もうすぐ(3/20)でブログを始めて13年になるが、当初こんなに長く続けられるとは思いもよらなかった。音楽の話題は底なし沼である。
それは、前作で次の作品のヒントが生まれ、いわば数珠つなぎのように、次々とネタが沸いたことが大きい。
今回のヒントは、前作で登場したザ・ドリフターズと、今年の2月17日、心不全でお亡くなりになった、松鶴家千とせ(漫談、享年84歳、写真右)である。それは後で分かります。
●ドゥーワップ (Doo-wop) とは
ドゥーワップ (Doo-wop) はポピュラー音楽における合唱のスタイルの一種。1950年代半ばから1960年代初頭のアメリカで隆盛し、数多くのコーラス・グループが生まれた。
ドゥーワップの特徴は、メロディー(主旋律)以外は「ドゥーワッ」「シュビ・ドゥワ」「ドゥ・ドゥワ」といった歌唱(スキャット)にあり、それらが「ドゥーワップ」の名の由来となった。
ドゥーワップのボーカルには、主に5つの要素があるとされている。
1.ボーカルが「グループ」で歌われていること
2.幅広いレンジのボーカルパートであること(ベースからファルセットまで、低音から高音まで)
3.特に意味を問わないシラブル(音節)で歌われていること
4.シンプルなビートと低めのキーで演奏されている伴奏
5.シンプルなワードと音楽
●ドゥーワップ (Doo-wop)の歴史
Wikipediaによれば、ドゥーワップのルーツはアメリカの黒人奴隷の労働歌に遡り、黒人教会で聖歌隊が歌うゴスペルによって基本的な形式が作られた。やがてゴスペルを基礎にジャズのメロディー、和声、歌詞、伴奏が取り入れられたものが商業音楽として1930年代に出現する。
これが初期のドゥーワップで、ミルズ・ブラザーズ(写真左)、インク・スポッツ(写真右)などが代表的グループとされる。当時はメロディーを聴かせるための甘くゆったりとした曲が主流だった。
戦後になり、ドゥーワップのコーラスは技術的・経済的にハードルの高い楽器の習得を必要としないことから、都市の黒人の少年たちの間で広がり始め(いわゆるストリート文化)、1950年代半ばからは一大ブームを迎える。職業作家の手によらないシンプルなラブソングが増え、新たにテンポの速いリズムを強調したドゥーワップ・アップテンポの曲や、コミカルでユーモラスな曲も出てくるようになり、ロックンロールとともに若者文化の流行を担った。
写真左から、ファイブ・サテンズ、ザ・ムーングロウズ、オリオールズなどの方が、正統的なドゥーワップ・グループである。
ブームは数年で冷めたものの、ドゥーワップは1960年代のモータウンに代表されるソウルミュージックの隆盛をもたらすルーツのジャンルとなった。
●ドゥーワップの名曲
■アース・エンジェル(Earth Angel、1954年)
世界で最も有名なドゥーワップの曲「アース・エンジェル」は、1954年、アメリカ東海岸のドゥーワップ・グループ、ペンギンズ(写真左)のデビューシングルとしてリリースされ、R&Bチャートで1位、ポップチャートでも8位と、クロスオーバーでヒットした初のレコードとなり、2005年には米国議会図書館に永久保存曲50選の中の1曲としても選ばれた。
ペンギンズは、1954年、カリフォルニア州ロサンゼルスにて結成。メンバーが吸っていた煙草の「KOOL」(写真右)のパッケージにペンギンが描かれていたことからグループ名が付けられたと言う、フラミンゴスなどと並びバード系 コーラスグループの第一人者。
映画「アメリカングラフィティ」でウルフマンジャック(写真)が紹介したり、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」では、ダンスパーティのシーンで、ステージ上の 黒人グループが歌う挿入歌が「アース・エンジェル」である。
マイケル・J・フォックス主演の映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のチークタイムでのザ・ペンギンズのカバー演奏は架空のバンド ・マーヴィン・ベリー・アンド・ザ・スターライターズ。リーダーでギタリストのマーヴィン・ベリーは チャック・ベリーのいとこという設定である。
1985年のPART1で、主人公のマーティ・マクフライが1955年へタイムトラベルして、パーティー会場へやって来てこの箱バンに参加し演奏する。(写真)
PART2でも同じシーンへタイムトラベルし、見事に映像がシンクロするという見所の部分。
次の映像は、過去へ行ったマーティが若き日の母ロレインとの出会いを曲に合わせてビデオクリップ風にまとめているもの。リー・トンプソン(現在60歳、写真)がとても可愛い。
■リトル・ダーリン(Little Darlin'1957年)
ザ・ダイアモンズ(写真)は、カナダのボーカルカルテットで、1950年代から1960年代初頭にかけて、16のビルボードヒットレコードで注目を集めた。
オリジナルメンバーはデイブ・サマービル(リード・ボーカル)、テッド・コワルスキー(テナー)、フィル・レビット(バリトン)、ビル・リード(ベース)のいわゆる「バーバーショップ・カルテット」(バーバーショップ音楽参照)として、1953年に結成される。
代表曲はビルボード2位を記録した「リトル・ダーリン」(オリジナルはザ・グラジオラス)。
1973年の映画「アメリカン・グラフィティ」(動画)と、1990年の映画「ハロー・ヘミングウェイ」のサウンドトラックで取り上げられた。
●ドゥーワップ ではないグループ
この時期に人気のあった「オンリー・ユー」で知られるプラターズや、「ラストダンスは私に」などがヒットしたドリフターズはどうやらドゥーワップではない、ポップなグループと見られているようだ。
しかし、ジャンルはともかく、こんな素晴らしい曲は、聴いてみたいね。
The Platters/The Great Pretender (1955年)
The Drifters/Under The Boardwalk (1967年)
●日本のドゥーワップグループ
■ラッツ&スター
ラッツ&スター(画像)は、日本での「ドゥーワップ」の第一人者。
かつてはシャネルズ(CHANELS、後にSHANELSに変更)のバンド名で活動していた。1983年、『サヨナラ・シャネルズ・フェアー』開催に伴いシャネルズとしての活動を終了させ、ラッツ&スターに改名した。
改名の理由としては、シャネルからのクレームがあり、同業である化粧品会社(資生堂)のCMソング(め組のひと)を担当することになったためという説もある。
4人のボーカルが顔を黒く塗り、ドゥーワップを歌っていた。長らく活動を休止しているが、正式な解散はしていないという。
なお、昨年2月に大腸がんの手術を受けた「ラッツ&スター」の桑野信義(現在64歳、写真の左)が2月25日放送のテレビ朝日系「徹子の部屋」(月~金曜後1・00)に、歌手の鈴木雅之(現在65歳、写真の右)とともにゲスト出演した。
桑野は「直腸がんの3Bという、発見された時にはすでになっちゃってたので。びっくりしましたよね。自分がまさかがんになるとは思ってもいなかったので」と振り返り、「何が何でも生きて、絶対にコンサートの場に立つという目標を立てて、そこに向けて全力でやってました」と話した。そんな闘病時に、鈴木から送られてきたというメールを黒柳徹子が読み上げた。
「桑野!!ここが正念場だよな!!おまえの頑張りを無駄にするような神様はいないよ!もしいたら俺がぶっ飛ばす!!いや俺が土下座してでも頼み倒すから、お前は絶対負けない闘う気持ちだよ。それが最大の武器だと思うから。負けない!!お前は絶対負けないから!!一緒にステージに立たなきゃ俺たちの40周年は成立しないんだからな!!いつまでも待ってるから、じっくり腰を据えて構えて手術にのぞんでくれな!!ファイトだ 桑野!!」
桑野は「心強かったですよ、本当に」と涙ぐみ、鈴木は「本当にモチベーションを持って自分が闘っていかなければいけない後輩であり仲間ですからね。頑張ってるわけですから、頑張ってるやつに頑張れというよりは、目標を持たせたいという思いの方が強かったですし、必ず戻ってこいという一心で」と当時の心境を吐露した。
ラッツ&スター/ランナウェイ(1980年)・街角トワイライト(1981年)
■ザ・キング・トーンズ
ザ・キング・トーンズ(写真)は、1960年2月から活動する4人編成の日本の音楽グループ。
『グッド・ナイト・ベイビー』『暗い港のブルース』などの代表曲をもつ一方、1950年代から1960年代前半にかけて流行し、現在では一般にオールディーズと称される楽曲群をレパートリーの中心に据え、ドゥーワップと呼ばれるコーラス・スタイルを結成以来堅持し続けている。
しかし、創設メンバーの一人でリーダーでリードテナーの内田正人(写真右から2番目)は、2019年、82歳で死去。セカンド・テナーの「歩くドゥー・ワップのカタログ」の異名を持つ成田邦彦(写真左から2番目)は2020年、83歳で死去した。
ザ・キングトーンズ/グッド・ナイト・ベイビー(1968年)
●これってドゥーワップ?
■松鶴家千とせ
松鶴家千とせは、1960年代後半から70年代に浅草の松竹演芸場をホームグラウンドに、テレビなどで活躍した。トレードマークのあごひげとアフロヘアーは、当時大流行した。
本来はジャズ歌手志望だったこともあって、「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ?」のフレーズで、大人気になった。1974年頃「ヘェヘェヘェ?イ!、シャバダバダディ?!、イェーイ!。俺が昔、夕焼けだった頃、弟は小焼けで、父さんは胸やけで、母さんは霜やけだった。」と、哀愁を込めて歌いかける『夕焼け小焼け』の替え歌の漫談で注目を浴びた。
■11PMのテーマ
「11PM」は、日本テレビと読売テレビの交互制作で1965年~1990年まで約24年半に渡って放送されていた深夜番組であり、日本初の深夜のワイドショーでもある。
シルエットのラインダンサーが踊るアニメーションをバックにしたスキャットによるオープニングテーマ、エンディングテーマは共に三保敬太郎(1986年、51歳で没、写真)の即興作曲によるもの。正式なタイトルは「11PMのテーマ」。
録音には2バージョンあり、オリジナルはクラシック出身の増田順平・睦美夫妻によるもので、「イー!サバダバ」と歌っている。「パー!サバダバ」のバージョンは番組開始1年後に再録されたもので、男声のパートは岡崎広志(岡田愛詩)、女声のパートはスキャットの女王・伊集加代による。
1982年、3人の女性グループ「あらん・どろん」が「ウィ!シャバダバ」のタイトルでカバーしたことから、後にこちらが一般的なタイトルとして認知されることもある。
■伊勢佐木町ブルース(1968年)
「伊勢佐木町ブルース」は青江三奈(2000年、59歳で没、写真)の楽曲で、作詩は川内康範、作曲は鈴木庸。
伊勢佐木町は横浜市の繁華街。本曲のリリース当時、横浜市営地下鉄はまだ着工したばかりであり、同1号線における伊勢佐木町の最寄り駅の仮称は当初「長者町」駅だったが、本曲のヒットにより「伊勢佐木町」駅に変更しよう、という声が横浜市議会で上がり、最終的には「伊勢佐木長者町」という折衷型の駅名が誕生したという。
「ドゥビ ドゥビドゥビドゥビ ドゥバ 」のスキャットが印象的な曲である。
青江三奈/伊勢佐木町ブルース(1968年)
■老人と子供のポルカ(1970年)
「老人と子供のポルカ」(POLKA FOR GRANDPA & HIS CHILDREN、1970年)は、左卜全(1971年、77歳で没、写真)とひまわりキティーズの歌唱による日本の楽曲である。
リリース当時は、日本の高度経済成長の集大成とも言うべき日本万国博覧会の開催が迫っていた時期だが、その反動として数々の社会問題が重くのしかかった時代でもあった。
本楽曲はリズムこそ軽快且つコミカルであるものの、中身は「『ゲバ(学生運動)』『ジコ(交通事故)』『スト(ストライキ)』の被害者は老人と子供である」という痛切な叫びが込められたメッセージソングである。
左は当時76歳だったが、これは当時としての日本音楽史上最高齢の歌手デビューとして話題となった。またバックコーラスを受け持ったひまわりキティーズは劇団ひまわりの子役である女子小学生5人で構成されたグループで、そのうちの一人が後に夫婦ユニット “Le Couple” の一員となる藤田恵美である。
曲が発売されると、老人と子供の意外な組み合わせと左の唄声の絶妙なリズムのずれで注目を集めた。レコードも小学校低学年やその親世代の主婦を主要購買層として好調な売れ行きを示し最終的にはレコード売上は約24万枚、1970年度オリコン年間第45位を記録した。なお、大ヒットしたにもかかわらず、買い取り契約であったため、左には20万円しか支払われなかったという。
左卜全とひまわりキティーズ/老人と子供のポルカ(1970年)
みんな「ズビ・ズバ」と歌っているが、もちろんドゥー・ワップのわけはないよね。
(Wikipedia参照)