★第284話:幸せの黄色いハンカチ | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

新聞の切り抜き記事
 
ブログのネタ作りのため、”これは”と思ったら、新聞記事を切り抜いている。それで、部屋中記事の山になったことがあり、大かた処分した。
 過去のブログで「新聞」と検索したら、やはり購読している
「朝日新聞」の記事を参照にしたものが圧倒的に多かった。その中でも土曜版beからの記事が多い。

 調べてみたらこんな状況だった。土曜版beの中では「be ランキング」が圧倒的に多い。

 

日本アカデミー賞

 その、「be ランキング」、今週(2021年12月11日)のテーマは「(今こそ!見たい)日本アカデミー賞映画 輝きあせぬ名場面、配役の妙」だった。
 
「来年、第45回を迎える日本アカデミー賞。日本の映画史を彩る様々な作品が最優秀作品賞に選ばれてきました。アンケートの結果、いま改めて見たい作品1位になったのは第1回受賞作「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)。

 自分は映画館ではないが、テレビで見たことがある。

 

山田洋次監督作品と倍賞千恵子の関係 
 
倍賞千恵子『男はつらいよ』(写真)シリーズの合間を縫って『家族』(1970年)『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)、『遥かなる山の呼び声』(1980年)をはじめ、山田が発表したオリジナル大作にも出演。『キネマの天地』(1986年)まで、延べ60本以上の作品に渡って、倍賞千恵子が全て主役や準主役として出演、海外でも殆ど例のない長期の監督・女優コンビである。

 生涯を通じて
「家族」をテーマにした映画を世に出してきた山田洋次監督。倍賞千恵子は、「男はつらいよ」の「さくら」、「家族」、「故郷」(1972年)、「遙かなる山の呼び声」に登場するいわゆる「民子」3部作ではその「民子」を演じた。
 倍賞千恵子が初めて
高倉健と映画で共演したのは、「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)で、その後「遙かなる山の呼び声」(1980年)、「駅 STATION」(1981年)と3回。その後富士通のパソコンのコマーシャルなどでも共演した。

 

幸せの黄色いハンカチ

 山田洋次監督(現在90歳、写真左)と、ヒロインを演じた倍賞千恵子(現在80歳、写真右)に聞きました」とある。(以下、青色の網掛けが朝日新聞の記事、敬称は略、抜粋)

「幸福の黄色いハンカチ」作成のきっかけ

 山田洋次監督の数々の作品に出演してきた倍賞千恵子が、この映画が作られるきっかけに関わっている。倍賞さんはこう振り返る。

 「親しかった渡辺貞夫さんのお嬢さんからドーン米国のポップスグループ)のヒット曲『幸せの黄色いリボン』を聴かせてもらったんです。

 歌詞の内容は、刑務所から出た男が故郷の恋人にまだ自分を愛してくれているなら、カシの木に黄色いリボンを巻いておいてほしいと手紙を出した、というもの。感動して、山田さんに『素敵だと思いません?』って話したんです」


 山田監督は話を聞いた瞬間、映画の場面を思い浮かべたという。「僕の頭の中にすーっと光景が浮かんだんです。地平線があって、向こうの方に木があって黄色い花が咲いている。リボンのね。このようにクライマックスシーンの映像が形になって浮かぶときはうまくいく場合が多いです」

 

「幸福の黄色いハンカチ」配役の決定
 主人公・勇作役の候補に、東映を前年に退社したばかりの高倉健名がスタッフから挙がり、山田監督は驚いた。「任侠映画の主人公のイメージだったから。でも健さんだったらいいなあと思いましたね」
 出演を依頼するため、初めて高倉に会った日のことを山田監督は鮮烈に覚えている。マネジャーもつけず、一人で車を運転してやって来た。「『わかりました。私はいつ体をあければいいですか?』と実にシンプルでしたね。『失礼します』と玄関で靴を履き、すっと立って。『山田さん、今日はとてもうれしい日です』と言い、去って行った。におうようないい男でした。残り香がずっと漂っているような」

 のちに山田監督は俳優の小林稔侍から思いがけない話を聞いたという。「健さんは、あの日、僕に会いに行くため、『クラウンの青い車を買ってきてくれ』と言ったそうです。普段は高級なベンツとか乗っているけれど、そういう車で僕のところに行っちゃいけないって(笑)」。山田監督と高倉さんは同い年、当時は40代半ばだった。


 ヒロイン光枝役には倍賞千恵子。「彼女しかいないと思っていましたね。陰のある女性ですから」と山田監督。光枝は夕張のスーパーのレジ係という設定だ。倍賞さんは「私は働いている女性の役が好きですが、光枝もそう。慣れた手つきでレジを打ってせりふを言わなければならないので、血まめができるほどレジ打ちを練習しました」


 高倉さんと旅する若者は武田鉄矢桃井かおりが演じたが、武田演じる青年のキャスティングは難航した。山田監督によると「地方出身者で労働者で女性に振られてばかりいるという設定。若者の候補はいっぱいいたけど、カッコよすぎて」。プロデューサーが持ってきた海援隊のLPジャケットに監督の目がとまった。「3人の真ん中の1人がいやに足が短く、顔がでっかくてね。一目でこれ、いいなあと思った」


 映画初出演の武田は演技に苦労したが、監督はこう明かす。「彼は観察眼が優れているんですね。作家的なものの見方ができる。ああ、彼ならばいけるなあと思った」

山田監督の「幸福の黄色いハンカチ」の評価
 「幸福の黄色いハンカチ」は監督賞、脚本賞など第1回日本アカデミー賞を総なめにした。が、山田監督は最初は「アメリカの賞の真似をして何がいいのだろう」と思ったそうだ。授賞式にタキシードというのも大げさに思えた。「タキシードがないので行きませんと言っちゃった(笑)」。のちに山田監督は92年に「息子」、94年に「学校」、2003年に「たそがれ清兵衛」でも最優秀作品賞を受賞している。
 受賞から43年。山田監督は「幸福の黄色いハンカチ」のような映画は日本ではもう撮れないという。道路も駅も車中も「撮影禁止」の場所が増え、ロードムービーが不可能なのだ。「撮影に協力的なヨーロッパと日本とでは状況がまるで違う。国には、映画は文化だということを考えてほしいですね」。巨匠の言葉は重い。

 12月、今年の候補作がそろい、来年3月に結果が発表される。どんな作品が選ばれるか、注目したい。

 

「幸福の黄色いハンカチ」のエピソード(Wikipediaより抜粋)

山田は映画製作にあたり、「幸福の黄色いリボン」に関係した、ピート・ハミル側と交渉したが、代理人によるとハミルは日本の電気製品がアメリカ市場を荒らしているとして日本に好意を持っておらず、作品の上映は日本国内限定で海外に出すことは絶対に認めないとの厳しい条件つきで承認を得た。

 封切り後、高い評価を得ていくつかの賞を受賞したことから配給の松竹は海外への輸出を考え、ハミルに認めてもらうため山田がニューヨークに出向いて映写会を開いた。字幕もなく通訳が要点を説明するだけだったが、鑑賞したハミルは「ビューティフル」と称賛し喜んで輸出に賛成したという。
●ヒロイン光枝役が住んだ、夕張市日吉地区の
炭鉱住宅(写真左)はほとんどが撤去されたが、ラストシーンの背景となった五軒長屋は夕張市が「幸福を希うやかた」の名で記念資料館として一般開放し、幟に結びつけられた黄色いハンカチと赤いファミリア(写真右)が保存されている。

●この映画に出演依頼が来る直前、武田の妻は長女を身ごもっていた。1976年当時の武田は「母に捧げるバラード」の “一発屋” として鳴かず飛ばずの状態で、妻と一緒に飲み屋で皿洗いなどのアルバイトで生計を立てていた。アルバイトを終えて深夜の東京の街を妻と歩いて帰宅する途中、妻は「今がどん底だから、もうこれから先は下はない。これから良いことがやってくるわよ」と言う。その直後に、この映画出演の話が舞い込んだ。

 この映画で役者として抜擢されるまで、演技実績がほとんどない上に歌手としても人気低迷期にあった武田に、何故山田からオファーがあったのかは、武田自身も未だにはっきりとは判らず、「売れてない歌手をからかいにでも来たのか」と思ったとのこと。
●当初
朱美役山口百恵を想定していたが、スケジュールの調整がうまく行かず、出演を断られたため桃井かおりに決まり、桃井に合う男性として、高倉と同県出身の武田を抜擢した。(高倉健は福岡県中間市出身、武田鉄矢は福岡市博多区出身、作中ではお互いの出身地について語り合うシーンがある)


倍賞千恵子

 倍賞千恵子は、今年80歳になった。
 彼女は、歌謡曲からポピュラー、スタンダードに童謡・唱歌まで幅広いジャンルを歌いこなせることに加え、日本語の発音の美しさから歌手としての評価も非常に高い。20年前(2001年)に
乳がんを患いながら克服し、現在でも精力的に音楽活動を続けている。 
 アクトレスとしてもシンガーとしても、日本に残された数少ない逸材であり、もっともっと長生きをして欲しいと思うタレントの一人だ。
 彼女はみすず児童合唱団に所属し、幼少時から「のど自慢荒らし」としても知られていた。
 1961年、松竹映画にスカウトされ
松竹歌劇団(SKD)を退団し、『斑女』(中村登監督)で映画デビュー。
下町の太陽(歌:1961年、映画:1963年)

 映画『下町の太陽』(1963年公開、写真)は元々1961年に、題名と同タイトルの歌を歌い大ヒットとなったことから映画化されたもの。

 1961年といえば、22歳。本人はちゃきちゃきの江戸っ子のようだが、これで彼女の清楚で庶民的なイメージが出来上がった。
 本人は、
西巣鴨生まれ、近くの東京都北区滝野川(赤印)に育つ。父は都電の運転士だったというから、元々庶民派ではある。 
 「下町の太陽」の舞台は、東京スカイツリーに近い、東京都墨田区の
曳舟駅(京成線・東武線)(青印)付近にあった、資生堂の石鹸工場などの工場群。
 「男はつらいよ」の舞台の葛飾区
柴又も、荒川をはさむが、割と近いところだ(地図の右上)。

 もう1曲

倍賞千恵子/さくら貝の歌

 

ドーントニー・オーランド&ドーン)

 1970年代に活躍した男性1名、女性2名のポップスグループ、ドーン(トニー・オーランド&ドーン、写真)。
 
 唯一の男性でヴォーカルの
トニー・オーランド(現在77歳)は、1961年から歌手として活動していた。 
 バック・コーラスの、
テルマ・ホプキンスと、ジョイス・ビンセントが加わったのは、「恋するキャンディダ(Candida)」(1970年)から。本当は急遽集めたグループで、デモ・テープだけのつもりが、出来上がりがあまりにも良かったので、そのままレコード化され、全米第3位の大ヒットになったというのが真相のようである。 
 彼女たち2人も相当なキャリアの持ち主で、エドウィン・スター、フォー・トップス、マーヴィン・ゲイ、グラディス・ナイト&ピップス、スプリームスほか、多くのソウルシンガーのバック・コーラスを務めていたそうだ。
 彼らの最大のヒット曲といえば、何といっても
「幸せの黄色いリボン」(Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Treee)(1973年)。 
 ドーンがこの曲を発売する前まで、シングルは6曲連続でビルボード誌の20位以内に入れないため、グループ解散を考えていたそうだ。この曲も他の歌手から断られたため、結局、ドーンが歌うことになり、それが、全米1位、アメリカ国内で600万枚以上の売り上げを記録したのだから不思議な運命である。
ドーン/幸せの黄色いリボン(Tie a Yellow Ribbon Round the Old Oak Tree、1973年)

 このカバーも素敵だ。
ロニー・アルドリッチ/幸せの黄色いリボン

レイ・コニフ/幸せの黄色いリボン

(Wikipedia 参照)