★第186話:アメリカ民謡の父「スティーヴン・フォスター」 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

アメリカ民謡の父「スティーヴン・フォスター」
 
スティーヴン・フォスター(1864年、37歳で没、写真)は、「アメリカ民謡の父」と称され、アメリカ音楽界を代表する作曲家。唱歌としてもなじみの深い、数々の名作を発表した。

 父親は地元ピッツバーグ(地図)で有名な実業家で、彼は裕福な家庭の9番目の子どもとして生まれた。


 しかし、数々の名作を残したにもかかわらず晩年は不遇で、最後は安宿の一室を自宅代わりに転々とした挙句、所持金38セントしかない状態となり、マンハッタンの安ホテルで、短い悲運の一生を終えた。


フォスターと日本

 子供のころは彼の曲を聴く機会が多く、たくさんの曲を知っていた。これは、音楽の授業とラジオの影響が大きい。

 ところが、現在の音楽の教科書には、昔は掲載されていたフォスターの曲が消えているようだ。これは、教科書に掲載されている歌曲数自体が昔のおよそ3分の1にまで減っており、中でも外国の歌曲は10分の1にまで減っている。合唱曲「IN TERRA PAX」などの作曲家・荻久保和明氏はその理由について、日本人作曲家の曲が多く提供されるようになった上に、ゆとり教育により外国の歌曲が削られたからだと説明した。

 うがった見方かも知れないが、その理由は、パン給食と同じように、戦後の日本がアメリカのGHQ(連合軍最高司令官総指令部)におもねった側面もあるのではないかと思っている。

  フォスター歌曲は 1888年、初めて「故郷の人々」が「哀れの少女」という邦題で紹介されたが、日本語の歌詞(大和田建樹作詞)は原詩とは全く異なるものだった。フォスター歌曲の 2番目は「主人は冷たき土の中に」で、1903 年に邦題「春風」(加藤義清)、1908年には同「夕の鐘」(吉丸一昌)として紹介された。3番目が「オールド・ブラック・ジョー」で、1931年に「桜散る」(林古渓)という邦題。さらに、4番目の「ケンタッキーの我が家」は、1935年、「別れ」(伊藤孝)という邦題だった。
 また、フォスター歌曲は学校教育によってだけでなく、ラジオ放送によっても日本全国に広められた。 しかし、1931年の満州事変から日中戦争、さらに 1941年の真珠湾奇襲による太平洋戦争の勃発により、日本は世界戦争に突入する。そうした状況下、フォスター歌曲も敵国の音楽として公共の場での演奏や放送が禁じられることになる。
 1945年の敗戦後、GHQが日本を占領するなか 1947年、戦後初めて演じられたミュージカルは、フォスターの生涯を題材にした
『マイ・オールド・ケンタッキーホーム』であった。1948年、津川主一著の『フォスターの生涯』―アメリカ民謡の父—が出版され、氏自筆の署名入りの一冊がアメリカ・ピッツバーグ大学 にあるフォスター記念館(写真)に寄贈されている。

  このようにフォスター歌曲は、戦争中の分断時期を除き、明治以降一貫して日本の音楽の教育課程に組み込まれ、130年もの長きに渡って、日本人に親しまれてきた。
 フォスター記念館
の館長が、「フォスター記念館には日本人がよく訪ねてくるが、あるとき高齢の日本女性がやってきたので、『故郷の人々』をかけたところ、涙を流し始めたのには非常に驚いた」という言葉もそれを裏付けるものだ。

 

フォスターと黒人差別

 フォスターが作曲した曲の多くは、「クリスティー・ミンストレルズ」というグループが「ミンストレル・ショー」で演奏するためのものだった。「ミンストレル・ショー」とは、白人が焦がしたコルクで顔を黒く塗り黒人のかっこうを真似て歌い踊るショーの一形態で、フォスターの幼少期から大変人気があった。

 しかし、彼は南北戦争(1861~1865年)が始まり、黒人差別が当たり前だった時代に、勇気を出して黒人を励ますメッセージを入れた。南北戦争以前の南部の農園で働く黒人奴隷の苦しみに共感を示し、やさしいネリー」「オールド・ブラック・ジョー」「ケンタッキーの我が家」で黒人奴隷に尊厳を与え、反奴隷運動に力を与え、最後に「人間そのもの」を歌い上げた。移民の国アメリの人々にとって、誰もが胸に抱く故郷への郷愁を揺り動かしたのである。

 

フォスターの生涯と死後の評価

 フォスターの年表を作ってみた。

 貧困と孤独のうちに生涯を終えたフォスターだが、その”復活”は 20 世紀前半の米国で目覚ましく、記念碑、公園や学校名、切手など多くの記念品で称えられた。まず 1900 年、ピッツバーグのハイランド・パークに、バンジョーを爪弾く黒人奴隷(Uncle Ned, 1848)を伴ったフォスター像(写真左)が地元住民によって建立された(破壊行為により、1944 年にフォスター記念館道路向かいのシェーンリー・パーク入口に移された)。1928年には「ケンタッキーの我が家」ケンタッキー州歌に制定される。また、1935 年には「故郷の人々」フロリダ州歌に制定されている。
 ハイライトは 1937年、ピッツバーグ大学構内に
「フォスター記念館」(写真右)が完成し、さらに 1941年、アメリカ初の音楽家としてフォスタ ー胸像がニューヨーク大学の「栄誉の殿堂」(Hall of Fame)に姿を現し、1951年にはアメリカ連邦議会が 1月13 日を「フォスターの日」(Foster's Day)と決議したのである。

 

 たくさんのヒット曲があるので迷ったが、最後はこの一曲で締めくくることにした。

夢見る人

 フォスターは1864年1月13日に37歳の若さでこの世を去っており、この「夢見る人(夢路より)」はその死の数日前に完成したと伝えられている。晩年のフォスターは、20代半ばのような創作意欲・能力もなく、妻と子供と離れ、ニューヨークの安宿で安酒をあおって堕落の生活を送っていた。遺作となった「夢路より(夢見る人)」からは、廃れていく自分の人生を美しい旋律に昇華させることで苦しい現実から逃れようともがくフォスターの姿が目に浮かぶ。まるで自分の死を予感していたような不思議な印象さえある。
マンディ・バーネット/「夢見る人」(夢路より、Beautiful Dreamer、1862年)

 Wikipedia、 「スティーブン・フォスター有名な曲・歌詞の意味・人生」「スティーブン・フォスター」参照。