★第383話:広島県と岡山県(6) 広島県の県民性と有名人 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

瀬戸内海気質!?

 池澤夏樹「うつくしい列島」(2015年、河出書房新社、写真)に「瀬戸内海」(副題:古代日本の高速道路)という章があり、次のように書かれている。


 
「日本列島の地理の幸運の一つに瀬戸内海がある。
 この細く長い、穏やかで安全な海は、そのまま天然の交通路であった。いわば
古代日本の高速道路。この海がなかったなら、朝鮮半島から北九州に入った文化が東へ伝播するにはずっと長い時間がかかっただろうし、列島はずいぶん勝手が悪くなっていただろう。

 早い話が、邪馬台国の所在について畿内説北九州説に一歩もひけをとらないのは、畿内が地理的条件において決して不利ではなかったからで、それはすべて瀬戸内海のおかげなのだ。(中略)


 この地形と気候はこのあたりの人たちの気風をずいぶん
開明なものにしたのではないだろうか。

 (注:山口県周防大島出身の民俗学者)宮本常一が(注:多分著書の「忘れられた日本人」で)書いてある通り、人々は気楽に島を離れて旅に出た。若い娘たちが二人三人と連れだって一年ほどの住み込み奉公に行く。若いときに旅をしておかないと老いてから話の種がないと言って、男たちも郷里を離れて世間を見て回る。実際、それを誘うような海であり島であった。」

 瀬戸内海島の出身者で、有名人にはこんな人たちがいる。(図参照)

・広島県:東ちづるポルノグラフィティ新藤晴一岡野昭仁(因島)、平山郁夫(瀬戸田)、池田敬子(佐木島)、城みちる島谷ひとみ(倉橋島)、栗原恵(能美島)

・岡山県:千鳥大悟(北木島)

・香川県:壷井栄(小豆島)

・山口県:星野哲郎宮本常一(周防大島)

淡路島は有名人が多すぎて割愛しました。悪しからず汗うさぎ

 

移民の県・広島県

 日本人の海外移住は、1866年に海外渡航禁止令(鎖国令)が解かれてから、150年の歴史だが、日本人の移住先の多くは2つに分かれる。 
 ひとつは欧米支配の
アメリカ大陸、もうひとつは日本が勢力圏とするアジアである。日本人の海外移住の歴史は「排日の歴史」とも言われ、日本人は排斥を受ける度にその移住先を変えていった。戦前の主な移住先は、ハワイから北米、南米、満州へと変わった。戦後の移住先は南米だけである。

ブラジル

 最初の日本からの正式移民は、今から100年以上前の1908年(明治41年)781名が笠戸丸(写真左)に乗船、神戸港を出航したのが4月28日、1万2千マイルの航海は50余日に及び、サントス港(写真右)に到着したのは6月18日だった。そして、サンパウロ州のコーヒー農園に入植した。


 サンバの国ブラジルは、世界最大の日系人居住地であり、過去百年間で約26万人の日本人がブラジルに移住し、今は約200万人の日系人が住んでるといわれている。その多くは広島県出身者だ。

ハワイ 

 先月、山火事の大惨事(写真右)に遭遇したマウイ島のあるハワイ(日本語で「布哇」)(写真左)だが、ハワイ島(愛称:ビックアイランド)、マウイ島(同:バレーの島)、オアフ島(同:集まるところ)、カウアイ島(同:庭園の島)、モロカイ島(同:友好の島)、ラナイ島(同:パイナップルの島)、ニイハウ島(同:禁断の島)、カホオラウェ島(同:目標の島)の8つの島と100以上の小島からなるハワイ諸島を指すが、アメリカ合衆国の50州の最後に加盟したハワイ州のことでもある。全人口は130万人。州都ホノルルのあるオアフ島(95万人)に人口が集中している。

 広島とハワイの交流は1868年(明治元年)4月、153人が移住のためにハワイへ渡航したことに始まる。その17年後の1885年(明治18年)に、政府間協定による官約移民で、移住が本格的になり、10年間で2万9千人が日本からハワイに渡ったか、その40%近い1万1千人が広島県出身者で、全国第1位の移民送出県となった。(画像はハワイでの日本人の耕作風景、1885年)(広島市デジタル移民博物館参照)

 特にハワイ島では、広島をルーツに持つ人が圧倒的に多く、広島弁が標準的な日本語となっているそうだ。

小林克也&ザ・ナンバーワン・バンド/うわさのカム・トゥ・ハワイ(1982年)

 広島県の県民性はというと、進取の気性に富んでいると言われていて、前述の通り「移民の県」と呼ばれるほど県外に出た人が多い。ファッションデザイナーの三宅一生(2022年、84歳で没、写真左)や、「東洋の真珠」と呼ばれたバレリーナ、森山洋子(現在74歳、写真右)(いずれも広島市出身)など、日本を飛び出し、海外で活躍する人が多いのが広島県民の特徴だ。

移民が多い理由

 しかし移民が多い理由は、性格のせいばかりではない。72%が山地と言われ、海と山で囲まれ農耕地が極端に狭いという地形の問題(図)がある。

 そして、江戸時代には子どもの食い扶持を減すため、赤ん坊が生まれたらすぐに殺してしまう「間引き」という風習があったが、広島県は浄土真宗の信者が多く、この「間引き」をしなかった。それで人口過剰となり、移民をせざるを得なかったようだ。事実、江戸時代・1721年から、150年後の明治時代・1872年のの人口を比べてみると、日本全体では27%の増加率だが、広島県・安芸の国では84%と、3倍以上の増加率を示している。
 

広島はすごい

なぜ、広島には著名なミュージシャンが多いのか

 少し古いが、2014年、日刊ゲンダイ

の2月14日号に、「なぜ、広島には著名なミュージシャンが多いのか」という記事が載っていた。矢沢永吉、浜田省吾、西城英樹、世良公則、吉川晃司、奥田民生、奥居香、デーモン閣下、もんたよしのり、原田慎二、高橋真梨子、村下孝蔵、ポルノグラフィティ…。吉田拓郎も広島育ち。県民性に詳しい「ナンバーワン戦略研究所」代表の矢野新一は次の様に分析している。 
 「かつてハワイに移住した日本人移民には広島県出身者が多かった。つまり野心家が多いんです。広島県民は自信過剰でお調子者、新し物好きで見栄っ張り、負けず嫌いともいわれています。酒好き、遊び好きでもある。元々芸能人向きで、才能と条件が上手く重なればスターになれる県民性とも言えるでしょう。アナウンサーにも広島出身者が多いんです」とある。

 そのアナウンサーには、こんなにたくさんの有名な広島県人がいる。なお、(現)は現役でアナウンサーを続けている人だ。

広島は凄い

 もう一つの記事。現在は編集委員で、当時は日経新聞広島支局長だった安西功(写真左)の書いた「広島はすごい」(2016年、新潮新書、写真右)は、広島県人の気質を『「群れない、媚(こ)びない、靡(なび)かない」。この広島人気質こそ、日本の宝だ!』とまで礼賛している。実は手前味噌ながら、これは正に広島県人たる自分の性格だと誇りに思っている。他人から見ると違うと言われるかもしれないが、少なくともこれを目指していることに違いはない。ニヤリ

 そして、彼の指摘を踏まえると、「ああ、あの人も広島人だったのか」と納得できる人が多い。
吉田拓郎、奥田民生、矢沢永吉、吉川晃司そして浜田省吾

 ミュージシャンなら、吉田拓郎(現在77歳)、奥田民生(現在58歳)、矢沢永吉(現在73歳)(いずれも広島市出身)、吉川晃司(現在58歳、安芸郡府中町出身)などは、まさに「群れない、媚びない、靡かない」イメージだ。そして、ここでは紹介されていない浜田省吾(現在70歳、竹原市生まれ、呉市育ち)もそうだ。そして、彼らはみんな郷土愛が強い。

吉田拓郎

吉田拓郎/いつも見てきたヒロシマ(1980年)

 「小説・吉田拓郎 いつも見ていた広島」田家秀樹著、2009年、小学館文庫、写真)に、こんな説明がある。

「1960年代後半、大学に進学した「吉田拓郎」は仲間とともにバンド活動に打ち込んでいた。しかし「ヒロシマ」という土地には、まだまだ戦争の香りが色濃く残っており、数少ない理解者の協力でライブを開くのが精一杯だった。仲間と共に上京するが、彼らの音楽はなかなか理解されることはなかった。拓郎は仲間たちと離れてさまざまな音楽を模索、何度目かのコンテストでやっと注目され、「よしだたくろう」の名が「和製ボブ・ディラン」としてマスコミに取り上げられる。」

<歌詞>ブルー音符八月の光がオレを照らし コンクリートジャングル 焼けつく暑さが オレの心をいらつかせる 癒せない 満たせない 慰めもない 深い祈りと 深い悲しみ 渇いた心をかかえて オレは何処へ行こう 君は何処へ行く

 時は押し流す 幾千の悲しみを 時は苦しめる 幾千の思い出を 焼けつきた都市から確かな愛が聞こえる 子供らにオレ達が与えるものはあるか

 安らかに笑う家はいつまであるか いつもいつも 遠くから遠くから 見ていたヒロシマ

 八月の神がオレを見つめ コンクリートジャングル 逆らう日々が オレの心を苛立たせる 笑えない 落ち着けない 安らぎもない 歌う敵と 歌う真実 見えない心を抱いて

 オレは何処へ行こう 君は何処へ行く 時は忘れ去る 幾千のごまかしを 時は汚してる 幾千のやさしさを 焼けつきた都市から確かな愛が聞こえる

 子供らにオレ達が与えるものはあるか 安らかに笑う家はいつまであるか いつもいつも 遠くから遠くから 見ていたヒロシマブルー音符

浜田省吾

浜田省吾/MONEY(1984年)

 「MONEY」の歌詞で「ブルー音符この町のメインストリート、わずか数百メートル、さびれた映画館と、バーが5、6軒…ブルー音符」のこの町とは、本当はどこを指しているのだろうか。

 浜田省吾(写真)は1952年に広島県竹原市に生まれる。父が公務員で転勤のため、3歳から御調郡向島町岩子島(現尾道市)、佐伯郡廿日市町宮内(現廿日市市)、五日市町(現広島市佐伯区)、広島市元宇品(現南区元宇品)と広島県内で転校を繰り返す。18歳までに20回近く引っ越しをした。1965年、13歳の時に呉市汐見町に転居、呉市立二河中学に転校、その後県立呉三津田高校を出ている。このうちの何処かだろうが…。

Perfume


 「3人組アイドルながら音楽はテクノ」という独自の地位を築き、NHK紅白歌合戦も2008年から昨年末まで連続15回も出場して押しも押されぬビック・スターの
Perfume。2003年、中学生のとき上京してもう20年経つ。西脇綾香(あ〜ちゃん、広島市出身)、大本彩乃(のっち、福山市出身)、樫野有香(かしゆか、広島市出身)3人とも34歳になった。

 彼女たちはみんな広島県の出身だが、そのことを隠さない。イメージを覆す広島弁でのトークが売りである。(動画)格好いい曲を歌い終わった直後に、バリバリの広島弁で話し始めるところが特徴の一つで、東京での活動歴が長くなった今でも、メンバー間ではそれが共通語であり、ライブMCや各種番組出演でもしばしば広島弁が出てくる。微笑ましい限りだ。

 Perfumeという名前の由来は、結成時(デビュー前)のメンバー(西脇綾香・樫野有香・河島佑香)全員の名前に「香」の文字が入っていたことによる。しかし、まもなく河島佑香がグループを脱退し、大本彩乃が加入したため、グループ名の由来を「香りは人の気持ちを和ませたり、楽しい気持ちにさせたりできるので、私たちもそういう存在になりたいという気持ちを込めて、英語で香水を意味するPerfumeというグループ名にした、という。

 9月21日 - 11月18日、ファンクラブ会員を対象としたツアー「P.T.A.15th&10th Anniversary “Perfumeとあなた”ホールトゥワー2023」が9月から11月にかけて全国10都市で開催されることが決定した。9月21日に開催される北海道・カナモトホール公演を皮切りに、愛知、大阪、広島、東京、神奈川、宮城、福岡、兵庫、沖縄の全10カ所を巡る。

Perfume/Moon(2023年)

綾瀬はるか

 今や大河女優で、2019年、第70回NHK紅白歌合戦で、4年ぶり3回目の紅組司会を務めるにもかかわらず、実家の農家で農作業するのが大好きと公言している綾瀬はるか(広島市出身、現在38歳、写真左)からも、広島人っぽさが伝わってくる。

 2011年の東日本大震災とそれに続く福島第一原子力発電所事故を受けて制作された2013年のNHK大河ドラマ『八重の桜』で主人公となる会津藩出身の新島(山本)八重(写真右)を演じて以来、福島県を中心とした被災地の支援活動を継続している。


 2005年、TBSテレビの戦後60周年特別企画「ヒロシマ」で故・筑紫哲也とともにナビゲーターを務める。綾瀬の祖母の姉(大伯母)は、1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下で亡くなった。2005年、戦後60周年特別企画のドキュメンタリー「ヒロシマ」(TBS)で広島の実家を訪れた綾瀬は、それまで決して原爆のことを語らなかった祖母から、初めて話を聞いた。

 それが2冊の本になっていることを知り、本日図書館で借りたところだ。(写真)

 2010年より「NEWS23 クロス」のシリーズ「綾瀬はるか『戦争を聞く』に出演、広島、長崎の被爆者や沖縄戦の関係者の元を訪れている。 

柳田悠岐
 スポーツ界では、ちょっと最盛期の勢いから遠ざかっているが、常時フルスイングで、経歴首位打者:2回(2015年、2018年)、最高出塁率:4回(2015年 - 2018年)4年連続はパ・リーグ最長タイ記録(他は張本勲)最多安打:1回(2020年)、2015年度、2020年度パ・リーグMVP。NPB史上初のトリプルスリーと首位打者の同時達成者。2015年度ユーキャン新語・流行語大賞年間大賞受賞者(「トリプルスリー」山田哲人と共に)。NPBにおける連続試合四球記録保持者のソフトバンクの主砲、
柳田悠岐(広島市出身、現在34歳、写真)あたりが代表だろう。


原晋 

 陸上界の練習の常識を打ち破って、第91回東京箱根間往復大学駅伝競走(2015年1月2日・3日)に、青山学院大学として史上初の往復路・総合優勝を果たして以降、最近は講演会講師の活動と、数多くのマスメディア出演(バラエティ・ワイドショー・トーク・報道・情報・特別番組・コマーシャル・テレビドラマ)等を中心に行っている青山学院大学陸上競技部監督・原晋(はらすすむ、三原市出身、現在56歳、写真)にも、広島人気質が濃厚に感じられる。

有𠮷弘行
 もうひとり、広島人気質を濃厚に発している著名人がいる。ツイッターのフォロワー数日本一、いま最も売れている芸人の
有吉弘行(安芸郡熊野町出身、現在49歳、写真)である。

 有吉語録「上昇志向とか一切捨てた方がいい」「頑張ろうとか一切無駄です」「地方の田舎のお山の大将でいい」にも広島人らしい精神が濃厚に感じられる。有吉が、同じ熊野町出身の森脇和成と結成した「猿岩石」は、1996年に日本テレビ「進め! 電波少年」が企画したロンドンまでのヒッチハイクの旅で全国的な人気者となった。CDデビューまで果たしたが、ほどなくして人気は白い雲のように消え、コンビは2004年に解散となった。ピーク時2000万円だった月収は、歩合制のためゼロになることもあるほど落ち込んだ。貯金を切り崩して糊口をしのぐ日々。有吉は当時のことを、「仕事もないし金もないから、ほとんど外に出ないで家に閉じこもっている引きこもりみたいな生活をしてた」と語っている(著書『お前なんかもう死んでいる』双葉文庫)。著書を読むと、この時期には、オネエ芸人としての再出発を考えたり、唐突に漫画家への転身を図ろうとしたり、自殺することまで考えたりと、だいぶ人生をこじらせていた様子がうかがえる。 ただ、この間も中国放送(RCC)の深夜番組「KEN-JIN」には出演していた。この番組は、広島では知らぬもののないRCCアナウンサーの横山雄二が企画・立案したバラエティで、深夜にもかかわらず平均6%の視聴率をたたき出す人気番組だった。横山は、人気の落ちた有吉に「そんなんじゃ売れない」とツッコミを入れつつ、起用し続けた。
 その有吉が復活してきたのは2007年頃である。「あだ名づけ」の芸と毒舌で笑いを取るようになり、バラエティ番組で人気が徐々に復活。2011年には499本の番組に出演して「テレビ番組出演本数ランキング」で1位となり、その後は自身の冠番組をキー局で何本も持つ売れっ子タレントになった。


原爆体験の語り部

 広島出身の有名人の中には、被爆者や原爆2世、3世もいる。こんな人たちである。当然と言っていいかも知れないが、多くの人が戦争の悲惨さの語り部となっている。

被爆者

・広島市民:写真左より、二葉あきこ(2011年、96歳で没)扇ひろ子(現在78歳)、大下英二(現在79歳)、サーロー節子(現在91歳)、佐々木久子(2008年、81歳で没)、張本勲(現在83歳)、峠三吉(1953年、36歳で没)

・広島市民以外:写真左より、丸山真男(1996年、82歳で没)、喜味こいし(2011年、83歳で没)、江戸家猫八(2001年、80歳で没)、平山郁夫(2009年、79歳で没)、森滝市郎(1994年、92歳で没)

二葉あき子

 二葉あき子は、広島での街頭慰問を終え、双三郡布野村の父の実家にいる一人息子に会うため、手伝いの女性と2人で広島駅から「1945年8月6日午前7時45分発、芸備線」に乗った。列車が約5キロ進み矢賀駅を過ぎ中山トンネルの中央部に来たとき、重苦しい硬い音が頭を貫き、両耳に平手を食ったような衝撃を受けたという。汽車がトンネルに入っている際に原子爆弾が投下され、汽車がトンネルを出たところで、きのこ雲と落下傘を見たという。被曝はしたものの、トンネル内であったため原爆による直接の被害は免れた。列車の出発が約10分程遅れていたため、乗車できたという。その後、二葉は、親戚や友人・知人がなくなったことを知り、自分だけが生き残った「罪悪感」から自分を責めたという。
 1948年にフランチェスカの鐘に出会う。
「『ブルー音符ああふたたびはかえらぬ人…ブルー音符』や『ブルー音符心も狂う未練の言葉…ブルー音符』という言葉を読んだとき、原爆で亡くなった人々のことをすぐに思いました。」

 二葉にとり「私のふるさとの人々にささげる鎮魂の歌」となり、「私は死ぬまで『フランチェスカの鐘』を歌い続けよう」と決心したという。

二葉あき子/フランチェスカの鐘(1948年)

吉川晃司

 「父は広島で入市被爆しており、僕は被爆2世です。広島県府中町で育ち、幼い頃から両親や親戚に原爆の話を聴かされた。8月の平和記念式典にも毎年参列していたので、子供なりに核への嫌悪はありました。
 歌手になって平和関連のコンサートに誘われるようになりました。ただ、当時は「本当に平和のためなのか」と疑問も感じ、ほとんど参加しませんでした。
 意識が変わったのは、30代半ば。原発事故や核汚染を題材にした
黒沢明さんの映画「夢」を見たり、忌野清志郎さんからチェルノブイリ原発の惨状の話を聞いたりしてからでしょうか。
 3年前(2010年)、府中町の母校の子供たちから依頼され、反核の思いを込めた
「あの夏を忘れない」という歌の制作に加わりました。改めて広島に生まれた者の使命を考えるようになりました。

 そして東日本大震災。被災地へ行き来していると、放射能禍の人災でもあると強く感じるし、政(まつりごと)には幻想を抱けないと思う。原発事故直後の「直ちに人体に影響はない」という発表もしかり。だれがどんな利害で動き、メディアがどんな立ち位置で伝えているか。自ら背景を知ろうとしないと、生き残れない時代になったと思う。

 原発問題の根底には、多くの差別や矛盾がある。立地、使用済み核燃料の行き先、働く人々……。事故は続いているのに、海外に原発を輸出する話まである。広島、長崎、そして福島の経験をした唯一無二の国が厚顔無恥では悲しい。
 僕たちはいずれ、数十年後には死んじゃう。このまま策を講じず、この星の未来を担う子供たちに負の遺産ばかりを押しつけてリタイアしたら、
「恥知らずな世代」との汚名は逃れられない。それは嫌だ。
 せめて、もがかないと。エンターテイナーだからこそやれることがあるなら、やろう。そう自分の心が言うもんで、試行錯誤しつつ思いを込めて曲を作り、歌っています
ー硬骨漢だネ。

核なき世界へ 被爆国から2013 その2(8)歌手・俳優/吉川晃司(朝日新聞2013年6月9日掲載)

広島県府中町立府中小学校&吉川晃司/あの夏を忘れない(2010年)

 ブルー音符あの日 お日さまが割れて 青空が消えて 残った影 あの日 ともだちの声も 家族の笑顔も さらった爆風(かぜ) あの夏を 忘れない 未来がまだ続くように 幸せって なんだろう その答えはこの手から きっとはじまる 悲しみは 忘れない 未来がまだ続くように 愛するって なんだろう その答えはこの胸に きっとあるんだ (朗読) 家族がいる ともだちがいる あたりまえの笑い声  あたりまえの幸せ 生まれてくることができたから 叶えられる未来がある 助け合うことができるなら 叶えられる未来がある だから約束しよう 平和を守っていくことを だから約束しよう 君を大切にすることを 皆で手をつなごう 笑顔で手をつなごう (僕と) みんなで 手をつなごう (君と) (いつも) 世界で 手をつなごう (いつまでも) (僕と) みんなで 手をつなごう (君と) (いつも) 世界で 手をつなごう (いつまでも)ブルー音符 

杉浦圭子
 杉浦圭子は、2018年、3度目の広島勤務で定年を迎えた後も、NHKのエグゼクティブアナウンサーとして、この地で情報番組の顔として活躍をしている。 
 最も好きなアナウンサーの一人で、自分の故郷とは言え、田舎(失礼!)に置くにはもったいない逸材だが、残念ながら、もう長いことお顔を拝見したことがない。 
 1988年の
『第39回NHK紅白歌合戦』では、女性で初めて総合司会を務めたことも有名だが、『歌謡パレード』(1989年~1991年)の総合司会の見事さに驚いたことがある。
 この人の記事が2019年3月15日の朝日新聞
「ひと」の欄に載っていた。杉浦圭子は、自らが被爆2世であることから平和への思いは強く、被爆者、平和活動のグループなどの取材を精力的にこなし、伝えることの大切さを学んでいるようだ。

 「ヒロシマの羅針盤」。故郷・広島での仕事を通じて見つけた宝物という。伝え方に迷う時、「命の尊さや一人ひとりの存在の重さ」を常に示してくれる。被爆40年の1985年8月6日、広島からの生中継で用意された言葉を伝えた。「ここで悲劇が起きました」。苦情が来た。「ドラマじゃないんだ!」。広島で育ったのに、自分の言葉を持たないと恥じた。 
 1991年からの最初の広島時代。病室のベッドに正座して被爆体験を話す女性がいた。
「自分はこんなに必死に人に話をしただろうか」 
 2007年、2度目の赴任で被爆者の手記の朗読を担当した。13歳で被爆し、半身にやけどを負いながら郊外まで歩いて帰った父の体験が理解できるようになった。「父が行き倒れていたら、私はいない」 
 広島で母になり、育てた。通勤で通る慰霊碑には、少女の名がびっしり刻まれていた。「原爆は、子の夢や希望を一瞬で奪った」少しずつ、原爆詩などの朗読活動に取り組んでいる。
「第二の人生、ヒロシマを伝えることに役立てたい」

山本モナ

 お騒がせ有名人だった山本モナだが、山陽新聞社尾道支局長だった母方の祖父は、原爆の取材で被爆後死去しており、自身は被爆3世となる。
 

宮崎恭子さんの性格が広島の県民性であって欲しい

 自分のブログで満足しているものは少ないが、今や日本の重鎮の俳優・仲代達矢(現在90歳)の妻で、彼女の両親とも広島県呉市の出身の故・宮崎(仲代)恭子(1996年、65歳で没、写真右)のことを書いた次のブログは最も好きな記事の一つだ。

★第288話:宮崎恭子(仲代恭子)の遺稿「大切な人」(2013/4/3に投稿したが、2021/12/26にリブログした)

 当時俳優養成学校「無名塾」の代表者だった彼女は、膵臓ガンでお亡くなりになってもう27年も経つが、その後見つかった原稿を編集した、彼女の自分史ともいえるエッセイ集「大切な人」(講談社、1996年、写真右)のことを記事にした。

 この本を通勤電車の中で読みながら、不覚にも感動で嗚咽が出そうになった。「まず、父母のことから…」の下りである。

『父は潔癖なくらい公正で、前にも繰り返し書いたように、むしろ目上に強いきかん気な人、母は金銭や身分で人の価値を決めたり、差別することを一切しない人だった。だから、今よりずっと差別や格差の多い時代だったにもかかわらず、私は差別的先入観には全く犯されずに育った。…』から続く。

 「こんな家族ばかりであれば、どんなに平和な世の中になるだろうか」とため息がついたものだ。自分の故郷・呉市の先輩であることが誇らしい。これが、広島県人の県民性であればもっと幸せだ。

(敬称略)(Wikipedia参照)