぞって従事して、いつまでたってもさしつかえのないものは農業である。

これを国家の大本とする。儒仏のごときは末であり、その他の技芸百工はいうまでも

ない。なぜかといえば、一郷こぞってこれらの事をして、農業をやめたならば、飢餓の憂いがたちどころに来るではないか。そうなれば、たとい儒者が経書を講義し、仏僧が経文を説き、芸人が演技をやり、百工が細工に精を出しても、何の役にも立つものでもない」。(『現在版 報徳全書』五巻一一九ページ)。

 

思想的な言葉を使うと、農本主義ということになる。だから金次郎の時代の状況について、農本主義を説いているのは事実だ。

だが、金次郎の遺した言葉全体からすると、そんなに単純な考えではなさそうだ。この時代だから結論は農業となっているが、時代や経済構造がちがえばおなじ主張をするだろうか、と私はおもう。たとえが具体的なので、ついその範囲で納得してしまうのだが、ものごとを根底にまで突き詰めて考えるという原則は本質にあるようなのである。

 

このように根本まで徹底して考えたところに、金次郎独特の原理が現われてくる。

『三才報徳金毛録』で、金次郎はわれわれのよく知らない顔を見せる。三才とは天、地、人を指し、金毛とは金言集とでもいう意味のようだが、おなじような草稿が他にもおおくあることから、金次郎が形而上学的、哲学的な領域に、なみなみならぬ関心をもっていたことが推察される。

図を引く(『日本の名著 二宮尊徳』四0五ページ)

 

「この天地では、ひとつふえれば必ず一つ減り、一方に喜びがあれば必ず一方に怒り

があり、一方に禍があれば必ずまた一方に福があり、一つの損があれば必ず一つの益がある。また一つ捨てるものがあれば必ず一つ拾うものがあり、逢うことがあれば、また一方で別れることがあるというのが現実なのである。……だから金貨・財宝を貸し与えて、その利息によって利益を得ようとする者は、相手に損をさせるようであれば自分も損をし、相手に得をさせれば自分も得をするのである」(同右~四0六ページ)。

 

この文の前半は、形式主義のようにも読めるし、この前後にもたくさんの円形の図があるが、難解で、説明も分かりやすいとはいえない。むろん、この本全体が実際の体験を理論的に突き詰めたものだということは容易に想像できるので、この書が理解しにくいのは、なによりもわれわれには実践が先立っていないからなのである。

この書には金次郎の哲学の本質が語られている。述べられているのは、経済、人事などこの世のあらゆるものは、相関的なものだから、それらは全体として円を成しているという考えだ。

金次郎は実生活の体験を重ねるにつれて世界を不思議とみた。春、種を蒔き、芽が出、実となり、また種がとれる。他人に親切にすればそれがまた親切として返ってくる。主君がいれば、民衆がいる。このような自然や人間世界のありかたの背後に、存在するものの必然的相互連関とでもいうべきものを直観的に感じて、それを説明しようと試みているようなのだ。

だから以下のような観察も、男女間の関係というだけではないのである。

 

「女の美しさは男が知るものである。男が評価してはじめてそれがわかるのであって、

白い花は自分の白さを知らず、赤い花は自分の赤さを知らないのと同じである。自分自身美しいと思うのは誤りで、男を知るのは女であり、女を知るのは男である」     (『日本の名著 二宮尊徳』十五ページ)。

 

 これも存在するものの相関性にもとづいた思想だと考えて、まちがいはない。その結果、当時にはめずらしく、男女の関係も相対化した思想になっている。

 

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 栃木県今市市は、金次郎最後の実践の地となった。

東武線の電車が日光に近づくと、ひろい関東平野もさすがに山がちになってくる。その東武今市駅を降りて、歴史民族資料館に寄る。資料館の一画に金次郎についての展示がある。尊徳関係の資料は豊富にのこっている。

それから日光方面に向かって、静かな住宅街を十分も歩かないうちに、報徳役所跡につく。幕府から日光神領の復興を命じられた金次郎はこの場所に役所をおいた。地元の板橋石で作られた石屋根を張った、二階建てのちいさな「報徳役所書庫」だけが、広い敷地に残っていて、鍬を持った金次郎の座像がたてられている。

ここに居を定め、用水路を開削し、開墾し、植林した。市内の「二宮掘」の清流はいまでもこころをなごませてくれる。出精奇特人の表彰や困窮人の救済なども精力的におこなっている。

 

この報徳役所で、七十才で没した(一八五六年)。遺言はつぎのようだった。

 

「……我を葬るに分を越ゆること勿れ。墓石を立つること勿れ。碑を立つること勿れ。只々土を盛り上げて、その傍に松か杉かを一本植えおけば、それにて可なり。必ず我が言に違う勿れ」。

 

けれども忌明けの安政四年に門人たちが墓碑建立を発案し、未亡人の判断でそれを実行して、今日にいたっている。

したがってこの今市の報徳二宮神社にはりっぱな墓所がある。遺言どおりにおこなえば、その思想は現実のかたちを取ることができたはずだが、遺されたひとびとの気もちを容れたので、金次郎の思想は墓の背後に遠ざかってしまった。

この神社は役所跡から歩いてすぐのところにあって、明治になって建てられた。神社をかこむ玉垣のなかに「北海道報徳社」と寄贈者の名を刻んだ一柱がある。嫡孫、尊親氏が北海道十勝の開拓に従事された縁だろうか。

 神社の奥のひろくてりっぱな墓所の前に、遺訓の木札が立っている。

 

「……故に人たるもの必ず学ばざるべからず

     学をなすもの必ず道を知らざるべからず

     道を知るもの必ず行はざるべからず」

 

 思想研究の目的は簡単だ。おこなうべき道徳を知り、実行しなければ、意味はない。すべての思想研究者に突き刺さってくる言葉である。

 

現代の今市には「二宮デー」という日がある。市の広報用の小冊子によれば、「全市クリーン大作戦《二宮デー》や、市内各小学校では、それぞれ独自に《二宮デー》と称する活動日を設け、勤労体験や奉仕活動を行って」おられるそうである。同冊子には「報徳のまちづくり」という標語もある。

さすがに地元だけあって、別のパンフレットには地元小学校に立つ金次郎像の写真が集められている。

 

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 勝海舟より、内村鑑三のほうが当たっている。

『代表的日本人』では、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人をかかげて、キリスト教がわが国民のうちに二千年以上もむかしから働いていたことを主題としているが、史実についての正確さはおくとしても、道徳を薦めるときでも、かくべつ西欧道徳の優位をかかげているわけではない。文明の伝播で日本の良さが失われたことをくり返して、わが国に氾濫している「西洋の知」を批判もする。

とりわけ内村の公平な資質をうかがわせるのは宗教についての叙述である。むやみにキリスト教をもち出さないのはもちろん、日蓮への敬意の冷静、客観的な叙述には、宗教者の偏執の片鱗も感じられない。

 

金次郎についても、ピューリタンの血を認めているのは理解できるが、それは舶来の「最大多数の最大幸福」とは相容れないものと考えている。

幸田露伴の『二宮尊徳翁』(博文館 少年文学叢書)を、「アレは詰まらぬ本」と片づけたそうだ。露伴の文章は今の少年・少女ではとても読めないことに驚かされるのはともかく、内村が愛読したのも富田高慶による農商務省版だから、逸話はおなじだし、道徳を主とした書きぶりにそれほどのちがいはないのだ。

両者の相違は本質についての洞察のあるなしなのである。内村の尊徳評の本質は自然だ。「自然は、その法にしたがう者に豊かに報いる」。露伴にないのはこの視座なのである。

自然は法をもっており、それと精神をおなじくしたのが金次郎とみる。この自然は人工と区別される土地などの自然だけでなく、人間の道徳的本性という意味でもある。自然が与えるものは道徳によって享受できるという根本原理に着目すると、金次郎はその永遠の宇宙の法を体得していたとされるのである。

露伴も道や天という言葉を使ってはいるが、いわゆる常套句にとどまって、思想構造はぼんやりしている。内村の『代表的日本人』は、今の時代では、類型的な解釈で読みづらい面もあるが、当時としては、形而上学と道徳の関係が明確で、その結果、尊徳解釈も骨格がしっかりしたものになっているのである。

だから海舟より鑑三のほうが金次郎の本質に肉薄している。まぐれなのではなく、人間を見ないで、その説くところを聴いたからだ。

 

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ものごとが相関するという原理から、いわゆる報徳の教えがみちびかれる。

金次郎のたとえ話しには、古めかしくて時代遅れな感じがするものもあるが、よく読むと、それらも示唆に富んでいることがおおい。

 

「……からだの隅々まで自由に動かせるのは父母の恩である。その恩に報いるのを孝という。祿位があって人に敬われるのは主君の恩である。その恩に報いるのを納税という。穀物や野菜を産み出して、人の身を養い、安らかに生活させるのは、田畑の徳である。その徳に報いるのを、農事に励むという。日用の品物が、何でもほしい時に手に入るのは商人の徳である。その徳に報いるのを、代金を払うという。金を借りて用を足すことができるのは貸主の徳である。その徳に報いるのを利息を返すという」(『現在版 報徳全書』五巻 四八ページ)。

 

おなじ思想が語られている。それぞれの人間や自然にあるもの、あるいは経済活動は、独立して存在するのではなく、たがいに関係しあっているということだ。一読して分かるように、封建制度や身分制度の肯定や推奨ではない。さまざまな社会現象の背後にある、存在するものの相関する原理というべきものを表現しようとしているのだ。それを彼の時代の言葉で報恩といい、報徳としているのである。

「恩」や「徳」というのは、それぞれのものが存在することが、他の利益になっている、ということのようだ。これにたいして「報」という言葉は、その利益を忘れないで、それに返礼することで関係を維持していくべきだ、というほどの意味だろう。言いかたは古いが、金次郎の言葉を読んでいると、その思想や方法は、今でもじゅうぶん傾聴に値する。

 

ステークホルダー説という経営倫理学説がある。会社は株主のためだけにあるのではなく、もっとおおくの関係者のことを考えながら運営されるべきだという考え方だ。われわれの今の社会には納得できる倫理観である。

 

会社は株主だけのためにあるという、ストックホルダー説はすでに破綻している。フォード社の生産したピント車という車種があった。この車に欠陥が見つかったのだが、ストックホルダー説に従って、公表して回収、修理するより、事故が起こってその補償をするほうが安上がりで、株主への負担もすくないという対応策をとった。しかし事故が続発し、大非難がまき起こって、結局、会社の損害は多大なものになってしまった。

 

ステークホルダー説では、会社の運営にあたって、株主、従業員はむろんだが、顧客、取引先、納入業者、下請け、地域住民のことまで考えに入れるべきだとする。そして環境問題への対策や情報開示によって、たがいの利害関係を損なわないようにしようとする。

 

この説では、ひとびとは利害関係者で、その利害は尊重さければならないと考えられる。ところが利害関係だけだと、たとえば顧客がその会社の商品に不満なら、他の会社の製品を買えばいいわけだ。それで両者の関係は解消になる。金次郎は両者に倫理関係をみようとしているが、そのような深い関係になれるのだろうか。

 

金次郎が再建に着手した村でも、農民の逃亡はあった。つまり利害関係を解消したのだ。関係が解消されることはあるが、それでもこの世の中では、自分ひとりでは生活できないという事実があるのもたしかだろう。金次郎の説には、そういう哲学的な自覚がある。

「徳」というのはそれぞれの存在物が、他のものに利益をもたらすということだ。つまりさまざまな利害関係者は、それぞれ会社への利益となっている。だから会社はそれらの「徳」との関係を忘れることなく、これに「報」いなければならない。そうしないと、結局、「報徳」の関係が崩れて、会社は他者の「徳」を享受することもできなくなる。金次郎ならこう言うところだろう。

利害関係を否定するのではない。利害関係にともなって、こころのつながりが生じているということだ。商品を買ってもらった。有り難うございます、と礼をいう。もっと買ってもらえるよう、アフターサービスを充実させよう。あるいはさらに良い品質のものを開発しよう。そうするとまたいっそう喜んでもらって、自分の利益も増える。このように利益と感謝のこころが行き来するのは、取り立てて奇妙なことではない。このふたつの要素のうち、利害ではなく、こころを基礎にして関係を維持できないか。もちろん裏切られることもしょっちゅうある。それでも基本方針は変えない、こういうことだろう。

この説の有効性は政治にかかっている。感謝のこころを守り、育てていくのは政治だ。限定された狭い地域だったが、そういう政治を金次郎はおこなったのである。

ステークホルダー説にしろ、金次郎の説にしろ、細部まで実行するには困難がともなうから、ひとつひとつの局面で工夫が必要なのはもちろんだ。それでも、両者の距離はそれほど隔たっているようにはおもえないのだが。

 

      ◎

 

 『報徳博物館』は小田原駅のすぐ近く、小田原城の堀のすぐそばに報徳二宮神社とともにある。ここも鉄筋地下一階、地上三階建ての堂々たる建物で、いまだに金次郎の支持者がおおいことを物語っている。

その二階が常設展示室で、金次郎の遺品がたくさん並んでいる。茶碗、合羽、足袋、大久保忠真の表彰状。

木製の丸い玉がある。完全な球形である。手先の作業だけでは無理だ。帰宅後問い合わせると、博物館から御丁寧に論文を送っていただいた。それによれば、金次郎は縄やわらじなどより付加価値の高い「梭(ひ)」という機織りの道具もつくったそうだ。これをつくるには轆轤がいる。それを使ってこの木の玉をつくったのではないかと、佐々井氏が考察しておられた。

また金次郎が芝を採ったのは「矢佐柴山」と伺ったのだが、「久野山」「三竹山」も入会山で、これらも加えたいと御返事のなかにあった。

長男の弥太郎の写真もある。上半身の写真だけれども、やはり恰幅のよい人である。この建物でも入館者は私ひとりだった。森閑とした展示室のなかで、私はひととき金次郎の遺品と対面した。

 

 金次郎のイメージはあまりに強すぎて、現在でもひとびとはそれから抜け出せないようだ。勤倹力行という側面だけが強調されることで、戦前はその合理的な思考法の陰が薄れていたし、その反動で戦後は封建性に反対しなかったという批判を浴びることになった。現代にいたってようやく、金次郎のおおきさは客観的な評価を期待できるところに来たようだ。

二宮金次郎は再評価されなければならない。その目指した方向が、経済と倫理の一致にあったのだから、それは今の社会にも、示唆となっているからだ。むろんそれだけなら江戸時代の他の思想家とかわるところはない。金次郎の思想の特徴は、それを実践し、さらに事実としてすくなからぬ成果を挙げたことによって、その有効性が証明されているところにある。

 

 松が見える。小田原を発車するとまもなく、小田急の電車はしばらく酒匂川と平行する。堤防の上に松並木がつづいている。少年金次郎もかつてこの土手に二百本の松苗を植えたのだった。記念館と生家の藁屋根が視界に入りはじめると、やがて電車は鉄橋にさしかかる。

酒匂川は鮎釣りの名所だ。夏の光りに川面がきらきらと輝いて、むかし、この足柄平野のひとびとが愛憎をもって見つめたその川で、釣り人たちがのんびりと竿を振っている。

 

                            訪平成六年七月三一日

 

      参考書

 

 現在版『報徳全書』一円融合会 平成四年

 復刻版『二宮尊徳全集』龍渓書舎 一九七七年

 『かいびゃく』平成六年五、六月号 一円融合会

 「小田原市 尊徳記念館展示室」小田原市教育委員会 印刷年月日なし

 「報徳博物館」報徳博物館 印刷年月日なし

 「尊徳「木玉」」佐々井典比彦 Best Partner 十巻三号 通巻一一二号 浜銀総研究所一九九八年三月

「二宮尊徳と報徳仕法」今市市歴史民族資料館 昭和六十年

 「日光領の報徳仕法」今市市歴史民族資料館 一九九八年

 「二宮尊徳翁に学ぶ」今市市 印刷年月日なし

 「今市市 歴史民族資料館」今市市歴史民族資料館 印刷年月日なし

 「報徳二宮神社」報徳二宮神社 印刷年月日なし

 『二宮尊徳』日本の名著二六 中央公論社 昭和四五年

 『二宮尊徳の人間学的研究』下程勇吉 広池学園出版部 昭和五九年

 『二宮尊徳』奈良本辰也 岩波新書 一九五九年

 『二宮尊徳』守田志郎 朝日新聞社 一九八九年

 『二宮尊徳のすべて』長沢源夫編 新人物往来社 一九九三年

 『二宮尊徳の実像』八木繁樹 国書刊行会 昭和五一年

 『氷川清話』勝海舟 角川文庫 昭和四九年

 『小説 二宮金次郎』童門冬二 学陽書房 一九九0年

 『代表的日本人』内村鑑三 岩波文庫 二〇〇八年

『二宮尊徳翁』幸田露伴 日本児童文学大系 ほるぷ出版 昭和五三