ここ数年、おれの身辺でにわかに介護に関係する事柄が急増している。
父は去年の暮れに脳梗塞で倒れ、要介護4になった。
伯父は有料老人ホームの社長をして成功した。
叔母は自営の仕事を畳んだのち、ケアマネージャーの資格を取った。
大学の後輩は職場での怠慢でクビになったのち、デイサービスの仕事に就いた。
また、おれ自身も父の介護をするようになり、思うところが様々出てきた。
命というものの価値、どう生きるべきか、どう死ぬべきか、若者層の疲弊する訳、等々。そして何よりも「目の前の人の命の価値は、おれにとって如何ほどか」という無意識下の価値判断が自覚されるようになった。
おれのおじいちゃんは90歳で亡くなった。60歳まで東京都の仕事をしたのち、77歳まで教育機関の重職を勤めた。78歳からは家族経営で傾いた広告会社のトップに招かれ、一人のリストラもせずに再建。「役目を終えたのにいつまでも居ちゃみっともない」と言い、88歳で退職した。この間、1度も入院していない。
おれの父は現在入院中。自分で起こした職場の人間関係トラブルで58歳で早期退職したのち、10年にわたり躁鬱病を患った。その間、100円ショップでムダな買い物を山ほどしてきたり、方々にお金を借りたり、ホームレスを家に連れてきたりと散々だった。自制できずに甘いものをばくばく食べ、その果ての脳梗塞。
この2人の来し方をみるに、同じ直系尊属でありながら、おれは平等に扱えない。これは誰でも同じと思う。
また、日常接している人についても同じことが言える。
脳波計を装着した上で人の顔写真を見せ、「この人はあなたにとってどのくらい価値がありますか?」と質問したとする。脳神経系の生じる脳波量を測る、活動部位をモニタに表示するなどすれば、写真の人に感じる命の価値を定量的に測れるだろう。ごく大雑把なものだろうが、自分にとって命の価値を判断するには充分だ。
「命の価値は平等」というのは生まれたばかりの子供の話。すなわち、無限に発展する可能性をもったスタートラインに「機会の平等」があるのであって、人にどう価値を認めてもらえるかという「結果の平等」じゃない。そこには峻厳たる差がある。
それぞれの人にとって、自身の命はかけがえのないものだ。
同時に、ほかの人からみた自分の命にはどれほどの価値があるか。それは人との関わりの量と質によって決まると思う。