自分の見ている世界 | 沈黙こそロゴスなり

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人は、自分の知っているものしか認識することができません。このことを心理学的にはメンタルフレーム(mental frame)またはスキーマ(schema)といいます。
肉体的なことに限定して言うならば、自分が体験して学んでことしか認識することができません。

たとえば、視覚一つとっても、ものを見る為には学習が必要です。
良い例として、生まれつき盲目だった人が、後に手術によって視力を回復することができる場合があります。
手術の傷が回復し、包帯をとって目を使えるようになっても、この人は最初に目にしたものを理解することができません。
目から入ってくる刺激が何なのか、判断することできないからです。
例えばそこにリンゴが差し出されたとしても、その形や色を認識することができません。そこで手で触ってみると、そこで初めてそれがリンゴだとわかるのです。

このように、人間の五感はみな訓練し学習されることで初めて、ものごとを認識することができるようになります。
ここで重要なのは、その訓練と学習の過程において、認識の仕方が人によってみな違うということです。
たとえばリンゴが大好きな人にとっては、リンゴを見ればそれが美味しそうに見え、またそれに関連してよい思い出などがあれば、とてもよい気分になることでしょう。
しかしリンゴが大嫌いで、さらに悪い思い出などがあれば、それを見ても嫌悪しか感じない人もいます。
同じリンゴのはずなのに、見る側で認識に大きな違いがあるのです。
リンゴはただそこに「在る」だけで、それ自体が良いとか悪いとかいうものではありません。
それを見て様々な認識をしているのは見る側の人、その人でしかないということになります。
これをメンタルフレーム、つまり心理的な枠といいます。
これを例えて言えば、人はみな、すっぽりと箱に入った状態で、その箱の内側がスクリーンになっており、そのスクリーンを通して世界を認識していると言えます。
そしてその映し出される世界とは、その人の体験や学習してきたものに左右されているのです。

実のところ、自分が見ている世界、そしてそこに含まれる様々な物事は、ただそこに「在る」だけでしかありません。
それが、美しいとか、楽しいとか、はたまた恐ろしいとか、それを判断しているのはそれを見ている自分でしかありません。
その判断基準となるのが、体験の記憶であり、またトラウマと呼ばれるものです。
これらは、思考のフィルタということができるでしょうか。
自分の見ている世界とは、この思考のフィルタによって歪められている世界です。
自分の中にある過去の情報に照らし合わせて判断されていることから、既に知っている世界=「既知なる世界」と言うことができます。
これに対して、自分の体験によらず、記憶によるところなく、なんの判断もないままに世界を見ることができれば、それは「未知なる世界」となることでしょう。

既知なる世界においては、何の創造も進化も、成長もありません。
すでに体験されたことを繰り返しているに過ぎないからです。
創造、進化、成長は未知なる世界において起こります。
未知なる世界において、既知なるものは全くの無意味となります。

もしもこの世界を、ありのままに見ることができたとしたら、そこには未知なるものしかありません。今まで恐ろしいと思っていたこと、辛い、苦しいと思っていたものは、単なる幻想でしかなかったことを悟ります。

パートナーシップにおいて重要なことは、相手をありのままに見るということです。それは裏を返せば、自分のこともありのままに見ることになります。

そこに「在る」相手を見、かつここに「在る」自分を見ること。
これが「共同創造」の原点となります。

ただそこに「在る」ということによって、はじめて世界は新たに創造され得るのです。
ある人はそのことを「無の境地」と呼びました。
では「無」とはいったい何なのでしょうか。

つづく