日本軍の毒ガス展
毒ガス年表
1894年 日清戦争
1904年 日露戦争
1907年 「ハーグ条約」(毒ガス使用禁止)
1914年~18年 第1次世界大戦(毒ガス大量使用100万人死傷)
1918年 シベリア出兵 大量の防毒マスクと毒ガスをシベリアへに送る、陸軍省に臨時毒ガス調査委員会を設置
1919年 陸軍科学研究所設立 化学戦の研究に着手
1925年 「ジュネーブ毒ガス議定書」調印 (毒ガス・細菌兵器の戦争使用禁止)、
宇垣軍縮 軍備近代化のための毒ガス兵器の促進
1929年 大久野島にて毒ガスの生産開始
1930年 台湾湾霧社事件 霧社事件弾圧に日本軍初めて毒ガス使用
1931年 満州事変
1933年 陸軍習志野学校創設(毒ガス戦訓練開始)、関東軍防疫班創設(731部隊の前身)
1935年~36年 イタリア軍エチオピア侵略で毒ガス攻撃
1936年 2.26事件 陸軍毒ガス準備
1937年 日中全面戦争を開始 大本営陸軍部 催涙ガスの使用許可
1938年 731部隊ハルピンに細菌工場を建設 大本営陸軍部 くしゃみ性毒ガスの使用許可
1939年 同大本営陸軍部致死性毒ガスの使用許可、関東軍化学部チチハルに創設、曽根兵器製造所(毒ガス弾の充填)創設
1941年 アジア太平洋戦争開始
1943年 相模海軍工廠(寒川)にて毒ガスの生産開始
1944年 大本営陸軍部毒ガスの使用中止命令
1945年 日本敗戦 中国全土及び日本各地で日本軍の毒ガス大量投棄
1946年 極東国際軍事裁判 日本軍の毒ガス。細菌戦は不起訴
1950年~53年 朝鮮戦争
1964年 自衛隊化学学校サリンの合成に成功
1965年 ベトナム戦争本格化(アメリカ軍枯葉作戦)
1969年 沖縄米軍知花弾薬貯蔵所で毒ガス漏洩事件
1970年 日本国会「ジュネーブ毒ガス議定書」批准
1972年 「生物・毒素兵器の禁止条約」調印、日中国交回復
1974年 中国黒竜江省ジャムス市、旧日本軍の毒ガス弾で35名重軽傷
1980年~88年 イラン・イラク戦争(イラク軍毒ガス使用)
1984年 旧日本軍の毒ガス戦関係公式文書相次ぎ発掘
1990年 国連軍縮会議で中国代表、日本に対し遺棄毒ガス兵器の廃棄処理を要求
1993年 「化学兵器禁止条約」締結 (他国に遺棄した化学兵器の廃棄義務も明記)
1995年 東京地下鉄サリン事件、日本政府調査団、中国各地で日本軍の遺棄毒ガス兵器の確認、
日本国会「化学兵器禁止条約」批准
1997年4月29日 「化学兵器禁止条約」発効、日本政府、中国の遺棄化学兵器の処理を開始
2025年3月19日 東京地裁判決 自衛隊「化学学校記事」の開示を却下
2025年現在 遺棄化学兵器の処理事業は終わっていない
*1931年~45年の間、中国では2091回の日本軍の毒ガス使用が確認され、9万4000人の死傷者を出したと中国資料は伝えている
*1945年以降、中国の遺棄毒ガスによる被害者は2000人以上と推定されている
記念碑に刻まれた弔文
1942年「5・27」は1000を越える英雄たちの血が塗り込まれた1日だった 「5・27」それは偉大な民族解放戦争が敵と相対峙した最中の最も過酷な悲惨な1日だった。群をなして人を襲った野獣―日本侵略者とその走狗は冀中の長期的統治を狙い、華北を統治し、トーチカを構築し、民衆に向かって血も凍る虐殺を展開した。定県の民族的愛国者―優秀な中国共産党員と、勇敢なる戦闘指導者、民兵、農民はまさにこの日、民族の不滅をかけて、獣どもと―日本鬼子と頑強に戦い、栄光的な死を遂げた。
私たちは「5・27」の惨状を永遠に忘れない。多くの乳飲み子が母とともに虐殺された。烈士の鮮血で赤く染められた 黄土には、800の死者が横たわり、北坦の道々は埋まった。子らは親を求め、父母は子を探し、止めどもない涙でどの目を真っ赤になった。恨みと傷心の日―「5・27」誰がこの日を忘れられようか
親愛なる死者たちよ、あなたたちは、民族の自由と解放のために、日本侵略者による壊滅的な「蚕食掃蕩」を粉砕するため、私たちの故郷を守るため、勇敢にも武器を持って立ち上がった。―手製の銃、手製の砲、手榴弾、地雷で百倍も勝る機関銃、大砲、戦車、毒ガス・・・を持つ敵と相対し、郊外で、屋上で、街路で、地道で戦った。銃弾の中、毒ガスが蔓延する中、1日と休まず激しく頑強に抵抗し、幾度となく敵の猛襲を撃退し、多くの敵軍と裏切り者を撃退、冀中の輝しい戦いとして名を轟かせた。もはやあなたたちは私たちと離別したが、あなたたちの精神は永遠に伝わり、あなたたちの名は永遠に残る。
不朽なる英雄たち、あなたたちの流した血は決して無駄ではなかった。あなたたちの血と生命は、ついに抗日戦争に最後の勝利をもたらし、私たちは勝利であなたたちを埋葬することができた。烈士の皆さん、永久の安息を迎えてください!私たちは必ずあなた方の血の跡を踏みしめ、あなた方が成し遂げられなかった事業を引き継ぎ、独立と自由、民主、統一、富強なる新中国をあなた方英霊に呈します。私たちは永久にあなた方を忘れぬよう、特にここ沙河南岸の根拠地―北坦に記念堂を築き、千古にわたり追悼します。
「5・27」殉難烈士長存!
中国共産党万歳!
中華民族解放万歳!
殉難烈士万歳!
中華民国35年(1947年)孟夏中浣建立
戦後の遺棄毒ガスの被害者
日中未来平和基金
特定非営利活動法人 日中未来平和基金とは
旧日本軍が中国各地に遺棄した毒ガス弾などにより、今なお中国国内において重篤な健康被害によって苦しんでいる被害者の医療支援を進めるために、日中両国の民間団体が協力して設立された基金です。
私たちは、日本の市民と中国の市民、日本の医師と中国の医師との協働によって、遺棄化学兵器被害者への医療支援や精神的サポート活動などを行っていきます。
■組織概要
名 称
特定非営利活動法人 化学兵器被害者支援日中未来平和基金
英語名
The Japan-China Cooperative Fund for Victims of Chemical Weapons
設立年月日
2016 年 10 月 20 日
事業年度
毎年 4 年 1 日から翌年 3 年 31 日
代表理事
渡邉 知行
■事務局
住 所
〒 160-0022
東京都新宿区新宿1-6-5シガラキビル9階
URL
特定非営利活動法人
化学兵器被害者支援日中未来平和基金
設立趣旨書
◆遺棄化学兵器(毒ガス)被害問題とは
中国の大地には、いまなお、旧日本軍が遺棄した数多くの化学兵器がねむっています。
先の大戦において、旧日本軍は、国際法上その使用が禁止されていた化学兵器を中国に大量に持ち込んだ上、戦場に配備し、使用しました。
それら大量の化学兵器は、日本敗戦前後の時期に、地面に埋められたり河川に投棄されるなどして、組織的に遺棄されました。これが、中国国内に、大量の遺棄化学兵器が存在することとなった所以です。遺棄された大量の化学兵器は、戦後、化学兵器であることを知らずに触れるなどした数多くの中国の人々に、計り知れない被害を与えてきました。化学兵器被害は、皮膚のびらんをはじめ、呼吸器・内臓・神経など全身に症状が及びます。たとえ一命を取り留めても、時を経て疾患の進行や遅発性の症状が現れ、その結果、被害者たちは、健康被害のみならず、働けずに困窮生活に苦しみ、あるいは就学できずに将来の夢を失うといった、全人生にわたる被害を受けています。
◆これまでの活動の経緯
「失われた命や健康はもとに戻せない、でも、せめて安心して医療を受けられるように、生活の支援をしてほしい」・・私たちはそんな被害者たちの願いを受けて、1996年以降、日本政府を被告として、複数の訴訟に取り組んできました。訴訟の目的は、司法の場で日本政府の法的責任を明らかにし、日本政府に、被害者たちの医療支援・生活支援のための制度をつくることを促すことにありました。
そして、化学兵器にばく露して発症している疾患を早期に発見し、その被害を解明するため、私たちは、日本の医師らの協力を得つつ、中国の医療機関を利用しての日中合同検診を、複数回実施してきました。
しかしながら、私たちは、このような活動に取り組む一方で、被害者たちの健康状態や生活実態が、時を重ねるに従って悪化している現実を目の当たりにしてきました。
被害者たちは、生活苦のため適切な治療を受けることができません。癌などの病気を発病しながら十分な治療を受けられずに命を落とす被害者たちは後を絶ちません。
そのような被害者たちに、今までの検診活動にとどまらず、一刻も早く、具体的な医療支援・生活支援を行うことが必要です。
◆私たちが行うこと
中国では、2015年8月14日、中国人権発展基金会という民間の基金と日本の民間団体とが協力し、すでに遺棄化学兵器被害者に医療支援を行う旧日本軍細菌化学兵器被害者救済基金が設立されています。
私たちは、この基金と協力し、日本の市民と中国の市民、日本の医師と中国の医師との協働によって、遺棄化学兵器被害者の救済のため、以下の活動を行っていきます。
1.遺棄化学兵器被害者への医療支援
これまでの検診活動の知見を踏まえて、中国の医師と日本の医師が協働して被害者を治療し、被害者の症状を和らげる医療支援活動を行います。また、被害者が常時服用している薬の費用を、中国の旧日本軍細菌化学兵器被害者救済基金を通じて援助します。
2.日中双方の市民による遺棄化学兵器被害者への精神的な支援
社会的に孤立した被害者たちに、日中双方の市民との交流の場を作り、「私は一人じゃない」という思いを持ってもらえるよう、精神的な支援を行います。
3.広報活動
旧日本軍の遺棄化学兵器による被害について、実態を市民に広く知らせるため、講演などの広報活動を行っていきます。
4.遺棄毒ガス兵器被害者の研究支援及び被害者支援のための政策提言
いまだ全体像が把握されていない化学兵器による身体的被害の全体像を解明するための医学研究を支援していきます。また、事業を通じて、遺棄化学兵器被害者に対してどのような支援が必要かを見いだし、遺棄化学兵器被害者支援のための政策を提案していきます。
◆特定非営利活動法人へ
私たちの活動が社会的に広く信頼されるように、また、志を同じくする人々に開かれた団体として認知してもらえるように、さらには、法人格を持つ団体として上記に掲げた各種事業を行うことができるように、この度私たちは、特定非営利活動法人(NPO)を設立することとしました。私たちは、NPO法人化を機に、ますます充実した活動を継続的に行っていきます。
◆日中間の民間交流
私たちは、日中の医師と市民が協力し合って日中の遺棄毒ガス被害者を支援し、日中の市民が直接交流することにより、双方が信頼し合い、日中関係がさらに良くなることを目指しています。
以上
2016年3月2日
設立代表者 南 典男
遺棄毒ガスによる被害
被害の症状
これらの遺棄毒ガス兵器の存在は明るみに出ることがないまま、戦後、化学兵器であることを知らずに触れたり、晒されたりした多くの中国と日本の人々に甚大な被害を与え続けています。化学兵器による被害は、皮膚の糜爛(びらん)をはじめ、呼吸器・消化器・神経など全身に症状が及びます。
呼吸器障害などの症状は、時間の経過とともに悪化していること、さらに後発的な健康被害として、発ガンのリスクも高くなることが指摘されています。そして、毒ガス被害者が最も苦しんでいる症状の一つに高次脳機能障害や自律神経障害などの神経障害があります。いつも体がとてもだるい、力が入らないなどの症状で働けなくなったり、学業を続けられないほどに至っています。しかし、こうした症状は外見からは分かりにくいため、怠けているなどと誤解され、孤立してしまうケースが多くみられます。
たとえ一命を取り留めても、被害者たちは、こうした健康被害のみならず、友人や家族を失ったり、働けずに困窮生活を強いられたり、あるいは就学できずに将来の夢を失うといった、全人生にわたる被害を受けています。戦争の被害は、実は今も現在進行形として起こっているのです。
被害者の苦しみ
丁樹文さん / Ding Shu Wen
事故当時24歳。
202003年8月4日朝、チチハルの団地の工事現場から5つのドラム缶が掘り起こされました。ひとつは腐食していて、ひとつは壊れて液体がもれていました。工事現場からドラム缶が出たと連絡を受けた丁さんは、工事現場に赴き、この5つのドラム缶を廃品回収業者に売るために、ドラム缶を手でかかえて運びました。マスタードの臭いがしましたが、廃棄油かと思っていました。実はこれが、マスタードガスの入ったドラム缶だったのです。丁さんは、廃品回収業者であった李さんと出くわして、李さんに200元でこのドラム缶を売りました。李さんの三輪車にドラム缶を移しました。李さんは濡れたドラム缶を素手で触って濡れ、その手でお札も数えたので、丁さんが受け取ったお札も湿っていて、丁さんはそれをズボンのポケットにしまったので、太腿にも液が付きました。
ししかしお昼になると目の痛みや液がついた皮膚に紅発疹がいくつも現れ、みるみるうちに大きな水泡になりました。あまりの痛さに病院に行くと、医者は、感染症を防ぐために大きな水疱をハサミで切り開いて、たまった水を出しました。あまりの痛さに死んだ方がまし、と思うほどでした。その後、太腿の皮膚移植手術も受けましたが、大きな傷跡が残ってしまいました。あのドラム缶を受け取った李さんは、事故から17日後に亡くなりました。
3ケ月入院し、退院して妻子の下に帰ると、我が子はハイハイができるようになっていました。子どももの成長が唯一の救いでした。退院後も早く仕事につきたいと就職活動をしました。建築会社、ダンボールの会社などで働こうとしましたが、できませんでした。以前より注意力が散漫になり、記憶力も衰え、体力もなくなっていました。光の刺激に過敏になり、傷口も痛むなど仕事になりませんでした。仕事ができないとわかった時のつらさはなんともいえません。自分は役に立たない人間になったのか、と思ったり、家族の期待にも応えられない、というのはとてもつらいことでした。
牛海英さん / Niu Hai Ying
事故当時26歳。
当時、牛さんはチチハル市内の廃品回収業を経営していました。当時、夫と子どももいました。
2003年8月4日朝、市内の工事現場から出土したドラム缶が廃品回収所に持ち込まれました。ドラム缶を解体し、鉄として売ることになり、ドラム缶の解体作業が始まりました。中からカラシの匂いのする液体が出てきました。毒ガスだとは知りませんでした。作業所中にものすごい臭いが充満し、吐き気を催す程でした。
昼過ぎになり、作業をしていた従業員の李さんが早退し、病院に行きました。夕方になって、李さんの奥さんがやってきて「あなたも病院に行った方がよい」とすすめられ、病院に行きました。顔中に黒い斑点がいっぱいで、両足、股間、太ももにも腫れが出ていました。
1ヶ月たっても、腹のところで感染されたところがまだ腐っていて、完全に感染されたところを切り取ってしまう手術をしました。3ヶ月治療を受けて、やっと直って退院しました。でも、治癒して退院したのではありません。治療のしかたがなかったのです。
退院後も、近隣の人々も伝染の恐れがあると言われたり、軽蔑されたりしました。
現在も体の不調は続きます。
李臣さん / Li Chen
事故当時29歳
当時、李臣さんは、黒竜江省ジャムス市で黒竜江省航道局の職員として働いていました。
1974年10月20日真夜中の午前2時ごろ、松花江で浚渫作業をしていました。ジャムス市記念塔から200m上流の地点で吸泥ポンプがカンカンという音がして、メインエンジンが異常停止しました。船の上で機械管理をしていた李臣さんたちが修理にかけつけ、手動リフトでポンプのふたをあけると、ホンプの中から水があふれ出ました。その水は黒色でマスタードのような臭いがしました。李臣さんはこの黒い水につかってリフトのチェーンを手でつかんでふたをあけたため、体全体に黒色の液体をあびてしまいしまた。さらに李臣さんは黒い水が充満したポンプ内に手をいれ、中から金属製の物体をとりだしました。それは直径10cm、長さ5 0cmの砲弾でした。砲弾はさびついていて、頭部がつぶれて中から黒い液体が流れ出していました。この液体は23日に防疫センターの検査でイペリットとルイサイトの混合液であることがわかりました。日本軍の遺棄した毒ガス弾だったのです。紅旗09号事件です。
午前3時ごろから、めまい・吐き気・頭痛・呼吸困難・口の渇き・流涙などの症状がでてきました。黄色い液体を嘔吐し、手がかゆくなって、体の力がぬけてしまいました。ジャムス市の病院で手当をうけましたが病名はわかりませんでした。21日にはハルビン医科大学の病院に入院しました。入院時に両手の水疱はぶどうの房のようにはれあがり、頭の上にも鳥の巣のような水疱ができました。24日に瀋陽の病院に転院し、マスタードガス中毒症と診断されました。治療はびらんした部分 をきりとって消毒するという方法でとられました。しかし、皮膚がただれると指と指の間に水かき状の膜ができ癒着するようになりました。何年も入退院をくりかえし治療を受けました。その後1997年になって、ハルビン市障害者連合会から肢体障害3級という認定を受けました。働いていた黒竜江省航道局は休職扱いで基本給だけになり、1999年定年前に早期退職をしました。
1997年、他の遺棄毒ガス被害者とともに日本政府を相手に裁判を始めました。何度も原告として訪日し、証言しました。この裁判は2003年東京地裁で李臣さんたちの訴えが実り、日本政府に賠償命令がでる勝訴判決を勝ち取りました。しかし、日本政府は控訴し、高裁では逆転敗訴となってしまいました。李臣さんはその後も体調が回復せず、2020年3月、お亡くなりになりました。
被害者との歩み
私たちは、中国黒竜江省ハルビンで6回にわたり、集団検診を行ってきました。(2016年9月現在)これらの検診活動を通じて、先に述べたような症状を明らかにしてきました。そして、近年では日本の医師らと中国の医師が協力し合い、日中合同検診を徐々に実現してきています。
その一方で、被害者たちは、生活苦のため適切な治療を受けることができていません。ガンなどの病気を発病しながら十分な治療を受けられずに命を落とす被害者もいます。検診では限界があります。被害者たちが少しでも健康・生活を取り戻せるような実質的な医療支援、生活支援が必要不可欠です。
一日も早く、被害者たちが全うな医療を受けることができるよう、NPO法人化学兵器被害者支援日中未来平和基金の設立に至りました。
日米軍事同盟反対!!
自衛隊「統合作戦司令部」発足 陸海空自衛隊を一元的に指揮
日本政府は、なぜ歴史的事実ときちんと向き合わない??
4月22日防衛省戦史資料室に元731部隊の池田苗夫の書いた「きい弾射撃による皮膚傷害・・・・」を閲覧しに行った。現物はあったが、写真を撮ろうとすると、この資料は業者じゃないと写真が撮れないという(つまり有料)、又肝心な袋とじの部分は公開しないとのことであった。この国は、731部隊の大事な資料もまともに公開できない後ろ向きな国だと思った。
石破首相は、「(略)その手立てと言うものが歴史の経過とともに失われた。・・・わが政府はそのような不誠実な政府ではございません。」と強弁しているが、手立てがあるのにそれを隠し続けている「不誠実な政府」なのである!!
井本日誌は、公文書(業務日誌)であって、私文書ではない!!
井本日誌は1993年まで公開されていたのに、なぜその後、非公開になったのか?
私的なものではない!!
井本日誌には、きちんと常徳の細菌戦の様子などが書かれている!!
戦史叢書には、井本日誌からの引用があるが、井本日誌にある細菌戦の記述はないのはなぜか?
731部隊の人体実験「資料ない」はウソ 公文書を示し追及
(山添議員のフェイスブックより)
予算委員会で旧日本軍731部隊について質問しました。
政府は戦後一貫して、「具体的な活動を示す資料がない」と言い張ってきましたが、今回防衛省防衛研究所に人体実験の記録があることを明らかにしました。
「き弾射撃による皮膚傷害並びに一般臨床的症状観察」と題する資料は、イペリットという致死性のガスを人に向けて発射したり水溶液を飲ませたりし、その後の症状の経過を観察したもの。1984年に毎日新聞がスクープしたのと同じ内容ですが、政府が保管していたという点が新しい。
作成者は当時731部隊にいたことがわかっています。本人が寄贈したものであり、受け入れた際の「所見」には「人を使用して行った試験の成績であり、得がたい貴重なもの」とまで書かれています。人体実験の記録であることは一目瞭然ですが、答弁に立った防衛大臣は公文書であることを認めながら「客観的な事実を確認できない」と逃げの姿勢。どこまでも事実を認めようとしません。
政府に寄贈されたのは1964年。防衛研究所が文書を公開したのは2004年であることを初めて明かしました。40年にわたり隠してきたことになります。そしてその間国会では、「資料がない」とウソを言い続けてきたことになります。そうして長らく隠ぺいした挙げ句に、「古い話で確認できない」ーーあまりに不誠実です。
隠ぺいし、ウソをついてきたと指摘すると、ムキになった石破首相が「わが国はそんな国ではない」と強弁。
私たちの国の拭いがたい過ちです。戦後80年、これ以上目を背け続けるべきではありません。真摯に検証し、事実を認めよ。
【731部隊】新資料で追及‼国会質問 徹底検証
自衛隊は核戦争参加を想定している!!
国際法違反の、細菌戦や毒ガス戦のことをいつまでも隠していていいのだろうか?
この国家のやばい事実!!
(西山勝夫さんのメールより)
中谷元防衛相が「自衛隊は昭和29年に創設され、旧軍とはまったく違うものだ」として、断絶していると強調したのに対し、山添氏は、731部隊所属の池田苗夫氏が1964年に寄贈した、毒ガスを使った人体実験記録について、防衛省防衛研究所に保管され、2004年の公開まで40年も秘匿されていたと指摘。その裏には、防衛研究所が1983年に作成した「公文書の公開審査実施計画」があると指摘しました。
同実施計画には「第731防疫給水部関係人事資料」と「細菌兵器に関するもの。(ア)実験についての報告・記録(イ)使用の疑いを抱かせるもの」が特別に示され、審査に回すことを指す「摘出」と書かれています。
山添氏は「731部隊をはじめ、毒ガスの使用や細菌兵器の実験、使用に関する資料が当時防衛研にあったということだ」と強調。防衛省の大和太郎防衛政策局長は「審査をする121人の戦史部所員は全員旧軍関係者だ」と認めました。
山添氏は「旧日本軍と断絶どころか、連続しているからこそ、人体実験などの隠蔽の基準までつくった。」と述べました。
旧日本軍と自衛隊に連続性 731部隊の犯罪隠し追及 2025.4.24
多摩霊園にある731部隊員が造った『精魂塔』、731部隊の犠牲者にすまないと思わないのか??2025年4月29日撮影
本庄繁(当時関東軍司令官)は、柳条湖事件は、関東軍の仕業とわかっていても、墓にはそう書かなかった!!
「排日の極」と偽っている!!
本庄繁の遺書
「多年軍の要職に奉仕致しながら御国をして 遂に今日の如き破局に近き未曾有の悲境を見るに立到らしめたる
仮令退役とは云へ何共恐懼の至りに耐へず罪万死に値す
満州事変は排日の極鉄道爆破に端を発し 関東軍として自衛上止むを得ざるに出でたるものにして 何等政府及び最高軍部の指示を受けたるものにあらず 全く当時の関東軍司令官たる予一個の責任なりとす
爰に責を負ひ世を辞するに当たり 謹て聖寿の万歳 国体の護持 御国の復興を衷心より念願し奉る
昭和二十年九月 本庄 繁」
2025年4月29日撮影
不当判決!!(3月19日、東京地裁判決)
自衛隊でやっていることを隠蔽するな!!
自衛隊化学学校が作成した『化学学校記事』の情報公開を求めた裁判で、東京地裁は、原告の主張を無視して請求を棄却した!!『化学学校記事』については、情報公開を求めて審査請求をしたが、3年以上経ってから「不存在」の返事が来る始末。この間、防衛省は何を画策したのだろうか?
自衛隊化学学校では、1950年代から、毒ガス製造に関わり、1964年にサリンを合成しており、その後も毒ガスを作り続けている。
その化学学校が作成した『化学学校記事』が1冊も自衛隊にないという事は考えられない!!何で、機関誌を敢えて隠すのだ!!
裁判所は、強く情報公開を迫るべきだった!!
1925年に作成された毒ガスの実戦での使用を禁止するジュネーブ議定書に、日本は1970年になってやっと批准した。
その頃に作成された『化学学校記事16号』までの発行は自衛隊も認めている。16号は、原告側が持っていた。
認めたという事は、持っていることではないのか?
裁判所は、国側に加担し、三権分立を自ら放棄している!!
化学兵器禁止条約を日本は、1995年に批准しているが、OPCWの監視下、防護のためと称して、毒ガスを作り続けている。
戦中、毒ガス兵器を使い、その反省もせずに、戦後も毒ガス兵器の開発に手を染めている防衛省を、司法は裁かなくて良いのか、疑問を強く感じる。
裁判所には憲法9条を改めて、確認してもらいたい。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
『化学学校記事』12号の掲載された知られざる細菌戦の記述(杉田記事)
1938年 華中 細菌大量使用、1939年 ノモンハン 細菌大量使用、1940年 重慶爆撃 ペスト菌 コレラ菌使用、1941年 湖南省 細菌作戦、1943年 華中 華北 細菌作戦
化学兵器禁止条約(日本は1995年に批准)、これもザル法か?
化学兵器の開発・生産・貯蔵・使用を全面的に禁止するとともに、すでに存在する化学兵器および化学兵器生産施設を条約発効ののち原則として10年以内にすべて廃棄すること、一定の設備を持つ化学産業施設に対する検証措置をおこなうこと等を定めている。また、1925年1月1日以降に他国領域内に同意なく遺棄した化学兵器についても廃棄処理を行うこととされており、遺棄国に処分に必要な費用や技術の提供を義務付けている。
化学兵器禁止条約第2条9項の規定により、以下の目的については例外が認められている。
・工業、農業、研究、医療又は製薬の目的その他の平和的目的
・防護目的、すなわち毒性化学物質及び化学兵器に対する防護に直接関係する目的
・化学兵器の使用に関連せず、かつ化学物質の毒性を戦争の方法として利用するものではない軍事的目的
悪法!!秘密保護法撤廃!!
秘密保護法によって隠された自衛隊の実態について踏み込んで取材できる環境づくりが絶対必要だ!!
地下鉄サリン事件から30年 被害者や遺族 教訓語り継ぐよう訴え
地下鉄サリン事件被害者 “風化感じる”回答の8割以上 NHK調査
自衛隊合憲論反対!!
1995年3月20日地下鉄サリン事件発生
自衛隊化学学校は事前に起こることを知っていた。
科捜研の結果が出る前から自衛隊は、サリンであることを知っていた。
オウムの中に自衛隊信者がいた。その自衛隊員と化学学校の間で、電話で情報のやり取りがあった。
戦後も日本は自衛隊で毒ガスが作っていて、化学兵器禁止条約を批准(1995年)してからも、防護のためとして自衛隊では毒ガスを作っている!!(サリン、VXガス等)
自衛隊とオウムの関係もはっきりさせず、早々とオウムの幹部を死刑にした当時の安倍政権と法務省にも問題あり!!



















