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大阪旅行記第21話 「リトミカ」の困難②テンポと拍子

関西フィルの「リトミカ・オスティナータ」(ピアノ協奏曲)の感想の続き。

この曲のテンポ指定はかなり速い( 冒頭のピアノは♪=176と指定されている)。この日の演奏もこれに従って行われたが※、このテンポで錯綜する5拍子と7拍子に対応するのは至難の業である。

※3種ある録音も、NAXOS盤 以外はこのテンポに従っているようだ。

そもそも、何故5拍子と7拍子なのか。作曲者の伊福部昭は「吾が国の伝統音楽の律動は2と4等の偶数で出来ていますが、不思議なことに韻文では5と7が基礎となっています。この作品ではこの韻文の持つ奇数律動を主体としました」と述べている。そう聞けば、七五調なら我々に内在するリズムなのだから演奏は容易ではないか・・・・・・と思われるけれど、事はそう単純ではない。声に出してみると分かるが、私達は短歌を詠む時、音を伸ばしたり休みを入れたりしている。七五調も、実は四拍子なのだ※(別宮貞徳『日本語のリズム―四拍子文化論 』)。そもそも、5拍子や7拍子を基本リズムに持つ文化というのは稀なのではないか。大抵は2(もしくは4)拍子か3拍子であろう。

※誤解のないように付け加えておくが、このことは「リトミカ」という作品の価値を損なうものではない。作品の価値を決めるのは、仮説ではなくそこから生じた結果であろう。ここでは、演奏の困難という観点から論じているに過ぎない。

しかし、5拍子や7拍子の曲が存在しないわけではないから、これは本質的な問題ではなかろう。やはり問題なのは、♪=176で変拍子をやらなければならないことだと思う。このテンポ指定の必然性がどうにも分からない。「リトミカ」はピアノを打楽器として扱っているために、ゆっくり弾くと間が持たないということが考えられるけれど、サランツェヴァ(NAXOS盤)の演奏を聴く限りでは、もう少し歌わせても打楽器的な感じは十分に出せると思う。それならば、若干テンポを遅くすることも可能だろう。これは蛇足だが、やはりピアノを打楽器として扱うことを意図したと言われるバルトークやプロコフィエフのピアノ協奏曲もそこまで速いテンポではない。

こうなると、作曲者監修の「伊福部昭の芸術」シリーズでこの作品が録音されなかったことは痛恨である。もし録音が実現していれば、テンポ指定の真意が明かされたかも知れない(キングレコードによれば、録音計画はあったとのこと)。しかし作曲家の意図がどうあれ、テンポも含めた楽譜の意味を読み込んでいくのは結局のところ演奏家の仕事である。意欲的な演奏家による、新たな「リトミカ」像の提示を待つほかない。

大阪旅行記⑳ 「リトミカ」の困難①音色

以下、飯守泰次郎と関西フィルによる「リトミカ・オスティナータ」の感想を記す。

この曲はホルンの上昇音型から始まるのだが、その肝心のホルンの音がどうにも頼りなかった。思うに、これは技術の問題ではなく、曲に対するイメージが不明確であるために生じたことなのではないだろうか。クラシック音楽の演奏は、単に楽譜にある通りに音を出すだけでは不十分で、それらしい音色を出す必要があるのではないかと思う。モーツァルトにはモーツァルトの、ベートーベンにはベートーベンの音色があり、従って伊福部にも伊福部の音色がある。その音色がどんなものであるか、どうすればそれが出るのかということが未だ掴めていなかったのではないか。フルートにもそうした戸惑いを感じた※。ところが、同時に演奏されたシベリウスやショスタコーヴィチではこんなことは感じなかった。彼らの作品は様々な演奏機会があるために、各奏者にそれぞれのシベリウス像やショスタコーヴィチ像が形作られており、指揮者はそれを元にして音作りをすることが出来るのだろうが、邦人作品はそうではない。日本の演奏家にとって日本人の作品が縁遠いものであるという皮肉な現実があるのではないか。

※この点、録音のせいかも知れないが、若杉弘と読売日本交響楽団のCD(現代日本の音楽名盤選(5) )からは「この音だ」という確信が感じられる。また、昨年の「交響譚詩」と「日本狂詩曲」を聴く限りでは、東京フィルも伊福部の音色を掴んでいると思う。

勿論、この音色は固定的なものではなく、それぞれの伊福部像が有り得るだろうし、そうあるべきだと思う。しかし、そうした確信に至っているとも思えなかった。10年前に「リトミカ」を取り上げ、積極的に邦人作品を演奏している関西フィルにしてこうなのだから、日本人作曲家の作品を演奏することの困難は推して知るべきである。

これだけなら「邦人作品の演奏は難しい」で終わるのだが、伊福部の場合は更に特殊な問題があるのかも知れない。事実上のデビュー作である「日本狂詩曲」を、作者自身は結構日本的なつもりで作ったのだが、発表してみると内外から「植民地的」「異国的」との評価を受けて自己認識を改めたという逸話がある(伊福部昭の芸術1 解説参照)。伊福部の音楽は、所謂日本的響きとは些か異なるのだろう。

もう一つの問題は、「リトミカ」のテンポ指定とそこで用いられる変拍子の問題である。これについては項を改めて記すこととしたい。

大阪旅行記⑲ 情熱派・飯守泰次郎

演奏が始まって先ず度肝を抜かれたのは、飯守の指揮ぶり。棒が分かりにくいと聞いてはいたが、そのえたいの知れ無さは想像以上。所謂テクニシャンではないようで、どの曲だったかは忘れたが、素人の私にも分かる振り違えもあった。それでいてコバケン(指揮者の小林研一郎)も真っ青の情熱派なのだからますます困る。これは後の話だが、ショスタコーヴィチの第2楽章を振り終える箇所に至っては、とうとうコケていた。ただ飯守の棒がさすがだと思うのは、えたいが知れずとも意味不明ではない点。慣れれば何を言いたのかがよく伝わってくる表現なのだろうと思わせるところがある。また、彼は情熱的だが頭に血が上っているわけではないので、すぐに冷静さを取り戻す。名指揮者である。ふと、フルトヴェングラーってこんな感じだったのだろうかと思ったが、大袈裟だろうか。

謎の棒を振り回す銀髪の男の前で、充実した音を出している関西フィルを見ながら色々と考えた。これならお目当ての「ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ」も良い演奏になるのではないかと思う反面、「リトミカ」は何しろ5拍子と7拍子が入り乱れる難曲である。如何にしても明確な指示が無ければ合奏が乱れるのは必至だが、となると飯守はこの曲に向いていないかも知れない。期待と不安が交錯する。

1曲目が終了して、ピアノと譜面台が運び込まれる。「リトミカ」は決して小さな編成の曲ではないが、それにしては妙に楽譜が小さかったのを覚えている。

それからいよいよ期待の2曲目が始まったが、結論から言うと、残念ながら不安の方が的中してしまったように思う。ピアノと弦が合わない。弦と管が合わない。おまけに弦と弦も合わない。現代のオーケストラがこれほど崩壊するところを目撃できたのは或る意味で貴重なことかも知れないが、まあそれは悪い冗談というものだろう。ただ、演奏がうまくいかなかったことがかえって「リトミカ」という曲を考えるヒントになったようにも思う。それについては項を改めて書くことにしたい。

大阪旅行記⑱ 飯守泰次郎と関西フィル

18:40から、指揮者の飯守泰次郎と楽団事務職員によるプレトークが行われた。残念ながら、二人とも声が小さくて何を話しているのかよく分からなかった。しかし、大道芸にも容赦なくツッコミを入れるらしい大阪の聴衆は、それほど不満そうな顔を見せることもなく大人しくしていたように思う。飯守が関西フィルの常任指揮者に就任して既に6年が経つ。これも一つのキャラクターとして受け容れられているのかも知れない。

話はともかく、感心したのは飯守の手の動き。何と言うか、一々動きが説得的なのである(心做しか、「打点」も明確だったような気がする)。「目は口ほどにものを言う」というけれど、指揮者の場合は「目と手は口よりもものを言う」とすべきかも知れない。空を漂う飯守の手を見て、今日の演奏会への期待をますます高める。

プレトークが終わって会場を見渡すと、何故か最前列が全て空席であるが※、それ以外は満席に近い入りとなっていた。メイン・プログラムであるショスタコーヴィチの第五交響曲は人気の高い演目であるから当然とも言えるが、邦人作品の演奏会としてみればこれはかなり大したことである。昨年だけ取ってみても、関西フィルは「アジアと20世紀」と題して現代作品及び邦人作品(諸井三郎、大澤寿人)をさかんに取り上げているが、こうした試みが実を結びつつあるのではないか。これはなかなか大変なことで、例えば東京フィルも「音楽の未来遺産」と題した企画を行っているが、昨年の3月に開かれた演奏会では、前半の邦人作品(伊藤昇、橋本国彦、松平頼則、近衞秀麿)が終了した所でぞろぞろと聴衆が入ってくる始末。続く10月の演奏会では邦人作品が最初と最後に据えられたが(伊福部昭、近衞秀麿)、今度は入りが悪かった。これに懲りたのか、「音楽の未来遺産」シリーズは中止されてしまったようである。しかし、早くから周知を図る等すれば(「音楽の未来遺産」は他の演奏会に比して告知が遅い)集客力のある企画になる可能性もある。是非再開して欲しいと思う。

※2人ほど最前列に座った人がいたが、1人は係員に促されたのか他の席に移り、もう1人のところにもやはり係員が来たが、その人はそのまま座っていたと思う。不可解な光景であった。

次回、いよいよ演奏が始まる。1曲目はシベリウスの交響詩「フィンランディア」。続いて伊福部昭「ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ」である。

大阪旅行記⑰ うどんと「ザ・シンフォニーホール」

お腹が空くと集中できないので、演奏会の前には何か軽く食べることにしている。そこで、朝食べ損ねたうどんを大阪駅のホームで食べることにした。きつねうどんを注文したのだが、揚げが美味しかった。大阪で「きつね」と言ったら刻んだ物が出てくるものと思いこんでいたが、メニューには別に「きざみ」というのがあった。うどんは、讃岐うどんと違って柔らかい。出汁が売り物なので、それがよく染み込む麺の方が良いということらしい。麺はコシさえあればいいという考え方はどうかと思うが、それでも私は讃岐うどんに傾いてしまうかな。しかし機会があれば、もっと出汁を味わいながら食べてみようと思う。

臨戦態勢も整い、再び環状線に乗り隣の福島駅へ。そこから北へ10分ほど歩いた所に、ザ・シンフォニーホール※はある。大通りから少し左に入ったところにあるので、初めての人にはちょっと分かりづらいかも知れない。着いた時には、既に開場時間を回っていた。いつもなら開場と同時に入場してパンフレットでも読みながらゆっくりするのだけれど(演奏前のひと時はウキウキして何とも言えない)、この日は少し遅れてしまった。強行軍であちこち回っての結果だから、仕方ない。

※1982年、日本初のクラシック音楽専用コンサートホールとして建設された。

入場してクロークに進み、鞄を預かってもらう。普段なら、荷物は預けない。終演後の混雑に巻き込まれたくないし、アレルギー体質の私は、演奏直前に目薬や点鼻薬を使わないと落ち着かないので、薬の入った鞄を手放したくないのである。しかし、席に持ち込むには鞄は大きい。こういう時は女性のハンドバッグが羨ましくなる。この日は、上着に薬を忍ばせることにした。

私の席は舞台右のRDという席だったのだが、ここからは最後部座席も割合近く見えた。これならどの席でも比較的満足して聴くことが出来るのではなかろうか。実際、座席数は1704であり、2303席の東京文化会館、2006席のサントリーホールよりも小さめである。

この日は指揮者によるプレトークがあった。次回はその話を。

大阪旅行記⑯ 長岡天神と小畑川

阪急梅田から長岡天神までは30分ほど。主目的は小畑川での記念撮影なのだが、長岡天満宮を先に回る。春にはツツジの花見客で賑わうというが、この時期は未だ閑散としていた。しかし花が名物の神社だけあって、境内はよく手入れが行き届いていて気持ちが良い。咲いているのは早咲きの梅※くらいであったが、これも鮮烈で美しかった。尊師は、木を見てまた色々と指摘している。内容が何時にも増して具体的なので感心していたら、いつの間にか盆栽を始めていたらしい。

※偶然だが、今日は菅原道真の命日(903)であり、京都の北野天満宮では梅花祭が行われる。

参拝の前に、手水舎で手を洗う。洗いながら、これは本州で生まれた習慣だな※、と考えた。幼い頃の私は、初詣の時に手水舎で手を洗わなければならないのが嫌だった。1月の北海道で手に水をかけるなど、正気の沙汰ではない。手袋をはずすのも嫌なのに。どうしてこんなことをしなければならないのかと、毎年憤慨していた。京都の冬も寒いけれど、これくらいなら我慢も出来よう。

※同様に、「二年参り」も本州の習慣である。友人と、北海道で一度試したことがあるが、余りの寒さに後悔するばかりであった。

お賽銭を入れて、柏手を拍つ。隣を見ると尊師が深々と頭を下げている。私はどうも気恥ずかしいような気がして、神前できちんと頭を下げることが出来ない。しかし、どうせやるならちゃんとした方が良いのは分かっている。次からそうしよう。

社務所でお土産(尊師推薦の竹製の栞。周辺で竹が良く取れるらしい)を買い、急ぎ足で小畑川へ向かう。途中に尊師の勤める会社があり、同僚の方と何度かすれ違った。この日はたまたま定時で退社しなければならない日だったらしいのだが、つまりもうそんな時間だったのである。演奏会まではあと1時間半ばかり。そうまでして小畑川まで行った理由は、下らなさすぎるのでここには書かない。分かる人には分かるでしょう(どうしてもお知りになりたい方には、メッセージを下さればお答え致します)。

無事記念撮影を終え、JRで大阪へとんぼ返り。次回、いよいよザ・シンフォニーホールへ向かいます。

大阪旅行記⑮ 阪急電車

新世界から梅田に戻り、そこから阪急電車に乗る。この辺りで気がついたのだが、大阪では私鉄を「~線」と呼ばない。阪急電車、南海電車といった具合である。国鉄と違い、関西私鉄が開業当初から電化していたためであろうか。関西には「私鉄文化」というものが存在する。関東でも私鉄沿線の違いというのはあるけれど、自負心は関西の方が強いのではないか。例えば東急や小田急沿線の住民にも色々思いはあろうが、阪急住民の「阪神なんかと一緒にせんといて!」という感情ほど強くはなかろう。その阪急が阪神を子会社化したのだから、全く諸行無常である。

JRの大阪駅と阪急梅田駅は、隣接しているのに回廊もなく地下道もないため、乗り換えるには一度外に出なければならない。政治学者きっての鉄道マニア原武史はこれを「阪急クロス問題※」の遺恨によるものと見ているが(『「民都」大阪対「帝都」東京 』)、やはりそうなのだろうか。

※1931年から33年にかけて、阪急と鉄道省が梅田・大阪駅の高架化をめぐって争った。

初めて見る阪急電車は、えんじと言うか小豆色。例え車両が新しくとも古さを感じさせる不思議な色である。関西ではこの色のことを「阪急色」と言うこともあるらしい。さすがは私鉄文化圏。ちょっとこれは他に例が無いのではなかろうか。

一行は一旦大阪を離れて長岡天神へと向かう。茨木、高槻と、朝JRで来たルートを阪急電車で戻っていく恰好になる。続く。


「民都」大阪対「帝都」東京―思想としての関西私鉄/原 武史
「30年代まで人口、面積、経済全てに『帝都』を圧した『民衆の都』」大阪を、「『国鉄』と関西私鉄との葛藤を通し」て描く。当時大阪の方が進んでいたというのは、例えば一木喜徳郎(宮相として1929年の大阪行幸に同行)の「私は地方官をしたことがなかつたので大阪と別に縁故はないが、都市計画の完備してゐるのは全く気持よく、大阪の人が東京へ行つたらむしろ田舎へ行つた様な気がするであらう」(本書157p.)という発言にも現れている。

大阪旅行記⑭ 串カツとどて焼き

通天閣南側の商店街を、雰囲気の良さそうな店を探してふらつく。通天閣も含め、新世界※は街並みが少し古い。戦後、繁華街の中心が梅田やミナミに移ってしまったためらしいが、現在ではそのレトロな雰囲気がかえって魅力となっているようだ。

※新世界は、1903年に開かれた内国勧業博覧会々場跡地に、1910年頃から形成されていったらしい。なお、初代通天閣の開業は1912年。

特に目立った店はなかったので、一回りしたところで「まあいいか」という感じで或るお店に入った。そんなことだから、お店の名前も覚えていない。ただ、店の前に、場所に似つかわしくない寂しげな女の子が立っていたのを覚えている。表情はどこか寂しげだったが、髪の色は派手だったように思う。

時間が時間だったので(15時頃)、広い店内に客は私達二人だけ。早速、お目当ての串カツとどて焼きを注文する。まだ早いのでお酒は我慢。私なら飲んでしまうところだが、尊師に合わせた。お通しにキャベツが出てきたので、これをムシャムシャやりながら料理が出てくるのを待つ。

先ず、どて焼きが出てきた。もつ煮込みに似ているが、煮込みより肉がプリプリしている(どて焼きは牛スジしか使わない)。味つけも甘め。この後出てきた串カツのソースもやはり甘めなので、付け合わせにキャベツというのは正解だろう。尊師は「焼酎が欲しくなるねえ」なんて言っている。それでも我慢するのはえらい。

次に串カツが出てきた。串カツと東京の「串揚げ」は、恐らくちょっと違う。串揚げの方がパン粉が粗く、トンカツの延長線上にある食べ物に思える。それに合わせて、ソースもトンカツソースのようなどろっとしたものが出てくることが多いのではないか。これに対し、串カツのソースはウスターソースのようなさらっとしたものが出てくる。両者の違いは、呼び名だけではないように思う。

ここでゆっくり一杯やりたいところだが、この後に未だ重要な目的地が一つ残っていたので、我々は決然と席を立って店を出た。次回、大阪を出て小畑川へ向かいます。


あぶさん (1)/水島 新司
現在も連載が続く長寿野球漫画。主人公のあぶさんが足繁く通う大衆酒場「大虎」からは通天閣が見える。見え方などからすると、「大虎」はミナミにあるらしい。ミナミや新世界は、南海電車と縁が深い。

大阪旅行記⑬ 通天閣から

さて、通天閣からは何が見えたか。大雑把に言って、東側に緑地(天王寺公園)がある以外は全てビル街の景色である。その天王寺公園の中に手前から真っ直ぐ伸びる遊歩道があり、その先にいかにもという感じで美術館が立っている。周りにはところどころフェンスが見うけられるが、これは動物園。

美術館から目を左に移していくと、四天王寺が見える。尊師が指をさして、その脇に関西特許情報センターがあると教えてくれた。特許関係の調べものをする時の最終手段がここらしい。社内ではどうにも調べがつかなくなった時、「四天王寺行くか」ということになるそうな。尊師は実務法律家なのです。そう言えば、通天閣のパンフレットをもらった時も彼は本領を発揮していた。最上階へのエレベーター手前で渡されるパンフレットには、「世界最大の摩天楼」と「」だけ色を変えて書いてある。勿論大阪らしい洒落なのだろうが、これを見てすかさず「これでも誤認惹起になり得るよ」とつっこむ尊師。まったく全身法律家である。

東側以外で一番印象的だったのは、マンションらしき建物の屋上にある「ビジタル」という謎の看板。最初に「ビジタル増澤」という大きな文字が目に入った。何じゃそりゃ?と思っていたら、他にもあるわあるわ。ビジタル浪速、ビジタル恵比須・・・・・・と次から次へと出てくる。それだけではない。観察を続けていると、「ビジタル浪速12」のように数字を付けたものが更に増殖していった。もうええわい。12って多すぎるだろ。それはともかく、ビジタルというのは恐らく visital のつもりなんだろうけど、そんな単語はない。あれは一体何だったのだろう。

ビリケンさんにもお詣りした。足の裏を掻くと願い事が叶うことになっているらしく、恐らく一日に何百回と掻かれるのであろうビリケンさんの足の裏はすごいことになっていた。如何にひどい水虫でもああはなるまい。ちょっと可哀相である。

通天閣で見たものはこんなところ。通天閣を下りた我々は、新世界名物の串カツとどて焼きを食べに出ました。続く。

大阪旅行記⑫ 通天閣まで

地下鉄でなんばから新世界へ。お目当ては通天閣と串カツ(+どて焼き)である。

通天閣というのは名前がいい。バベルの塔を意訳するとこんなところか。それに比べると東京タワー※1なんてのは実に野暮ですね。芸がない。しかし形状はなかなか奇抜なものである。初代通天閣のコンセプトは「凱旋門の上にエッフェル塔※2を乗せる」というものだったらしい。何も乗せなくても・・・・・・と思うけれど、これも大阪らしさなのだろうか。

※1 東京タワーと現在の二代目通天閣は設計者が同じ。「塔博士」と言われた内藤多仲(1886-1970)である。
※2 通天閣のある新世界自体、パリとニューヨーク(のコニーアイランド)を模して開発が進められた地域である。

通天閣の袂に着くと、まずは円形エレベーターで凱旋門部分まで上がる。これが世界初の円形エレベーターらしい。しかし、そのすごさを味わう間もなく2階に到着してしまう。そこから最上階までは有料。切符を買って別のエレベーターに並ぶ。

最上階へのエレベーターは、ドアが閉まると電気が消えて天井にビリケンさんが浮かび上がるようになっている。このアメリカ生まれ(1908)の神様は怪しげな人相のキューピーちゃんといった風貌で、どこが可愛らしいのか私にはサッパリ分からないが、昔から人気者だったようだ。新世界にビリケンがやってきたのは1912年のことだが、1916年から18年まで首相を務めた寺内正毅 が早くも「ビリケン」という渾名を頂戴している。確かに似ている。

展望台へ向かうエレベーターというのはどこもそうだろうけれど、ご多分に洩れず通天閣でも、てっぺんに着くまで何やらご案内を流している。その中に「4階には喫茶室がございます。ご商談などに是非ご利用下さい」というのがあった。「こんな所で商談はないだろう」とニヤニヤする尊師と私。しかし後になって、「これがホントの頂上会談」というのを思いついた。どうしてその時に思いつかなかったのか。痛恨である。

オチがついたところで項を改めましょう。次回は通天閣から見えたものについて。