●サンレモ音楽祭
サンレモ音楽祭(Festival della canzone italiana)は、1951年より毎年開催されている、フランスとの国境に近いイタリア・リグーリア州の海沿いの街、サンレモ市(地図)のアリストン劇場(写真)で行われる国民的音楽祭。
2021年はパンデミックの影響で、3月2日から6日の5夜にわたって無観客で行われた。
最初は小規模な音楽祭に過ぎず、第1回(1951年)の出場歌手はわずか3組、応募した20曲を繰り回して歌っていた。その後、規模も順次拡大し、1953年から参加曲を2組のアーティストが歌う方式となった。1958年の優勝曲「Nel blu dipinto blu(ヴォラーレ)」が、アメリカでミリオン・セラーを記録し、第1回グラミー賞を受賞したことによって、サンレモ音楽祭は一躍世界的に認められ、その後も「Piove(チャオ・チャオ・バンビーナ)」「Al di la(アル・ディ・ラ)」をはじめ、多くの曲を生んでいる。
1960年代に入ってもジリオラ・チンクェッティ、ボビー・ソロ、ウィルマ・ゴイクなどのスターを輩出。
コニー・フランシス、ポール・アンカ、ディオンヌ・ワーウィック、ヤードバーズなどの外国アーチストも出場。日本からも新宿音楽祭金賞歌手が本番組に派遣されたこともあり、また伊東ゆかりや岸洋子が参加し、カンツォーネ・ブームがおこるなど、サンレモ音楽祭は最盛期を迎えたが、1960年代末からはイタリア経済の衰退もあって、段々と楽曲のレベルが低下し、規模の縮小を余儀なくされた。それでも1980年代以降は回復傾向が見られ、新人賞の創設などの新機軸も取り入れられて、往時には及ばないまでも、高いレベルの音楽祭であり続けている。
今回は、サンレモ音楽祭で入賞した曲をカバーして大ヒットした曲を聴いてみよう。
「えっ、この曲も!」というのが多いので驚くかも。
●タイム・トゥ・セイ・グッバイ(1995年)
最も有名なのがこの曲で、元は「コン・テ・パルティロ」(Con Te Partirò、君と旅立とう)という題名で、イタリアの盲目のテノール歌手、アンドレア・ボチェッリが、1995年のサンレモ音楽祭で歌い、4位を獲得。同年春発売のセカンドアルバム「Bocelli」の1曲目に収録されたが、その時点では必ずしも大ヒットしたわけではなかった。
この曲を聴いたサラ・ブライトマンがボチェッリにデュエットを申し込み、歌詞の一部とタイトルをイタリア語から英語に変更し、「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」(Time To Say Goodbye)としたが、その後の大ヒットはご存知の通り。
この曲は、クラシカル・クロスオーヴァーというジャンルを確立した曲としても知られている。
アンドレア・ボチェッリ/コン・テ・パルティロ
アンドレア・ボチェッリ&サラ・ブライトマン/タイム・トゥ・セイ・グッバイ
●急流(1957年)
グロリア・ラッソの代表曲とされる「急流」(Le torrent)。Lao Carmiが作曲し1955年のサン・レモ音楽祭で第2位に入賞したカンツォーネ「Le torrente」で、ピエール・ドラノエとピエール・アヴェがフランス語に翻案し、1957年にグロリア・ラッソが歌ってフランスでもヒットした。この曲は、彼女のライバルのダリダも歌い、フランク・プウルセルの演奏もヒットした。
グロリア・ラッソ/急流
ダリダ/急流
フランク・プゥルセル楽団/急流
<訳詞>
ラララ…山からまっすぐ流れ落ち 畑のあいだを突き進んでいく急流のように 野原にあらゆる春の花を見つけながら分かち合いたい愛と幸せに胸ふくらませ 私のうぶな心は 町に降りたった だけど私の魂はあまり平穏ではなくなった すべてを捨て去ってからは
上の世界ではすべてが輝きに充ち 下の世界ではすべてがおぞましさに充ちている
けれど急流はすぐにふるさとの山を忘れる
それと同じように私は運命のままに 丘から野原へとくだって来て 私は子どもの頃の心をうしなった
でも私はしばしば想いを馳せる 子どもの頃の空に
ねぇあなた 今宵私はすてきな生活を取り戻す あなたとともに青春の輝きのなかに生きるのよ そして春が湧き出る泉へと遡るの 雪で白くなった樅の木立の 静けさに包まれて 急流のほとりであなたは (「朝倉ノニーの<歌物語>」参照)
●ヴォラーレ(1958年)
「ヴォラーレ」は1958年のサンレモ音楽祭で、ドメニコ・モドゥーニョ(1994年、66歳で没、写真)とジョニー・ドレッリが歌って優勝した曲。アメリカでミリオン・セラーを記録し、第1回グラミー賞を受賞したことで、サンレモ音楽祭は一躍世界的に認められた。
ジプシー・キングスのカバーはキリン淡麗生CMソング等で有名。一時は「コマーシャルの王様」と呼ばれたこともあった。
ドミニコ・モデューニョ/ヴォラーレ
ジプシー・キングス/ヴォラーレ
●ウィザウト・ラブ(1968年)
「愛の花咲くとき」 QUANDO M'INNAMORO/』は、エンゲルベルト・フンパーディンクの「ウィザウト・ラブ」(A・MAN・WHITOUT・LOVE)として歌われ世界のスタンダードナンバーとなったが、最初のオリジナルヒットは1968年のサンレモ音楽祭で女性シンガー、アンナ・イデンティチ(画像)が歌い入賞しヒットさせた曲。(「ルゼルの情報日誌」参照)
アンナ・イデンティチはちょうどジリオラ・チンクエッティのような清楚な雰囲気を持っていて、その歌声も女性らしい繊細なものだった。彼女には、この曲の他『ウィーンのバラ』『タクシー』などのヒット曲もある。
アンナ・イデンティチ/愛の花咲くとき(1968年)
エンゲルベルト・フンパーディンク/ウィザウト・ラブ
●この胸のときめきを(1968年)
1965年のサンレモ音楽祭で、イタリアの男性歌手ピノ・ドナジョオが歌ったが入賞を逃した。同大会に参加していたダスティー・スプリングフィールド(1999年、59歳で没、写真)がバラードにリメイクして1968年にヒットした。
エルヴィス・プレスリーの「この胸のときめきを」(You don't Have to say You Love me、1970年) は、映画「エルヴィス・オン・ステージ」に挿入され大ヒットした。
ダスティー・スプリングフィールド/この胸のときめきを
エルヴィス・プレスリー/この胸のときめきを
●カ-ザ・ビアンカ(1968年)
1968年のサンレモ音楽祭入賞曲「 カーザ・ビアンカ」(Casa bianca)(パートナーはオルネラ・ヴァノーニ)が大ヒットした、マリーザ・サンニア (2008年、61歳で没、写真左)はイタリアの歌手。作曲家、女優としても知られる。可愛らしい容姿と個性的な歌声で一躍スターとなる。同音楽祭では1970年に「L'Amore e Una Colomba 恋は鳩のように」(パートナーはジャンニ・ナザーロ)、1971年に「Com'è dolce la sera 夕べの瞳」(パートナーはドナテッロ)、1984年に「Amore amore アモーレ・アモーレ」で入賞し、彼女の代表曲となった。
この曲をカバーした、ヴィッキー・レアンドロス(現在71歳、写真右)は、ギリシャ出身の歌手。9歳の時に当時の西ドイツに移り、1964年、西ドイツでレコード・デビュー。アイドル・シンガーとして人気を博し、現在もドイツを基点にヨーロッパを中心に大御所歌手として活躍中。1967年、ユーロビジョン・ソング・コンテストでルクセンブルク代表として出場。「恋はみずいろ」を歌って4位を獲得した。以後は世界的な活動を展開、1970年2月25日には初の日本公演を果たした。1972年、ユーロビジョン・ソング・コンテストでルクセンブルク代表として出場。「想い出に生きる」を歌って優勝を獲得した。その後もドイツやギリシャをはじめとしたヨーロッパを中心に音楽活動を続けている。ここでは、ヴィッキーの日本語版を。
マリーザ・サンニア/カーザ・ビアンカ
ヴィッキー/カーザ・ビアンカ
●よくあることサ(1968年)
「ささやく瞳」(Gli occhi miei、私の目)は、1968年のサンレモ音楽祭で、カルロ・ドニダが作曲、モゴルの作詞で、ディノ(エウジェニオ・ザンベリ)と、ウィルマ・ゴイクの両方によって演奏された。
イギリスの作家でソングライターのジャック・フィッシュマン(別名ラリー・カーン)は、元のイタリア語とは無関係の英語の歌詞を書き、「よくあることサ」(Help Yourself)は、1968年にウェールズの歌手トム・ジョーンズが歌い、彼の最も有名な曲の一つとなった。
ウィルマ・ゴイク/ささやく瞳
トム・ジョーンズ/よくあることサ
●ラブ・ミー・トゥナイト(1969年)
これもサンレモ音楽祭で歌われた 「恋の終わり」(ALLA FINE DELLA STRADA)をトム・ジョーンズが、世界的に知られるヒット曲として生まれ変えたもの。
1969年のサンレモ音楽祭でロレンツォ・ピラット、マリオ・パンゼリ、バリー・メイソンが書き、ジュニア・マグリとイタリアのグループ、カジュアルズによって歌われた曲で、結果はあえなく落選し本選に進めなかった。
「ラブ・ミー・トゥナイト」(Love me Tonightは、ジョニー・スペンスによってアレンジされ、ピーター・サリバンによって制作され、トム・ジョーンズが歌い大ヒットした。
ジュニア・マグリ/恋の終わり (1969年)
トム・ジョーンズ/ラブ・ミー・トゥナイト(1969年)
フランク・プゥルセル楽団/恋の終わり
終わり。(Wikipedia参照)