★第194話:瀬戸内海の島々 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

瀬戸内海は屈指の多島海

 瀬戸内海は大小あわせて3,000もの島があり、無人島や、周囲数メートルしかない小さな島も存在する多島海である。日本全体で6,852というから、その半数に近い島が瀬戸内海に集まっていることになる。
 主な瀬戸内海の島を以下に示す。
東部 : 淡路島、小豆島
中部 : 大三島、因島、大崎上島、生口島、向島、大島
西部 : 屋代島(周防大島)、倉橋島、能美島(江田島と一体)、厳島

 

 島めぐりが趣味というわけではないが、瀬戸内海に浮かぶ、気になる島をいくつか取り上げてみた。

 

周防大島(屋代島)

 今から40年前の1980年代には山口県周南市(当時は徳山市)に住んでいて、近くにあった周防大島(屋代島)には家族で何度か出かけたことがある。

 実は、周防大島周防大島町は少し違う。

 両者とも瀬戸内海に浮かぶ防予諸島のうちの一つで、前者は屋代島とも呼ばれ、瀬戸内海では、淡路島小豆島に続き3番目に大きな島である。その周防大島は、山口県の最東端に位置し、1976年に大島大橋によって対岸の柳井市と、沖家室島(人口200人)とは、1983年に沖家室大橋によって繋がっている。

 後者は前者に加えて、その周囲に浮かぶ5つの有人島と25の無人島から成る町全体を指す。(地図) 

 周防大島町に属する島のうち次に挙げる島が有人島である。(地図では赤丸で囲っているところ)

 ・屋代島 ・情島(なさけじま) ・浮島(うかしま) ・沖家室島(おきかむろじま) ・笠佐島(かささじま) ・前島(まえじま)

 
 周防大島町は、2004年10月1日、大島郡
久賀町大島町橘町東和町の4町が合併して発足。(地図) 現在大島郡は、周防大島町の1町しかない。


 合併して町名はなくなったが、日本一老人の多い町として知られていたのが東和町だ。そこの片添ヶ浜海水浴場(写真)で、季節外れに、2度も友人家族と一緒に砂浜に鉄板を置いて、バーベキューを楽しんだことがある。

 ところが、「瀬戸内海のハワイ」と呼ばれるほどきれいな海なのに、海水浴には一度も行ったことがない。


  そして、東和町といえばもう一つ、作詞家・星野哲郎(2010年、85歳で没)の出身地である。1988年には東和町の名誉町民に選ばれ、2007年には「星野哲郎記念館」(写真)が落成した。


 次の写真が、懇意にしていた歌手との記念撮影。向かって左から、
鳥羽一郎【兄弟船(1982年)を作詞】、都はるみ【アンコ椿は恋の花(1964年)、夫婦坂(1984年)を作詞】、水前寺清子【涙を抱いた渡り鳥(1964年)、いっぽんどっこの唄(1966年)、いつでも君は(1967年)、三百六十五歩のマーチ、真実一路のマーチ(1968年)を作詞】、北島三郎【なみだ船(1962年)、演歌師、あの頃の唄(1963年)、兄弟仁義、函館の女(1965年)、風雪ながれ旅(1980年)、北の大地(1991年)を作詞】という、日本を代表する歌手たちに囲まれている。

 星野哲郎は、瀬戸内の沖合を行きかう船に思いをはせ、幼少時より船乗りとして海に暮らすことを夢に描いていた。長じて高等商船学校を卒業し、日魯漁業に就職。憧れのマドロス人生であったが、わずか2年の後、腎臓結核のために下船を余儀なくされ、4年にわたる闘病生活を送る。「故郷(周防大島)のせんべい布団の上で、空しく青春を費やした」と当時を回顧する。それでも、温かな周囲の愛情を手がかりに、星野は詩作という小さな『ともしび』を見出した。病床から雑誌に投稿する作品は、やがて歌謡詞というジャンルに絞られ、ついには職業作詞家という航路を照らすに至った。(星野哲郎 公式ウェブサイト いろはにそらしどより)

鳥羽一郎/兄弟船(1982年)

 

大久野島

 2015年のことだからもう6年前のことだが、NHK連続テレビ小説『まっさん』(写真)で、主役のまっさんこと「日本のウィスキー王」、ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝氏(1979年、85歳で没)の生家が、広島県・竹原市の造り酒屋「竹鶴酒造」であることから、一躍同市が全国区に躍り出た。

 
 しかし、いくら有名になったとはいえ、まさか、テレビ東京系人気番組
『アド街ック天国』で同市が紹介されるとは想像もしなかった。名所の少ないところなので、「ベスト20どころか、ベスト5まであるのか?」と余計な心配までしたものだ。

 広島県・竹原市は人口2万4千人。(2021/3/31現在) 瀬戸内海に面し「安芸の小京都」と呼ばれる小さな都市である。(写真)
 
 小学生のときに住んでいたのは、1958年に豊田郡・竹原町と合併した
忠海町、今は忠海地区と言われる地域で、人口4,100人(2021/3/31現在)の小さな町。実は市の中心部、竹原のことはあまり知らない。
 そのときの
ベスト20は次の通りだった。 
 1位:重要伝統的建造物群 保存地区 2位:西方寺 3位:大久野島 4位:酒蔵 5位:アヲハタジャム 6位:岩乃屋 7位:お好み焼き 8位:賀茂川荘 9位:せんべい本舗 黒田 10位:道の駅たけはら 11位:ほり川 12位:魚飯 13位:日の丸 写真館 14位:かまぼこの近末 15位:胡堂 16位:農家レストラン 西野 17位:カフェ ホクストン 18位:竹の茶屋 いっぷく 19位:竹原格子 20位:瀬戸内マリンビュー 
 1位の
「重要伝統的建造物群 保存地区」
「竹鶴酒造」(写真)もその地にあり、よく知っているが、それ以外は無知に近い。ただ、3位の大久野島と、5位のアヲハタジャムは忠海に関係するところなので知っているだけだ。 

 

 大久野島は、広島県竹原市忠海地区から沖合い3kmに位置し、周囲は4.3km。1934年(昭和9年)に瀬戸内海国立公園に指定されている、人は住んでいない。忠海港発のフェリーがあり、フェリー乗船時間は15分程度。島は目の前に見えるところにある。

 ここには何度も出かけた。夏は海水浴場で賑わい、友達とキャンプをしたこともあった。

毒ガスの島 
 大久野島には、明治30年代に日露戦争開戦に備え、芸予要塞の一角として砲台などが設置された。その後砲台は撤去されたが、陸軍は、第一次世界大戦時に、地理的な条件や秘匿の容易さなどから、大久野島を
化学兵器の生産拠点に選び出した。 
 
毒ガス工場の存在は機密性から秘匿され、陸軍が発行した一般向け地図においても大久野島一帯は空白地域として扱われ、「地図から消された島」と呼ばれたが、当時は、地元の農民や漁民、勤労動員学生ら6,500人が一定の養成期間を経て従事していて、大きな問題を抱えていた。その後、毒ガスは終戦後、GHQや政府により、周辺海域への海洋投棄、島内での地中処分といった方法で行われ、除毒措置も施された。しかし処分は十分ではなく、現在でも島内地下4~5mの土壌で高濃度のヒ素が検出されるなど、負の遺産を受け継いでいる。 
 また、大久野島で働いていた職員達にも被害があった。1950年に元従業者から喉頭がんが初めて発見され、また激しい咳や膿性のタン、原因不明の頭痛に悩まされる人が相次いだ。 
 
忠海病院(現・呉共済病院忠海分院、写真)には多くの患者が収容され、自分も子どもの頃には記憶が残っている。これまでに約4,500人の中毒患者の治療にあたっているそうだ。
 
 それで、こうした歴史を風化させないという地元住民の願いにより、1988年には
大久野島毒ガス資料館(写真)が開館した。 
 大久野島には現在も危険な土壌汚染地域や倒壊の可能性がある建物もあるため、立ち入り禁止になっている場所も存在するという。

ラビットアイランド 
 大久野島は、近年では多数のウサギが生息することでも知られ、
「ウサギ島(ラビットアイランド)」とも呼ばれる。 
 戦後はすっかり無人化し、戦争の傷跡だけが残った大久野島だったが、高度成長期の1963年、アウトドアレジャーを推進するために出来た
「国民休暇村」が誘致され、海水浴場あり、キャンプ場あり、テニスコートあり、温泉ありのリゾートアイランドとして生まれ変わった。 
 そして、島外の小学校で飼育されていた8羽のウサギが1971年に島に放されて野生化し、繁殖したが、2011年の卯年(うどし)にちなんで大久野島のウサギがマスコミで取り上げられると、全国的に知られるようになった。それで、大久野島は「ウサギ島」とも呼ばれるようになったという。
 
 

小豆島

 何度もお伝えしたことがあるが、自分の父は小学校の教師だった。妻の父もそうで、父は教頭まで、妻の父は校長まで務めた。
 父が教師というのは誇りだった。今は死語となったかも知れないが、昔先生は
「聖職」と呼ばれていたが、妻の父も同じく、本当に先生らしかった。
 いい教師の見本のような映画としてすぐに思い出すのは、
シドニー・ポワチエ(2017年、90歳で没、写真左)主演の「いつも心に太陽を」(1967年)、ウーピー・ゴールドバーグ(現在65歳、写真中央)主演の「天使にラブ・ソングを」(1992年)と、大石先生役で主演した高峰秀子(2010年、86歳で没、写真右)主演の「二十四の瞳」である。


 そのうちの
「二十四の瞳」だが、恥ずかしながら実はまだ行ったことがない小豆島がその舞台だ。

 主演・高峰秀子の芸歴は長い。1929年、5歳のとき映画「母」の子役でデビュー以降、戦前・戦後を通じて日本映画界の大スターとして活躍した。デビューから1937年(13歳)までの子役時代、日本のシャーリー・テンプルと呼ばれ、天才子役の名を欲しい儘にしている。  
 彼女の人気を決定付けた映画は、1954年(昭和27年)に
小豆島(地図)を舞台として撮影された壺井栄原作、木下恵介監督の不朽の名作「二十四の瞳」だった。19歳から38歳までの大石先生役を演じ分けた高峰秀子さんの名演が光ったが、これで瀬戸内海の小島・小豆島の名前が全国津々浦々に知られるようになった。

 そして、「二十四の瞳」の撮影で当時木下の助監督をしていた松山善三と出会い、1955年結婚し、生涯の伴侶となった。


 物語はこうだ。

 1928年(昭和3年)、大石先生は新任の女教師として小豆島の岬の分教場に赴任する。一年生12人の子供たちの受け持ちとなり、田舎の古い慣習に苦労しながらも、良い先生になろうとする大石先生。


 ある日、大石先生は子供のいたずらによる落とし穴に落ちてアキレス腱を断裂、長期間学校を休んでしまうが、先生に会いたい一心の子供たちは遠い道のりを泣きながら見舞いに来てくれる。
 しばらくして、大石先生は本校に転勤する。その頃から、軍国主義の色濃くなり、不況も厳しくなって、登校を続けられない子供も出てくる。やがて、結婚した先生は軍国教育はいやだと退職してしまう。
 戦争が始まり、男の子の半数は戦死し、大石先生の夫も戦死してしまう。また、母親と末娘も相次いで世を去る。
 長かった苦しい戦争も終わり、大石先生はまた分教場に戻り教鞭を取ることになる。教え子の中にはかつての教え子の子供もいた。その名前を読み上げるだけで泣いてしまう先生に、子供たちは「泣きミソ先生」とあだ名をつけた。
 そんな時、かつての教え子たちの同窓会が開かれる。その席で、戦争で失明した磯吉は一年生のときの記念写真を指差しながら(オリジナル版では指差す位置がずれ、涙を誘う)全員の位置を示す。真新しい自転車を贈られ、大石先生は胸が一杯になり、涙が溢れてきた。その自転車に乗って大石先生は分教場に向かう…
。(Wikipedia 参照)

 今や、卒業式ではいろんな歌が歌われるようだが、この「仰げば尊し」が一番いいと思うのは歳を取った証拠だろうか。

 

佐木島

 父は転勤で、三原市の沖にある芸予諸島の小さな島の一つ、佐木島(地図)というところにある鷺浦小学校に単身赴任した。父が家族と離れるのはそのときが最初で最後だった。その機会に一家は三原市にある「大字」と付く村落から、竹原市・忠海地区に引っ越した。今から64年前、自分は小学校3年生のときのことだった。かの小学校は今は廃校になっているようだ。


 もう、うろ覚えにになっているが、小さいころなのになぜか一人で行き、父の住んでいる家に泊まったことがある。慣れない単身生活で、いつも好きな
カマボコばかりをおかずにして食べていた印象があり、教師は大変だったなと思う気持ちだけは今でも残っている。

 

安芸灘とびしま海道  
 
安芸灘諸島
とは、広島県呉市沖の安芸灘に浮かぶ下蒲刈島から上蒲刈島、豊島、大崎下島、平羅島、中ノ島を経て岡村島(愛媛県今治市関前村)へ至る7つの島のことで、2008年11月、上蒲刈島と豊島間に豊島大橋が開通したことで一本の陸路で本土とつながった。7つの橋が結ぶこの陸路は「安芸灘とびしま海道」と呼ばれている。
 

 

 

 

 この開通を記念して作られたのが、レーモンド松屋の歌う「安芸灘の風」だ。

レイモンド松屋/安芸灘の風(2010年)

<歌詞>

 青くやわらかな この海は島々つつむゆり籠 眠る歴史が 陽炎の中ゆらゆら蝶とゆれてる 関前の空 流れる雲 観音崎からあなたを見送る あれからずっと 戸町瀬戸で その日が来るのを待ってた きっと来るあなたは来る いくつもの橋を渡って きっと来るあなたは来る 安芸灘の光る風に乗って 

 あなたの好きだった 御手洗の古い町並み歩いた 昔のざわめきが 耳をすませば今も鮮やか聞こえる 大長港 みかん船 高燈籠で願いを込めて 風待ち潮待ち あなた待って その日が来るのを信じて きっと来るあなたは来る いくつもの橋を渡って きっと来るあなたは来る 安芸灘の光る風に乗って 

 初めてあなたと 下蒲刈のあかりの館訪ねた であいの岬 夢を語った恋ヶ浜の海まぶしく 櫓を漕ぐ人は あび漁か 十文字山で遥かに見つめる 思い出訪ね あなたしのんで その日が来るのを待ってた きっと来るあなたは来る いくつもの橋を渡って きっと来るあなたは来る 安芸灘の光る風に乗って

 

 今からでも、瀬戸内海の島めぐりをしてみたくなった。

 

 最後はこの曲。故郷の結婚式でこの歌が歌われないときは無かった。

 

小柳ルミ子/瀬戸の花嫁(1972年)