★第233話:ラジオから聴こえる音楽【後編】 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

音楽が好きになったときは?
 以前のブログで、
「音楽を聴く楽しさに目覚めたのは中学生の頃。当時音楽の情報は主にラジオ番組。「S盤アワー」「P盤アワー」という番組がその双璧で、テーマソングはペレス・プラード楽団「エル・マンボ」(1952年)…「S盤アワー」(ビクター)と、ペルトケンプフェルト楽団「星空のブルース」(1960年)…「P盤アワー」(ポリドール)。出だしの音楽だけで番組の期待に胸がときめいたものだと書いたことがある。

 初めて卓上プレーヤー(写真左)を買い、レコード(写真右)を買ったのも中学生のときである。(写真)

 

ムード音楽が好き

 日本の歌謡曲については実は興味が薄かった。ラジオ番組洋楽に触れた影響が大きい。その洋楽でも、ロック調は苦手で、当時人気絶頂だったプレスリービートルズではなく、穏やかな音楽であるムード音楽(ミュージッ)が大好きだった。

 1960年代から70年代前半は全盛期の時代があり、そのころムード・ミュージックの虜だった。今やBGMになり果てて、とても想像がつかないだろうが、ムード音楽は当時メジャーな音楽のジャンルで、その代表曲、パーシーフェイス楽団「夏の日の恋」(1960年、画像左)は9週連続全米ヒットチャート1位という快挙を成し遂げ、同年のグラミー賞まで受賞したほどの人気。ポール・モーリア楽団「恋はみずいろ」(1968年、画像右)は、同ヒットチャートで7週間1位を快走し、全世界で500万枚以上売れた時代である。

 
コンチネンタル・タンゴが人気だったのも同時期だ。アルゼンチン・タンゴに対して、ヨーロッパ製のタンゴをコンチネンタル・タンゴと呼ぶが、どうやらこれは日本のレコード会社が考案した造語のようである。小編成で、バンドネオンが用いられるアルゼンチン・タンゴはムード・ミュージックのジャンルには入らない。アコーディオンが用いられることが多く、楽器編成も通常のポピュラー音楽での管弦楽編成に近く、別名「シンフォニック・タンゴ」と呼ばれる自分はコンチネンタル・タンゴが大好きだった。ここでも、ドイツのアルフレッド・ハウゼ(2005年、83歳で没、写真左)、オランダのマランド(1979年、71歳で没、写真中央)、そしてドイツのリカルド・サントス(後のウエルナー・ミュラー)(1998年、77歳で没、写真右)がしのぎを削っていた。


 

S盤アワー・P盤アワー・L盤アワー
 各レコード会社の洋盤の主に新曲を紹介するラジオ番組では、文化放送のS盤アワー(ビクター、DJ:帆足まり子)とニッポン放送のP盤アワー(ポリドール、DJ:大沢牧子)。ラジオ東京のL盤アワー(コロンビア)というのもあったようだけど、これは記憶にない。多分、田舎にいたので全国のネットワークに入っていなかったのではないかと思う。 
P盤アワー

 「P盤アワー」は、レコード界でドーナッツ・シングル盤の発売が軌道にのりはじめたころの1957年にスタート。ニッポン放送のアナウンサーで、後にフリーになった大沢牧子さんがDJを担当していた。

 当時、ビクターや東芝レコードはアルゼンチン・タンゴにウェイトを置いて普及に取り組んでいたが、ヨーロッパのタンゴに力を入れるレコード会社もあった。それがポリドール・レコードである。
 ポリドールは、ベルリン・フィルやドレスデン国立管弦楽団に代表されるドイツのクラシック音楽を一手に扱っていたドイツのグ
ラモフォン社が、ポピュラー音楽を扱うために設立したレコード会社で、日本の受け皿になったのが、戦後、日本グラモフォンを名乗ったことの時期もあった日本ポリドールだった。ドイツのポリドールはドイツ語で歌われる曲をあきらめ、楽器だけで演奏されるダンス音楽ムード音楽を売る作戦をとった。それで、この番組から受けた影響は大きい。
 まずは、P盤アワーのイントロを務める
「星空のブルース」のベルト・ケンプフェルト楽団。「真夜中のブルース」、「愛の誓い(Till)」、「ブルーレディに紅バラを」「若さを歌おう」「マルタ島の砂」など。今でも2枚組LPレコードを持っている。

ペルトケンプフェルト楽団/P盤アワーテーマ曲「星空のブルース」(1960年)

 そして、この番組からアルフレッド・ハウゼ楽団「碧空」が大ヒット、コンチネンタル・タンゴの代表的ソングとなり、世の中はタンゴ・ブームを迎えることになる。

アルフレッド・ハウゼ楽団/碧空

 リカルド・サントス楽団「真珠採り」、映画「最後の楽園」のテーマ曲「パペーテの夜明け」、映画「太陽がいっぱい」のテーマ曲などが大ヒットを記録し、あのビージズもこの番組で日本に知られるようになった。

S盤アワー 
 
「S盤アワー」は、1952年の東京文化放送の開局記念番組で、当時ビクターの社員だった帆足まり子さん(2003年、71歳で没、写真)のナレーションでおなじみ。思い起こせば、オープニングテーマ曲「エルマンボ」は、自分の音楽好きの原点になった曲である。  

 ペレス・プラード楽団「エルマンボ」は後に「マンボ・ジャンボ」と曲名が変わるが、次作の「マンボNo.5」も大ヒット、1955年の「セレソ・ローサ」が決定打となり、ペレスプラードは次から次へとヒット曲を量産していった。なお、エル・マンボがマンボNO.1で、途中の番号はペレス・プラード以外の作曲家が書いているが、有名にならなかったので、NO.5、NO.8以外の番号がないのだそうだ。 

 この曲がS盤アワーのテーマ曲になったのにはいわくがある。

 放送開始の2ヶ月後に発売予定だったのを、「S盤」の切り札にするため、思い切って番組のテーマ曲に選んだが、その目論見がズバリと当たったのだ。当時マンボは、アメリカに登場し始めたばかりのニューリズムだった。

ペレス・プラード楽団/S盤アワーオープニングテーマ曲「エルマンボ」(1949年)

 マンボの王様・ペレス・プラード(1989年、72歳で没、写真)はキューバの出身だが、1948年にメキシコ・シティーに移住してペレスプラード楽団を結成し、その後アメリカに進出した。 


 マンボはルンバが流行っていた頃、これにジャズの要素を取り入れたものだが、イタリア映画
「マンボ」(1954年)で見せたシルヴァーナ・マンガーノ(1989年、59歳で没、写真)のダンスが話題になり、アメリカ映画「海底の黄金」(1955年)のテーマ音楽「セレソ・ローサ」で一気に人気の火が付いた。別名「CHERRY PINK AND APPLE BLOSSOM WHITE」。全米ヒットチャート10週連続第1位、26週連続チャートイン、及び同年の米年間ヒットチャート第1位となる。

 
 彼の演奏するマンボのスタイルは独特で、指揮をしながらステージ上で所狭しと踊りまくり、「ア~、ウ~ッ!」という独特の掛け声で楽団を煽るというものが当時の若者を熱狂させたものである。

 なお、日本でマンボブームが絶頂に差し掛かるころの1955年の「週刊読売」には、「日本狂騒曲 ジャズに明けマンボに暮れる」という特集記事が掲載されている。
 なお、S盤アワーのエンディングテーマはこの曲だった。  
ラルフ・フラナガン楽団/S盤アワーエンディングテーマ曲「唄う風」

L盤アワー 
 L盤アワーは、
薗礼子さんのDJで、1950年代後半から60年代にかけて大変人気があったラジオ東京の番組だったという。(田舎なので放送が聴けなかった)
 パーシー・フェイス楽団/
L盤アワーテーマ曲「恋をして」(In Love、1953年)

 

ラジオとテレビの音楽番組

 テレビの音楽番組といえば、共に1961年からスタートしたNHK「夢であいましょう」と、「シャボン玉ホリデー」が思い出される。今でも放映されている長寿番組「ミュージック・フェア」は前年の1964年からスタートしている。
 
  この時代は、まだラジオ番組をよく聴いていて、
「S盤アワー」「L盤アワー」「P盤アワー」が中心。「オールナイト・ニッポン」1967年から始まっている。
 

夢のハーモニー

 「灯りが またひとつ消えて 窓がひとつ また眠りにつきました。今日と明日の狭間に 夜が静かに更けてまいります。おやすみ前のひとときを 音楽でお過ごしください」というナレーションで、23時5分より始まるNHKラジオ番組「夢のハーモニー」(1965年~1984年)のエンディング・テーマ曲 リビング・ストリングス『今宵のあなた』

メロディホリディ

 前述のアルフレッド・ハウゼ楽団は、1964年からTBSラジオの音楽ラジオ番組で、食品メーカー「キユーピー」提供の『キユーピー・バックグラウンド・ミュージック』のテーマ曲、『ミリタリータンゴ』でも有名だ。
 当時は、語り手役の元TBSアナウンサー・
今井とも子(今井登茂子)の曲目紹介と演奏中の曲をBGMに、キャッチフレーズなどを読み上げるだけの番組の雰囲気を壊さないCMだけが挟まれ、日曜朝のひと時にメロディーだけのクラシックやインストゥルメンタルを中心に構成された。
 1990年に第1368回の放送をもって四半世紀にわたり番組の語り手を務めてきた今井とも子が降板。同時にキユーピーがスポンサーから撤退。翌月から休日(不定期)の11:00 - 12:53に文化放送の音楽番組で
『キユーピー・メロディホリデー』がスタートして現在も番組は続いている。

 

 最後は、やはりこれ。「オールナイト・ニッポン」

オールナイト・ニッポン 
 大学受験の音楽の友は深夜の
「オールナイト・ニッポン」だった。放送開始後すでに40年を越えるという、今だに続いている長寿番組である。イヤホーンをつけて勉強したものだ。当時は「ながら族」といってこういうスタイルが流行っていた。
テーマ曲は、一度聴いたら忘れられない、ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラスの軽快なサウンド、「ビタースウィート・サンバ」

 前身となる番組はニッポン放送にて1959年10月10日から放送していた『オールナイトジョッキー』(DJ:糸居五郎)だった。1967年10月1日深夜から放送開始。放送時間は月曜日~土曜日25:00 - 29:00(翌日未明1:00 - 5:00)。 
 当初のDJ(「パーソナリティ」と呼ぶようになったのは1969年頃から)はニッポン放送アナウンサーの
糸居五郎(月曜日)、斉藤安弘(火曜日)、高岡尞一郎(水曜日)、今仁哲夫(木曜日)、常木建男(金曜日)、高崎一郎(土曜日)(下図)。

 オールナイトニッポンが以前にも増して脚光を浴びたのは、1969年。この年の1月に木曜日担当に
高嶋秀武(現在79歳、写真左)が、10月に土曜日担当に亀渕昭信(現在79歳、写真右)が参入してからだ。
 
 番組開始以来のラジオ放送の長寿番組で、放送開始当初から今日に至るまで全国的な人気を誇り、深夜放送の代名詞的存在となっている。この番組から数多くの人気ラジオパーソナリティが生まれ、
「若手芸能人の登竜門」とも呼ばれる。テーマソングとして 「ビター・スウィート・サンバ」 が長年使われている。

 

 その後は主にFM放送で音楽を聴くようになった。

 

(Wikipedia 参照)