【昔から事故だらけの原発 1976年~の事故】
「ウラルの核惨事」起こしたソ連工場 40年前にも核惨事
住民10万人が移住 規模は史上3位
ソ連で1957年に「ウラルの核惨事」を起こした核兵器用プルトニウム生産工場で、49年から約2年間にわたって周辺住民が大量の放射能汚染を受け、約10万人が移住させられる事故があったことが分かり、住民の健康への影響などを詳しく知るため、原子力安全研究協会(田島英三理事長)などがソ連の研究者を招いて、24日から東京で専門家会合を開く。
ソ連側のこれまでの話では、放射能を含んだ廃液を川にたれ流し続けたもので、住民には白血病が多発、事故の大きさはチェルノブイリ原発事故、ウラルの核惨事に次いで、原子力開発史上3番目になるという。
来日するのは、ソ連生物物理研究所チェリャビンスク支所のミーラ・コセンコ臨床部長ら6人。コセンコ博士は昨年6月、チェルノブイリ事故などの影響などを中心に東京で開かれた「放射線影響研究に関する日ソセミナー」に出席。「これまで秘密にされていた話だが」と前置きして、この事故について初めて明らかにした。
それによると、チェリャビンスクの北約100キロにあるキシュチュム核兵器工場は、49年から操業を開始。原子炉で燃やしたウランからプルトニウムを取り出す再処理施設から出る廃液を十分に処理しないまま、オビ川の支流で近くを流れるテチャ川に51年末まで流していた。
廃液の中には放射性のストロンチウム、セシウムなどが含まれており、放出された放射能は約300万キュリーと、チェルノブイリ事故で放出された約5000万キュリー(希ガスを含まず)の約20分の1にのぼった。この放射能の影響は200キロ以上の流域に及び、飲み水やかんがい用水として川の水を使っていた住民計10万3000人が避難のため、他の地域に移住させられた、という。
コセンコ博士らは、被ばくした住民のうち2万8000人について事故後の追跡調査を実施している。事故によって浴びた放射線の平均は0.4シーベルトで、日本の放射線従事者の被ばく限度0.05シーベルトの8倍。すでに白血病の患者が37人出ており、他の地域の白血病発生率に比べると約2倍。
しかし、この数字は広島、長崎の被爆者の白血病発生率に比べると3分の1から4分の1程度と低い。コセンコ博士らを招く原子力安全研究協会と、日本原子力産業会議では、「長期間にわたって放射線を浴びる場合には、一度に大量に浴びる場合に比べると危険が低いのかもしれない」と、ソ連側のデータに注目している。30日まで開かれる専門家会合では、浴びた放射線量をどのように推定したのかなどについて、突っ込んだ話を聞きたいとしている。
<ウラルの核惨事> 1957年9月にキシュチュム核兵器工場で、再処理施設の廃液を貯蔵するタンクが、冷却装置の故障から、過熱して化学爆発を起こし、大量の放射能が放出された。汚染範囲は長さ約300キロ、幅約50キロに及び、住民1万人が緊急避難した。英国に亡命したソ連の反体制科学者、J・メドベージェフ氏が70年代に著書などで初めて事故の存在を明らかにし、ソ連当局も89年6月、32年ぶりに事故を公表した。
(朝日新聞 1991/01/23)