シナをよう懲するとして1937年日中戦争が始まった。よう懲とは、国語辞典で調べると「敵に大打撃を与え、二度と戦争が出来ないようにこらしめること。」とある。かなりの強行姿勢である。近衛首相は国民の戦意高揚をあおり、挙国一致の国民精神総動員を呼びかけていった。その運動とは、国内体制も急速に戦時体制に切り替えて、総力戦に向かうことらしい。その一方で社会主義および自由主義思想に対する取締りが強化された。
 その当時の世界の流れは帝国主義であったから、「大日本帝国」の日本は中国を侵略していても何の罪悪感は無かったのだろう。
 現人神の天皇の統治する国土が増えれば世の中が平和になるとでも考えていたのだろうか?その裏で残虐な行為が繰り広げられた。
 今読んでいる本『「百人斬り競争」と南京事件』(笠原十九司著)に南京城内の掃蕩した部隊のことが書いてある。
 【歩兵第20連隊(大野連隊)の「第四中隊陣中日誌」と同連隊の兵士たちの陣中日  誌(『南京事件京都師団関係資料集』より引用とある)】
12月13日
西山を一回りして降りてくると、壕内に敗残兵がいたと大勢の人たちが集まってヤイヤイ言っている。紅顔の美少年である。シャツは抗日救国連合会の署名入りのものを着ている。祖国中華民国を守れとずいぶん苦労をしたろう。あまりみんなが残酷な殺し方をしようとするので見るに忍ばず、僕が銃殺しようとするが、皆が承知しない。戦友が無残な死に方をしたので、ただの殺し方では虫が納まらぬのだと言っている。無理からぬこと。だが余りにも感情的ではないだろうか。日本軍は正義の軍であり、同時に文化の軍でなければならない。同じ人を殺すにしてなるだけ苦しめずに一思いにバサリ殺ってやるのが、日本の武士道ではないだろうか。少しの抵抗もせず、ここを撃って殺してくれと喉を示て哀願するのを寄ってたかって虐殺するのは日本の恥である。(「北山日記」)
 戦車隊も9時頃から掃蕩に協力出動した。(「牧原日記」)
12月14日
 午前十時より城内第二次掃蕩区域の掃蕩を実施す。敗残兵328名銃殺し、埋葬す。(「四中隊日誌」)
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