テクノロジーが進歩するにつれ、物事の本質も顕かになる。
おれは本なら基本なんでも読むが、芥川龍之介やら樋口一葉やらの日本文学が手近にあったので、家や図書館から文庫本を借りてきては毎日読んでいた。おれが大学を卒業する1999年頃、「本を〇冊読んだ」というのはその人の教養を計る一種の指標として有効だった。
『宮沢賢治全部』という本を読んだことがある。宮沢賢治の作品をまるまる一冊に収めた本で、厚さ5㎝位ある大判の本に小さな文字でびっしり小説が印刷されていた。「これ全部読んでも一冊か……🐵💧」となんとなくソンした気分になったのを覚えている。
週刊ダイヤモンドやダ・ヴィンチなどの雑誌には、企業の経営者や文学関係の職業に就く人が1年間に1000冊など物凄い読書量を誇る人の話もチラホラ載っていた。どういうことなのかと読んでみると、斜め読みや拾い読みで要を取ることをもって「この本は読んだ」としていた。おれは始めから終わりまで読まないと読んだ気がしない性質なので、こういう読み方では冊数としてカウントできない。このころは漠然と「“何ページ読んだ”が正しい指標かな~📚🐒」と思っていた。
今はおれも文庫本でなくスマホにダウンロードして読む。デジタル化された本は重量もなく、縦横も自由自在であり、便利この上ない。青空文庫に代表される著作権フリーの文章データバンクには、数冊に及ぶ大部の著書から雑誌に掲載された数ページのエッセイのような短文までが「文庫」の体をもって並んでいる。そもそも紙媒体でなくデータであり、〇冊という指標は完全に無意味となった。
スマホ・タブレットの画面をピンチイン・ピンチアウトすれば簡単に文字の大きさを変えられる。250ページの文庫本は思い切りピンチインするだけで1000ページに膨れ上がり、思い切りピンチアウトすれば100ページ以下となる。冊数もページ数も比較として全く無意味となり、ようやく「何文字読んだか」だけが指標となることに思い至った。
つづく