★第381話:広島県と岡山県(4) 岡山県のご当地ソング豆知識 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

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岡山のご当地ソング(2) 

 「あなたの街のご当地ソング ザ・ベストテン」合田道人著、2010年、全音楽譜出版社、写真)の岡山県ベストテンは以下の通り。

第一位:中国地方の子守唄(民謡)
第二位:桃太郎(唱歌)
第三位:山陽道(鳥羽一郎)
第四位:瀬戸の花嫁(小柳ルミ子)
第五位:下津井節(民謡)
第六位:倉敷の女(春日八郎)
第七位:野風増(河島英五、橋幸夫ほか)
第八位:宵待草(愛唱歌・高橋三枝子)
第九位:西園寺ブルース(瀬川瑛子)
第十位:喝采(ちあきなおみ)

 以下、ご当地ソング豆知識岡山編を作成してみた。

 

ご当地ソングの女王・水森かおり

 ご当地ソングの女王水森かおり(現在49歳、写真)が歌ったご当地ソングは百数十曲に及ぶ。

 ところが、彼女が歌った中国地方の曲は少ない。岡山県では、花冷えの宿(美作市、2011年)、鷲羽山(倉敷市、2013年)の2曲。(写真は鷲羽山)

 ちなみに広島県も同じく、尾道水道(尾道市、2000年)、安芸の宮島(厳島・廿日市市、2009年)の2曲。中国地方では山口県5曲で一番多い。なお、彼女がまだ歌っていないご当地ソングの地域は、徳島県福岡県宮崎県の3県だという。

 

子守唄(Lullaby)

 日本の子守唄のルーツは「江戸子守唄」と言われる。「ブルー音符ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよい子だ ねんねしな…ブルー音符」と歌う。誰でも一度は聞いたことのある曲だ。

 合田道人著「あなた街の当地ソング」で岡山県ご当地ソング第1位だった「中国地方の子守唄」は、岡山県西南部の井原市(地図)出身の声楽家・上野耐之が故郷の母から聴いた子守唄を恩師であり、「からたちの花」「赤とんぼ」など、日本の音楽史に残る多くの作品を残した山田耕筰(1965年、79歳で没、写真)に披露したが、山田はその素朴でありながら優雅なメロディと詞に心を惹かれ編曲し全国に広めた。

第一位:倍賞千恵子/中国地方の子守唄

 「ブルー音符しゃっしゃりませブルー音符」という歌詞は、「してください」という意味の岡山県の方言。

 子守唄もご当地ソングである。次図は、日本の有名な子守唄。

 なお、世界三大子守歌といえば、モーツァルト(現在はフリース)、シューベルトブラームスの子守歌のことをいう。 
 ①「ブルー音符眠れよい子よ、庭や牧場に…ブルー音符」で親しまれた、モーツァルトの子守歌は、実は近年オーストリアの作曲家、
ベルンハルト・フリースの作曲ということがわかり、最近は「フリースの子守歌」と呼んでいる。

 ②「ブルー音符眠れ眠れ母の胸に…ブルー音符」で知られる、「WIEGENLIED(子守唄)」は、シューベルトが1816年(19歳のとき)に作曲した。これは、彼が15歳のとき亡くした母親に対する切ない思いを込めた曲だという。

 ③「ブルー音符眠れよ吾子、汝をめぐりて…ブルー音符」で始まる、ブラームスの子守歌は、作品49「5つの歌曲」の第4番目の歌曲。これは彼が指導していた合唱団員の出産祝いに贈られた曲とされている。

 

桃太郎

桃太郎

 「桃太郎」は、日本のおとぎ話の一つ。桃の実から生まれた男子「桃太郎」が、お爺さんお婆さんから黍団子(きびだんご)をもらって、イヌサルキジを家来にし、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。

 合田道人著「あなた街の当地ソング」で岡山県ご当地ソング第2位だった童謡の作詞者は不詳で、作曲者は「故郷」などの作曲で有名な、岡野貞一(1941年、63歳で没)。初出は、1911年尋常小学唱歌。

第二位:童謡「桃太郎」

 実は、特定の伝説に拠る物語の由来については諸説存在し、ゆかりの地とされる場所は全国にあり、それぞれ論争のあるところである。

 桃太郎の起源を岡山とする説に関して、戦前の頃までその支持は、愛知県香川県をゆかりとする説に大きく後れを取っていたが、1960年以降の岡山地域の促進運動によって現在は、特に岡山県が最有力地とされており、全国で唯一、岡山だけが『「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま』の名称で日本遺産として文化庁からゆかりの地として正式に認定されている。
 岡山県は、桃太郎作中の
「きび団子」と同音の江戸時代の地元土産品「吉備団子」を関連付けるなど、全県を挙げての宣伝活動から、ゆかりの地として全国的に有名となり、現在は桃太郎の像なども存在する。(写真)

 岡山を発祥地とする主張の三大根拠とされるのが、画像左より、吉備団子、岡山名産の、そして吉備津彦命の温羅退治伝説であるとされている。

 

フルーツ県・岡山をけん引する「白桃」

 ずっと岡山の名産はマスカット白桃、土産物は吉備団子が定番だと思っていた。桃が収穫できる期間は短く、今が旬だが、果物の値段が高くて、最近はほとんど食べる機会がない。

 岡山の桃は近県では有名で、生産量も消費量も全国トップクラスだと思っていた。結果はやや意外だった。

 図の左は生産量ベスト3。岡山は6位。右は消費量ベスト3。一人当たりの消費量では岡山県が全国3位に入っている。

2020年、桃の消費量ランキング!日本一は何県?47都道府県別の生産量と比較参照)

 岡山県の桃の栽培は、1875年(明治8年)に中国から「天津水蜜」「上海水蜜」が導入され本格的に始まったといわれている。(写真)

 岡山で「果樹栽培の祖」として知られる小山益太(1924年、62歳で没、写真)は、岡山県赤磐郡稗田村(現:岡山県赤磐市)の豪農の家に生まれた。広大な果樹園で桃、ブドウ、梨などを育て、交配やせん定、病害虫防除などの技術を独学で開発、1895年(明治28年)には桃の新品種「金桃」を生みだした。また後進の指導にも熱心で、「白桃」を創成した大久保重五郎も小山の門下生である。


 
1899年(明治32年)、磐梨郡物理村(現・岡山市東区瀬戸町)の大久保重五郎は、上海水蜜の実から、1901年(明治34年)に新品種「白桃」を生み出した。白桃は強い甘みとねっとりした食感を持ち、最高の水蜜桃として栽培が広まった。

 白桃の発見以来、新品種の開発が続き、1932年には岡山市北区芳賀の西岡仲一によって清水白桃が開発された。この清水白桃は高級白桃の代名詞として知られる。

 写真は左から、「大久保重五郎爺顕彰碑」(岡山市東区瀬戸町)、「清水白桃発祥の地」の碑(岡山市北区芳賀)、清水白桃

 現在、日本で栽培される桃のルーツの大半は白桃とされ、日本の桃の元祖とも言われる。原産地である岡山県のものが著名で、ブランド化されている。恵まれた気候風土と地道な努力の積み重ねにより、岡山は白桃の一大産地になった。その他では、桃自体の生産量が多い山梨県、福島県、長野県、和歌山県、山形県でも作られている。

 

 8月17日(木)21:00~放送の「秘密のケンミンSHOW極」で、岡山のフルーツパフェが紹介された。「フルーツ王国・岡山のフルーツパフェを総力取材! 人気店&行列店のフルーツたっぷりパフェが続々登場」とあった。(画像左)
 岡山は、瀬戸内海式の温暖な気候により、全国的にも雨が少ないことから
「晴れの国おかやま」として知られていて、そのため農作物がよく実り、フルーツも一年中収穫されている。そして、果物農園さんたちが一生懸命育てた岡山県産フルーツを、もっとたくさんの人に「気軽に楽しんでほしい」との願いから、2009年「フルーツパフェの街おかやま」
がスタート、今に続いている。 

 メインはやはり白桃だ。「くらしき桃子総本店」では「岡山県産の桃パフェです」と運ばれてきたのは、桃だらけのパフェ。思わず唾液で口の中がいっぱいになる。(画像)

 


 

山陽道

歌の概要

 合田道人著「あなた街の当地ソング」で岡山県ご当地ソング第3位だった「山陽道」(1994年)は、里村龍一(2021年、72歳で没、「昔の名前で出ています」(小林旭、1975年)などを作詞)、叶弦大(現在85歳、「望郷酒場」(千昌夫、1981年)などを作曲))、鳥羽一郎(現在71歳、代表曲「兄弟船」)が歌った。

第三位:鳥羽一郎/山陽道

 歌詞には、岡山県三大河川である高梁川旭川と並ぶ、吉井川(地図、写真)とともに、安芸路宇品(広島県)、小郡(山口県)が出てくる。岡山県だけではない、山陽道は中国地方のご当地ソングだと思う。尤も、岡山には山陽放送というテレビ局があり、何となく山陽と名がつけば、岡山というイメージはある。

山陽道

 「山陽道」とは、古代日本の律令制における、広域地方行政区画である、五幾七道畿内七道ともいう)の一つ。なお、1869年、北海道が新設されてからは五畿八道と呼ばれる。
<五畿(畿内)>大和山城摂津河内和泉の五国。現在の奈良県、京都府中南部、大阪府、兵庫県南東部を合わせた地域。(次図)


<七道>
東海道東山道北陸道山陽道山陰道南海道西海道の七道。七道は、畿内から放射状に伸び、所属する国の国府を順に結ぶ駅路の名称でもあった。


<山陰と山陽>
 中国地方を山陰と山陽に分けることもあるがこれは五畿七道の
山陰道山陽道に由来する。意味は山地の北(陰)側・南(陽)側の意味で決して山陰にネガティブな意味はない。
 五畿七道に従えば、山陰の東側は現在の京都府北部まで、山陽も兵庫県南部まで含まれるが現在では中国地方の範囲内で使われることが多い。また、山口県北部にあたる長門国は山陽道だが、中国地方の日本海側という意味で山陰地方に含まれることがある。

 

思わせぶりなご当地ソング

 瀬戸の花嫁

 合田道人著「あなた街の当地ソング」で岡山県ご当地ソング第4位だった「瀬戸の花嫁」(1972年)は、倉敷市の美観地域を流れる倉敷川で江戸時代の婚礼模様を再現する「瀬戸の花嫁・川舟流し」(写真)からランクイン。しかし、瀬戸の花嫁の曲は、瀬戸内海の海とか島を歌ったもので、ちょっとイメージが違う。

第四位:小柳ルミ子/瀬戸の花嫁(1972年)

 「瀬戸の花嫁」がどこの地を指すのかは諸説あり。歌詞で明確にしないものだから、岡山県のご当地ソングになってしまう。1970年代、この曲が大ヒットしたとき、結婚式披露宴に参加することが多かったが、自分の地元だった広島県愛媛県では100%といっていいほど、この歌がお祝いとして流れた。岡山県だけではなく、瀬戸内海沿岸全体のご当地ソングだったのだ。

 Wikipediaによると、曲の舞台が香川県小豆郡土庄町沖之島(地図)であるとする説もあるが、モデルとなった具体的な島はない。作詞の山上路夫(現在87歳、写真左)は瀬戸内海の島は訪れたことはないが、瀬戸内海は仕事で四国へ行く途中、水中翼船で何度も通ったことがあり、広島県尾道から四国(今治)に向かう水中翼船(写真右)から見た段々畑と、美しい夕焼けの島々の景色が印象的で、それを思い浮かべ作詞をしたと話している。


私の城下町

 ところで、「瀬戸の花嫁」を作曲した、平尾昌晃(2017年、79歳で没、写真左)は結核を患い、1968年(当時31歳)、諏訪湖を望む、長野県・岡谷市にある健康保険岡谷塩嶺病院への長期間入院による療養を余儀なくされ、肋骨を6本取り除く大手術を受ける。その1年後の1969年に退院。平尾自身は、この療養期間が作曲家としての活動の原点であることを、事あるごとに語っている。2度の手術を経た69年春から外出を許されるようになり、諏訪で温泉につかって、食事をしたあと、何度か復興中の高島城(写真中央)に立ち寄った。
 
 彼は、東京から遠い信州で病気療養の日々を送るうちに、信州の美しい四季に囲まれて、日本の自然や故郷の温かみを初めて意識したという。退院直後に手がけた
小柳ルミ子のデビュー曲は、この特別な場所をメロディーにしたいと思っていた。それが「私の城下町」(1971年、写真)である。
小柳ルミ子/わたしの城下町(1971年)

岬めぐり
 山本コータローとウィークエンドの名曲「岬めぐり」(1974年)の作曲者でもある山本コウタロー(2022年、73歳で没、写真左)が、前述「瀬戸の花嫁」作詞の山上路夫に、その岬は一体どこかと聞いたところ、「三浦半島だよ」と言われたそうだ。それで「岬めぐり」は京浜急行の三浦海岸駅の入線メロディとして使われている。以前は三崎口駅でも使われていたそうだ。自分はこの話を聞くまで、四国の岬めぐりかと勝手に思っていた。
 コータローにとってもその答えは意外だった。「ブルー音符この旅終えて街に帰ろう…ブルー音符」というからには、東京から離れている場所だと思っていたので、曲を作る前にこのことを聞かなくてよかったと述懐した。事前に聞いていれば曲調が変わっていたかも知れなかったようだ。現在も電車は三浦半島を一周していないので、
バスは当然利用するだろうから、「ブルー音符バスは走る…ブルー音符」という歌詞には納得だ。

山本コータローとウィークエンド/岬めぐり(1974年)

 この歌詞の場所はどこだろうかと気になる曲は多い。とりあえず、すぐ思いつくのが「青春の城下町」梶光夫、1964年)と「古城」三橋美智也、1959年)だろうか。三橋美智也といえば、「星屑の町」(1962年)も何処かか気になるネ。

 

下津井節

 合田道人著「あなた街の当地ソング」で岡山県ご当地ソング第5位だった「下津井節」(1972年)は、岡山県民謡 。岡山の下津井港の花柳界のお座敷で盛んに唄われた。下津井港が繁栄したのは金毘羅参りとして最短コースだったから。細川潤一編曲(1957年)

第五位:三橋美智也/下津井節

 

これが岡山のご当地ソング⁉

 この曲が岡山のご当地ソングなのか、説明を聞かないとにわかには分からない曲がある。

野風増

 合田道人著「あなた街の当地ソング」で岡山県ご当地ソング第7位だった「野風増」(河島英五、1984年)は、作詞の伊奈二朗が、岡山県警の警官で、現職時代、勤務地での防犯イベントで、自作の防犯ソングなどを歌い、"歌うおまわりさん"として有名だった。同じ岡山県出身で、作曲した山本寛之が歌い、1980年にリリースされたという。  

 題名の「のふうぞ」とは中国地方(主に岡山県)などでの生意気・つっぱるなどという意味の方言。それに「野風増」という漢字をあてたが、どうやら「野放図」という言葉がなまったようだ。数年後に、河島英五橋幸夫らによってカバーされヒットした。

河島英五/野風増(1984年)

宵待草

 合田道人著「あなた街の当地ソング」で岡山県ご当地ソング第8位だった宵待草」(よいまちぐさ)は、竹久夢二(1934年、49歳で没、写真左)作詞、多忠亮(おおのただすけ、1929年、34歳で没、写真右)作曲の歌曲である。

 50年たらずの短い生涯にわたり恋多き竹久ではあったが、実ることなく終わったひと夏の恋によって、この詩は創られた。その詩に感動した多忠亮により曲が付けられ、一世を風靡する。

 「ブルー音符待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな…ブルー音符」「宵待草」のモチーフとなった「マツヨイグサ(待宵草)」(写真)は、夕暮れ時に黄色い花を開き、夜に咲き続けて朝にはしぼんでしまう。黄色以外は特に月見草とも呼ばれる。一夜だけ咲くマツヨイグサ(待宵草)の儚さが、夢二自身の儚いひと夏の恋と重ねられたのだろうか。 


 「宵待草」が岡山のご当地ソングに選ばれたのは、竹下夢二が岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄、地図)の生誕だったから。

 しかし、15歳で兵庫県神戸市の叔父宅に寄宿、16歳で福岡県八幡村(現・北九州市八幡東区)、17歳に家出して単身上京。海外にも何度も出かけるなど、ひとつのところに席を温める暇もないほど行動的な人生だった。

 金沢市の兼六園、水戸市の偕楽園と並び、日本三名園の一つと呼ばれる、岡山市の後楽園(写真左)入り口には「宵待草」の歌碑が立っている。(写真右)

倍賞千恵子/宵待草

喝采

  「瀬戸の花嫁」と、その年のレコード大賞争いを演じた、ちあきなおみ(現在75歳、写真左)の「喝采」が岡山の歌だとは知らなかった。

 「喝采」発売当時はちあきの実体験を元にして作られた「私小説歌謡」として売り出された。ちあきがデビュー前から兄の様に慕っていた若手役者が現在の岡山県浅口市鴨方町(地図)に住んでおり、亡くなったという話を詞にしたということだが、実際には作詞をした吉田旺(現在82歳、写真右)はちあきのエピソードを知らずにこの詞を書いていた。

 小倉駅が舞台で若松市(現北九州市若松区)出身の吉田が東京へ行く思い出を書いており、歌詞が出来上がってから、ちあきの体験と偶然似ていたため、「実体験」とすることでプロモーションに活かすという戦略をとったといわれている。
 ちあき本人は自身の辛い経験と偶然似ていた歌詞から、
「私この歌は歌いたくない…」とマネージャーに言ったという。

ちあきなおみ/喝采(1972年)

(Wikipedia 参照)