中国侵略戦争

第5回「戦争の加害」パネル展in横浜

細菌(生物)戦争

『BCGと人体実験』 美馬聡昭著

731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)

防疫研究室と昭和天皇の関係

1940年と2020年の東京オリンピック

731部隊と国立感染症研究所の問題
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書

情報公開裁判「化学学校記事」「衛生学校記事」

ABC企画委員会

731部隊・100部隊展

記憶の継承を進める神奈川の会



 


 

 


 


 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。



今、世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルス。これは、細菌戦(生物戦)ではないのか?

過去に、日本が中国で行なった細菌戦のように。(以下は現在分かっている細菌戦)



1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う

*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!

1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う

10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う

10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う

1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行

1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した 

8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う

1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置



【コロナは生物兵器か】人工のコロナウイルスショックによる文明の転換点 船瀬俊介氏が語る







米軍300人が新型コロナの感染が広がる前に武漢にいたという。

新型コロナウィルスを撒いたのは??

 


 


 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察


 


 

731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。


 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!



731部隊被害者遺族の訴え!!        

 
 





検証・中国に於ける生体実験

東京帝大医学部の犯罪   美馬聡昭著  桐書房(2013年)


 

第3章 国家機密の抹殺


 

小泉親彦と昭和天皇

 

 

 1933年4月工事費20万円をもって着工し、10月に完成した。建物は鉄筋コンクリート2階建てで、延べ1750㎡あった。建物の大きさは、北海道庁赤レンガ館1階フロアとほぼ同じである。このくらいの床面積があれば、背蔭河の実験材料の保存が可能であると推定した。

 遠藤二郎の日記、1934年8月11日には、背蔭河訪問時には、良好な飛行場ができていたと記載されていた。陸軍防疫研究室ができると同時に狭くなり、急遽新築したということは、背蔭河の実験が順調に進んで、実験材料が急増し、陸軍防疫研究室に空輸されていたと思われる。


 

 




 

  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 


 

   

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。

日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、事実も認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?

この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?

今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

埋もれた細菌戦調査書




 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)



「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 



本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

細菌戦裁判第1審判決ドキュメント

                                 ー嵐の4日間ー

                                                      中谷真紀子 (大学生)

8月27日午後1時30分  東京地方裁判所103号法廷

ー判決公判開廷ー

◆不当判決度弾劾

私は正門前で、判決の結果を、カメラを構えながら今か今かと待っていた。午後1時45分、荻野淳弁護士が出てきた。報道陣が駆け寄る。荻野弁護士は手に持っていた判決結果を紙を開いて、高く掲げた。

「請求棄却、細菌戦の事実を認容」

一瞬の静寂の後、たちまち、その場は騒然となった。判決は細菌戦の事実を裁判所として初めて認めた。しかし、謝罪と賠償を求める原告の請求は受け入れられなかったのだ。ものすごいシャッター音。報道陣が押し寄せる。私も慌てて手に持っていたカメラを構えた。報道陣に押しつぶされそうになりながら、私も写真をパチパチ撮った。

 


 


 

 

 


 


 


 


 

 

 

 

 

 


 

●731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?



731部隊の行なった細菌戦




 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??

安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難


 

           



2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)

旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!



731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 


 

731部隊新文書公開   赤旗200620

京都 隊員の敗戦時の行動

 旧日本陸軍の細菌戦部隊・731部隊に所属した隊員の敗戦時の行動などについて、公文書により新たに明らかになった資料が19日、公表されました。研究者2氏が、京都市内で記者会見しました。

 会見したのは、滋賀医科大学の西山勝夫名誉教授と、「15年戦争と日本の医学医療研究会」幹事の原文夫氏。

 今回明らかにされた資料は、731部隊を本部とする関東軍防疫給水部(関防給)の各支部、隊員の詳細について記された「関東軍防疫給水部部隊概況」。国立公文書館から今年3月に西山氏らが入手し、判読できるよう両氏によって翻刻(ほんこく)されました。

 これまで関防給の部隊員名薄は、当時、陸軍の全部隊が作成していた「留守名簿」が初めて公となった文書でしたが、隊員の詳細までは明らかになっていませんでした。今回の資料では、五つの支部ごとの所属隊員の氏名が、行動群別に階級、本籍、行動状況とともに記されています。また関防給の敗戦時隊員数が、総計3262人であったことも明らかになり、「公文書によって明らかになったのはおそらく初めて」としています。

 会見で西山氏は「『留守名簿』で不明だったことが明らかになった意義は大きい。731部隊生き残りの方たちの証言の裏付けにもなる」と強調。原氏は「政府は731部隊を公式には認めていない。およそ全体像が明らかになってきたもとで、研究者が協力して、早く解明すべきだ」と述べました。


 

1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』


 

 

「1931」斉藤準太郎の日記


 


 


 

一月八日

夜も相変わらず戦友武田について青柳をならふ 中々難しいが味な歌である。
「青柳の影に誰やらいるわいなー人じゃござんせん おぼろ月夜のかげぼうしーあれさおよしよ  人が見ているーひざまくら」

今日の楽しさも此れ限り  明日は巡察  その次は分遺隊  勤めはつらいね?


 

 ●パネル展「日中戦争―その実相に迫る!」感想(2020年2月8日~13日)


 

2/10(月)

4. 万人坑:累々たる亡骸の数々。一人大の方々。どんな・・だったのか、忘れさせられてしまうようで恐ろしい。人間は戦争で悪魔に化す。戦争絶対反対!即安倍政権倒せ!!出典の『』「 」や貴重な本の数々。大切にしたい。図書館で借りれるように。又是非開催して下さい。歴史事実を知らないことが、一番恐ろしい。(男、60、市内、折込み)

 

 

 

 

 

 

 

 

    

●映画「ひろしま」アンケート(1月13日 横浜)

( )は性別・年代・住まい・情報

67.「先生、僕は工場を辞めました。大砲を作り始めたからです。又、戦争を始めるんですか。僕たちが戦争をやらされるんです。罪のない人々が殺し合わされるんです」当初、被害者の立場からの映画だと思っていましたが、2度と戦争を起こしてはいけないという強いメッセージだったと思います。自衛隊の中東派遣が行われる中、改憲と戦争の問題を私達に被爆の実相を通して考えさせる作品でした。
(男性・60代・茅ヶ崎市・チラシ)

 

 

 

日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!



●細菌戦

【真相】(unit731)



・『石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言』

郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)



 

V 私は中国軍の捕虜だった

<ー総務部調査課翻訳(情報)班 H・M

「あの兵器は、陛下がお許しにならぬ」

 しかし、私が命令を受けたのと同じ6月頃、やはり奇妙な命令を受けた隊員たちがいた。その隊員によれば、概略次のような話になるのである。
 6月初旬のことであった。部隊の各班や課に、〈特攻隊員募集〉といった主旨の通知が回ってきた。血気盛んな隊員がこれに志願した。印刷班、経理、診療所、教育隊などから、6、7人が集まった。
 彼らはハルピン南棟にあった731部隊第3部(江口大佐)預かりの身となった。第3部の一室に、毎日行くが、具体的な任務はいっこうに与えられない。そのうち、1人出動せよ、と言ってきた。


 


 

・『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』



中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編

江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

 

三 警察・憲兵の第731部隊への「特移扱」 


 

笹城戸哲郎自筆供述書(1954年8月12日)

※訳注 第86部隊―1939年8月、新京市寛城子東支鉄道管理跡に設置された特設憲兵隊の通称。同部隊はいわゆる科学部隊であり、部隊員は関東憲兵隊より選ばれ、6つの分隊で編成されていた(第1分隊と第2分隊は無線探査担当、第3分隊は指紋、第4分隊は法医学・細菌、第5分隊は写真・筆跡鑑定、第6分隊は科学担当)。部隊の基本任務は諜報活動であり、特に第1・2分隊の活動は顕著なものがあったとされている。法医学・細菌を担当した第4分隊は1940年2月に満洲医科大学で、同年5月には731部隊で部隊員全員に対する基礎防疫学の教育を実施している。また科学担当の第6部は、思想対策・謀略対策を主任務とし、そのため様々な事件・事象の科学的分析を実施した。部隊員は化学・電気・物理などに関する教育を受け、教官は満鉄大連中央科学研究所や、大陸科学院から派遣されていた。

 

 

 

 


 

 

  


 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第1章 毒ガス兵器の研究と開発

 

4 対ソ戦を想定した毒ガス兵器開発と人体実験


 

毒ガス兵器の人体実験①

 731部隊の憲兵部に勤務した元通訳は、1941(昭和16)年10月頃に「新開発の液状褐色有毒ガスを、フラスコに約0.7ℓ詰めて、完全防護の隊員1名が至近距離から戦車の透視窓に叩きつける」という実験に参加した体験を回想している。これによると、捕獲したソ連軍の戦車に「死刑囚のスパイ」wp座らせて手錠をかけて座席に固定し、右手のは呼吸困難になった時の呼出し用非常ベルボタンを握らせるなどしたうえで、フラスコを投げつけて被験者を致死させることで「新開発有毒がガスの実験効果を研究調査」したと記している(古賀勝彦『諜報機関員の戦闘』)。

 

 

 

 

 

  

  ・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第13章

毒ガスは消えず

埋めるー中国の毒ガス弾に対する処理

 

戦後相当長い時期にわたって、日本軍の遺棄した砲弾がしばしば見つかった。しかもそれはずっと、現地の貧しい人たちが探し集める対象であった。というのは、当時の「北満製鉄所」が各地で古い砲弾を原料として買い取っていたからである。戦争が終わると、戦争の苦難を嘗め尽くした人々にとっては、「鉄を鋳って犂(スキ)とする」というのが本来の当然の願いであった。


 

 

              毒ガス工場の焼却
 


 


 

現在、大久野島国民休暇村


 


 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題




 

●『三光』     中国帰還者連絡会編

日本鬼子(リーベンクイズ)


 

焼け火箸ー拷問の挙句に斬首

佐藤五郎

分隊員 上等兵

 

(旧部隊名)第59師団第109大隊

部隊に並んで三井洋行と記した大きな看板を掲げた三井物産の分店が、付近の中国商店に覆い被さらんばかりに立ち並んでいる。このような田舎の町にも日本財閥は手を広げていたのだ。また、西門大街には、日本軍沂州憲兵派遣隊と記した看板を門に掲げた憲兵隊が駐屯している。

 

 

 日本でも最近、緊縮財政の中で軍事費だけが大きく突出し、平和の象徴である福祉が切り捨てられつつある。戦争準備をやめて、その金を福祉に、世界の飢えた人々に、アジア各国との友好に、世界の恒久平和のために使ってくれというのは、多くの日本国民の願望ではないだろうか。(篠塚良雄)018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)


 





●日米安保条約・自衛隊を問う!!

自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!



日本の毒ガス



沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??



「琉球処分」から140 今の沖縄を考える

●情報公開裁判

なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?



・731部隊関連の「情報公開裁判」に関する報告



和田千代子(731細菌戦部隊の実態を明らかにする会事務局長)

 

2『衛生学校記事』裁判の問題点と争点

 裁判当初、被告 国は、防衛省・自衛隊には衛生学校を含めて『衛生学校記事』は1冊も保管されていないと主張していました。しかし第1回裁判から8か月後の20149月防衛医科大学図書館から『衛生学校記事』28冊が発見されました。それでも被告 国は、発行元の衛生学校には1冊も保管されていないという常識ではありえないことを言い続けてきました。

 


 

・次回『衛生学校記事』情報公開裁判(第26回)東京地裁419号法廷

延期になっています。


 

・次回『化学学校記事」情報公開裁判も(第16回)東京地裁522号法廷も

延期になっています。





第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。



1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。



『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。



1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

第4代衛生学校長

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?



金原節三(1901~1976)



陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」



厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1          





金原節三と細菌戦



金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。



細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。



金原節三と武見太郎



金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。




●『BC兵器』久保綾三著(1969年)

※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。



Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み



 

2、 生物・化学兵器の種類と特性

戦用ガス

戦用ガスの毒性は一般に化合物に含まれる元素や原子団(基)の種類によって左右される。

(1)ハロゲン元素 塩素(Cl)、、臭素(Br)、フッ素(F),ヨウ素(I)のいずれかを含むと毒性を増す。

(2)硫黄(S)

(3)ヒ素(As)

(4)ニトロ基(-NO₂)

(5)シアン基(-CN)など

化学兵器に関する群用語には、『半数致死量』(Lct50 )というのがあり、曝露した目標物の集団の50%を致死せしめるに要する戦用ガスの量をいう。これは、Lct50の記号で表し、1㎎数(毎分)を示す。例えば3200㎎-min/㎥・・・・Lct50・・・ホスゲン

『半数不能量』単位は半数致死量と同じである。

 

 

●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 

 

第12章大元帥の試練


 

 

レイテの戦いは1944年12月末まで続き、それは神風攻撃を伴った。ルソン島の山陰から飛来した特攻隊は、当初、高い戦果をあげた。結局、大本営はフィリピンでの敗北を認めその放棄を決定した。この高い代償を払ったフィリピンの防衛は、本土を含む他のより重要な戦闘の準備を遅延させることとなった。9月25日、昭和天皇は、報復兵器「風船爆弾」の開発を梅津美治郎参謀総長の統轄下に置き、10月末までの完成を命じ、開発は予定通り進んでいた。レイテ敗退の報復として、11月3日の明治節の前後に合衆国本土に向けて最初の風船爆弾数千個が放たれ、1945年3月までに約9300個の風船爆弾が放球された。ごくわずかが北米大陸に到達したが、ほとんど損害を与えることはなかった。

 

 

憲法9条を生かそう!!


 


 

731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!!

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?



地球の温暖化や異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!



●『二酸化炭素温暖化説の崩壊』広瀬隆(集英社新書 2010年発行)



第1章 二酸化炭素温暖化論が地球を破壊する

 

気温上昇と二酸化炭素増加とどちらが先か

つまり、何も気象を研究したことがない人間たちが、わいわいと集まってスーパーコンピューターで遊んでいるに過ぎないことになる。そして「多数決」で気象を予測しようとしてきたわけだ。これは科学と県警のない政治的集団だ。

 温暖化によって、そのあと二酸化炭素の増減が起こるなら、現在の二酸化炭素温暖化説は、全く根拠のない話になる。

 

●核実験(ウキペディアより)



若くして白血病で亡くなった夏目雅子、本田美奈子、また五輪候補選手だったスイマーが白血病になったのは、放射能の影響ではないのか?



月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子

 

核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 


 

 

アメリカ合衆国

ネバダ州での核実験

 

 

1957年8月7日ネバダ核実験場における核実験(プラムボブ作戦)で破壊された米海軍の飛行船。この飛行船は軍事効果実験のため爆心地点から5マイル以上離れた地点を無人で浮遊中だったが、爆発の衝撃波で崩壊した。

南太平洋での実験は費用が掛かるため、トルーマン大統領の提案により1951年ネバダ州の砂漠にネバダ核実験場 (NTS,Nevada Test Site) が設置された。その後、フォールアウト(放射性降下物)の測定や建物・動物などへの影響を調べるための実験が地上・地下含めて928回行われた。

核実験の振動がラスベガスの建物に影響を与えたため、核出力5Mtの爆発実験の前段階として、1968年1月19日にラスベガスの北130kmにあるトノパー近郊で1Mtの地下実験"FAULTLESS"が行われた。これがアメリカ合衆国本土で行われた最大の核爆発であった。その結果、衝撃で地上に大きな断層ができてしまったために本土で実験は行わないことになり、5Mtの実験はアラスカアムチトカ島で行うことになった。

1997年7月2日 地下実験場で初の臨界前核実験が行われた。

・ 928回繰り返された核実験の放射能で、多くの人々がガンになって死んでいるというドキュメンタリーがある。

詳細は「ネバダ核実験場」を参照


 


 

水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)


 


 

「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】







●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future









●核融合もすべきではない!!

20170303 小出裕章先生にきいてみた!!~土岐市核融合科学研究所 重水素実験について









日本政府・自衛隊は情報を公開せよ!!(情報開示!!)



今年も8月12日がくる──。33年前 520人が犠牲になった日航機墜落、遺物の化学分析で判明した事実とは?



中曽根元総理が知る日航機墜落事故の真実とは?墓場まで発言の真意を調査!



ここの研究所は、どんなことをやっているのだろうか??



国立感染症研究所村山庁舎(武蔵村山)



●1954年3月1日第5福竜丸他1000隻もの船が被曝!核兵器廃絶!!



なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!

       

      

原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。



XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より



・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。



2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。



封印された原爆報告書







水爆実験

水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した!!

       

 


 

           



JCOの臨界事故





福島第1原発事故



核兵器廃絶

徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

「731部隊・100部隊・毒ガス戦」パネル展 2019年4月29日~5月3日

「日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか 」 田中利幸さん

日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか

水俣病



731部隊(unit731)

昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!