チェルノブイリ近くのキエフ、350万人疎開を極秘検討


86年4月26日に起きた旧ソ連のチェルノブイリ原発事故で、上空に吹き上がった放射性物質の直撃を逃れるため、最も近い大都市、キエフ市(現ウクライナ)の全住民約350万人を疎開させる計画が、ソ連指導部内で直後に検討されていたことが分かった。風向きのおかげで回避されたが、もし大量の避難民が出れば、疎開先のあてはなかった。これらの事実は当時、市民には知らされずじまいだった。


地球気象・エコロジー研究所(モスクワ)のユーリー・イズラエリ所長(75)が明らかにした。イズラエリ博士は当時、旧ソ連の国家気象環境監視委員会議長で、事故から11日後の5月7日、キエフ市で極秘に開かれたウクライナ共和国共産党の対策会議に出席。疎開を検討する党幹部らに汚染状況と被害予測を説明した。


事故の大爆発でプルトニウムやセシウム、ストロンチウム、ヨウ素など強い放射性物質の放出が続いていた。キエフ市は事故現場から南へ約130キロの距離。博士によると、爆発時には東から西への風が吹き、その後、風は北へ、さらに北東への流れに変わった。キエフ市では4月30日に初めて放射能を検出したが、年間の放射線量は許容値の20分の1程度にとどまると推定された。11時間に及ぶ議論の末、住民の健康に影響ないとして、疎開しないことを決めたという。


もし全市民の疎開となれば、住宅確保や医療支援、社会主義下とはいえ雇用問題など未曽有の規模で支援が必要になったとみられる。
この会議の内容は、当時の一般市民には知らされなかった。イズラエリ博士は「単に風向きがそれたというだけ。運がよかった。疎開先の見通しはなく、もし強制避難だったら、どうなっていたことか」と振り返る。


疎開は、事故直後に原発の半径30キロ圏内の住民約11万6000人がまず強制避難させられ、その後、チェルノブイリの北西約100キロ圏内の高濃度汚染地域を中心に避難が続き、疎開したのは最終的に計40万人だった。

(朝日新聞 2006/03/19)



【関連記事】

暴かれたチェルノブイリ秘密議事録

・・こうした宣言の謎を解く鍵が、作業グループの文書に秘められている。数千もの放射線被災者が、いかに奇跡的に、突然に健康を回復したか見てみよう。


<<機密。議事録その9、1986年5月8日。(...)ソ連保健省は、放射線による住民の許容被曝基準を、従来の10倍にするという新基準を決定した(添付書類)。特別な場合には、この基準は、従来の50倍まで引き上げることが可能である。>>(!:著者)。


議事録はさらに加えて、

<<...かくして、現状の放射線の状況においても、今後2.5年間にわたり、すべての年齢の住民の健康は保証される。>>


医療衛生に関する国家水文気象委員会の結論の秘密資料には、ソ連保健省第1次官のシシェーピンと国家水文気象委員会第1次官のセドゥーノフとが署名している。こうして、治療や薬もなしに、数千もの同胞が、1986年5月8日、一挙に治癒したのであった。


薬、医療器具、ベッドの不足という現在の困難を考えるなら、以下のような指令を出したら如何なものか。本年5月1日以降、体温の正常値は36.6度ではなく、たとえば38度、「特別な場合」には39度である、と。


「基準を、35年間に7レムへと下げるとしたなら、移住を想定する住民数は、現在の16万6000人から、約10倍にも増やさねばなりません。150万人以上の人々の移住であります...。社会としては、そのような行動がもたらす、すべての危険度とすべての利益を秤にかけねばなりません


http://blog.goo.ne.jp/jpnx02/e/99b05d4c53832e62f94878e0a1432d2d




【今日の一言投稿】 Yahoo!みぽりんのブログ 「ひとこと」より