★第131話:1975年の歌【その7】最終章 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

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 「1975年の歌」の特集はいつのまにか、7回にも及んだ。1975年は45年も前だが、そのころは今よりもずっと音楽に活気があり、テレビ番組でも音楽番組が人気を博していた。

 

音楽番組とアイドル全盛時代

 

 一時代を画した「夢であいましょう」「シャボン玉ホリデー」「ザ・ヒットパレード」等の人気番組は姿を隠したが、代わって始まった「スター誕生」「ザ・ベストテン」「夜のヒットスタジオ」などが隆盛を極めた。

 「スター誕生」は、「日テレ・ナベプロ戦争」と呼ばれ、テレビの草創期から1970年代まで「ナベプロ王国」と称される黄金時代を築いた、芸能事務所・渡辺プロダクションがその絶対的な地位を失った。

 この番組でデビューしたタレントの活躍は、芸能界地図を塗り替えるきっかけとなり、ホリプロ、サンミュージック、田辺エージェンシーらが力をつけ、それら新興プロダクションへのタレント供給源となった。

 オーデション番組として12年間の最高指名社数は、桜田淳子(1973年)の25社で以下、山口百恵(1973年)、新沼謙治(1976年)の20社、黒木真由美(1975年)、渋谷哲平(1978年)の18社、伊藤咲子(1974年)17社、石野真子(1978年)16社、清水由貴子(1977年)14社、森昌子(1972年)13社、中森明菜(1982年)11社、岩崎宏美(1975年)8社、ピンク・レディー(1976年)8社、岡田有希子(1984年)4社、柏原芳恵(1980年)、小泉今日子(1982年)3社と続く。(カッコ内はデビュー年)

 1970年代は、フォークからニューミュージックに変わり、そしてアイドル歌手全盛の時代だった。

  彼女たちのヒット曲の中で1975年発売の曲に絞って聴いてみよう。

桜田淳子/十七の夏

山口百恵/夏ひらく青春

岩崎宏美/センチメンタル

 その後アイドルブームは松田聖子中森明菜と続き、おニャン子クラブ(1985-1987年、写真左)の活躍をピークに、徐々に衰退していく。そして、それと入れ替わるように「CMタイアップ」が始まり、1980年代以降、テレビとの「タイアップ」というビジネス・モデルが登場して、ポピュラー音楽は「聴くもの」から「見て、聴くもの」に変化した。「CMタイアップ」は音楽番組の進行を困難にし、曲の寿命も短くし、人気番組だった「ザ・ベストテン」(写真中央)が1989年、「夜のヒットスタジオ」(写真右)は1990年に相次いで幕を閉じた。(速水健朗著「タイアップの歌謡史」参照)


 

歌謡曲の黄金時代

 

 前回、1970年代は「ニューミュージックの黄金時代」といったが、前述のように「アイドルの時代」であるとともに、作詞家・なかにし礼(81歳、写真左)の「歌謡曲から『昭和』を読む」(NHK出版新書、2011年、写真右)によると、「歌謡曲の黄金時代」であったという。

 彼によると、歌謡曲=流行歌を定義すると、「詩・曲・歌い手」の三つを一セットとし、ヒット(流行)を狙って売り出される商業的楽曲のこと。演歌は歌謡曲の一部であり、本流ではない。そして、歌謡曲は昭和に始まり、昭和で終わったという。

 その終焉は奇しくも「昭和の大スター」石原裕次郎【1987年(昭和62年)、52歳で没、写真左】と、「歌謡界の女王」美空ひばり【1989年(平成元年)、52歳で没、写真右】の死と軌を一にしていた。

 ここでも1975年発売の歌謡曲のヒット曲を聴いてみよう。

細川たかし/心のこり

北原ミレイ/石狩挽歌

太田裕美/木綿のハンカチーフ

都はるみ/北の宿

音楽ビジネスの盛衰①専属制の崩壊とフリー作家の台頭

 

 日本のレコード業界は長い間レコード会社が専属の作詞家・作曲家・歌手をかかえ、制作から販売までを一手に行うという、世界的に見ても特殊な業界だった。「専属制」とは、専属料や印税を払って生活の保障をするが、その代り彼らは他社では仕事が出来ないという閉鎖的な制度である。

 NHK朝の連続テレビ小説「エール」窪田正孝扮する古山裕一(写真左)は、コロンブスレコード専属の作曲家(*モデルの古関裕而コロンビアレコード専属)。

 古賀政男(コロンビア⇒テイチク⇒コロンビア)、吉田正(ビクター)、遠藤実(マーキュリー⇒コロンビア⇒ミノルフォン)、船村徹(キング⇒コロンビア)、市川昭介(コロンビア⇒クラウン⇒フリー)、星野哲郎(コロンビア⇒フリー)…、みんなレコード会社専属の作詞・作曲家である。

 その専属制によって支えられてきた歌謡曲の世界だが、停滞と衰退の兆候が見え始めた。それに風穴を開けたのは前述の渡辺プロダクションだった。ナベプロの先見性は、早くから欧米の「音楽出版社」に注目し、そのシステムを日本に取り入れたことだった。

 最終的にフリー作家と音楽出版社が組んで生み出す曲が勝利を収めた結果、専属制が崩壊した。歌が専属作家から解き放たれ、才能さえあれば誰でも自由に歌を作り、世の中に送り出すことが出来るようになった。それは音楽ビジネスの「革命」だった。

 

 続々とフリー作家が誕生したときだったが、ここでは、2011年の6月から7月にかけて、次の日本の7人の女流作詞家の特集を行ったことがあり、その人達を紹介したい。

 第一回は岩谷時子、第二回は安井かずみ(その後、安井かずみⅡを投稿)、第三回は有馬三恵子(その後、有馬三恵子Ⅱを投稿)、第四回は山口洋子(その後、作詞家・山口洋子死すを投稿)、第五回は阿木燿子、第六回は竜真知子、第七回は三浦徳子(年齢不詳)。(写真)

 投稿時点で、安井かずみは1994年、55歳で亡くなっていたが、岩谷時子は2013年10月25日 97歳で没、山口洋子は2014年9月6日 77歳で没、有馬三恵子も2019年4月18日 83歳でこの世を去った。残るは3人と減り、三浦徳子は年齢不詳だが、阿木燿子は75歳、竜真知子も68歳になった。

1975年発売のヒット曲を聴いてみよう。

阿木煬子作詞:ダウン・タウン・ブギウギバンド/港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ

竜真知子作詞:キャンディーズ/ハートのエースが出て来ない

山口洋子作詞:五木ひろし/千曲川

音楽ビジネスの盛衰②音楽の簡便性と幼稚性が音楽市場を変えた

 

 何処までも滔々と流れ続けると思われた歌謡曲という大河が、終焉し、失われてしまったのには訳がある。

 歌はもともと大人のためにあった。とりわけ、悲しみややるせなさに押しつぶされながら、なお生きて行かなければならない大人のためにあった。

 戦争の時代や戦後の混乱時代を生きる人々にとって、歌とはいつもそんな憧れの対象としてあった。しかし、高度成長の時代、人々は生きることに自信を持つと同時に、歌に対する憧れを理解しなくなった。さらに、女性歌手がドレスを着て歌うことがなくなったとき、歌は日常生活の延長になり、歌に対する憧れは最終的に消えた。(中略)

 私はスターたちが自分の総合的な音楽世界を確保するために迎合している、テレビの中の世界やそこに盛られている価値観に嫌悪感を覚えた。それらは、親しみやすさであり、安心感であり、遊戯性であり、幼稚性であった。そんな世界にどっぷり浸かっている歌手に、本来大人の歌であり、魔性や危険性すら持っている歌謡曲が歌えるはずがない。

 と、なかにし礼はこの本で語っている。

 NHK紅白歌合戦の視聴率は、この状況を如実に表している。去を振り返ると、1963年には81.4%とピークの値を記したが、その後も、1984年までは80%前後の高い値を維持していた。国民の多くが年越しとともに家族でこの番組を見ていたといえる。当時、紅白歌合戦の視聴率は他の高視聴率番組と比較しても図抜けた高さをもっていた。それが、昨年末の2019年の紅白の2部(後半)では37.3%と過去最低となっている。

(ビデオリサーチ(関東)。なお、1989年以後は2番組に分かれたが、後半の2部を表示している)

 

 大人のためにあった音楽がそうではなくなったのには、もう一つ大きな理由があった。そのキーワードは「デジタル化」である。

 CDが登場するまでのアナログ時代、「オーディオ」は「大人の男の高級な趣味」だった。それが、既に小型化や低価格化は進んではいたが、「若者」「女性」が新しい顧客の仲間入りを加速化し、「一家に1台」だったオーディオが、「一人に1台」の時代に突入し、音楽の傾向にも変化が現れた。

 ソニーが世界初のCDプレーヤーとソフト15タイトルを発売したのだ。CDP101という機種で、大卒初任給が13万円の時代に、168,000円。しかし、まだ庶民には手が届かない高価格で、市場に定着するものになるかどうかは疑問符がついていた。なお、CBSソニーからリリースされたCDソフトは3,800円だった。一気にCDが普及したのは、2年後の1984年、ソニーが5万円を切る価格帯のD-50(写真左)(49,800円)を発売してからである。当時、誰しもがあっと驚く価格で、このときの原価率は200%、1台売るごとに5万円の赤字が出ていたそうだ。
  そして、ソニーは他の家電メーカーが参入出来るよう、CDプレヤーの外販化のドアを開いた。各社も赤字覚悟でそれに追従した。1986年末までに20社が参入したという。
 こうして、1984年には23万台/年だったCDプレヤーの出荷台数は、1986年には147万台/年と、急激な勢いで伸びていった。これで瞬く間にCDレコードは普及し、1986年にLPとCDの出荷が拮抗し、翌年の1987年からハード・ソフトとも、名実ともにCDの時代に突入していくことになる。(右図)

 
 この変革は、「作り手」側にも劇的な変化をもたらした。デジタル技術はプロのレコーディング現場にも及び、デジタルレコーダーの登場により、これまで「手作り」だった音楽は機械化され、大量生産が出来るようになった。

 さらにデジタル技術の発展は、演奏者にも波及し、シーケンサー、サンプリング・シンセサイザー、MIDIなどの技術により、楽器を実際に弾くこと無く楽曲を作成できるようになった。
 「スタジオミュージシャンを使う必要がない」「小さなスタジオで済む」「スタジオを使わなくても、自宅の打ち込みで大半が作れる」ことにより、音楽の大量生産と、消耗品化が始まった。「音楽は作品ではなく、商品になった」