世界的なヒット曲になるには、ポピュラー音楽大国のアメリカで売れないと厳しい。英語に訳され、アメリカの人気歌手が歌うか演奏しないでヒットした曲は少ない。フランス語で歌うシャンソンもその例に漏れない。但し、後で2回出る大歌手のエディット・ピアフ だけは例外で、戦後世界的な人気を得、ヨーロッパとアメリカ合衆国、南アメリカで公演旅行を行い、アメリカでの人気は『エド・サリヴァン・ショー』へ8度も出演するほどのものだった。
■ ザ・ブラウンズ/谷間に三つの鐘が鳴る (1959年)
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アメリカの人気トリオ、ブラウンズ (The Browns、写真)は、ジム・エド・ブラウン 、彼の妹マクシーン とボニー・ブラウン 。2006年に再結成したが、今は全員が鬼界に入った。一 番最初に他界したのは、ジム。2015年6月11日、81歳で肺がんで亡くなった。妹のボニーはその翌年の 2016年7月16日に、77歳、同じく肺がんで。姉のマキシンは2019年1月21日に87歳で心臓病と腎臓病の合併症で亡くなった。
彼らの代表作は何と言っても、1959年に全米1位になり、グラミー賞にもノミネートされ、1 00万枚以上売れた大ヒット曲「谷間に三つの鐘が鳴る」 (Three Bells)である。現在ではカントリーの名曲とされているが、原曲はシャンソンで、1946年にエディット・ピアフ (1963年、47歳で没、写真)が歌ったものをカヴァーした。
実は彼らはこの曲を最後に解散しようとしていたが、この曲のヒットで解散できなくなったそうだ。 ちなみに 三つの鐘 とは、 誕生、結婚、死 を指す。
ナッシュビルサウンド と呼ばれた、その3人の美しいハーモニーには心を癒されたものだ。 なお、 これが再結成後の歌。歌に深みが増し、みんないい歳の取り方をしている。
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エディット・ピアフ/谷間に三つの鐘が鳴る
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■ エルヴィス・プレスリー/好きにならずにいられない (1961年)
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「好きにならずにいられない」 (Can't Help Falling In Love )は、エルヴィス・プレスリー (1977年、42歳で没、写真)が1961年に制作・発表したシングル。全米1位は獲得できなかったが、プレスリーの代表的なバラードの一つとして知られ、後年、コリー・ハートや、UB40、A*Teen等のアーティストによるカバーでもヒットした。
この曲は、18世紀のフランスで生み出された、ジャン・ポール・マルティーニ (1816年、74歳で没、写真)作曲の楽曲「愛の喜びに」 (Plaisir d'Amour)のメロディを元に作曲された。
彼が主演の映画『ブルー・ハワイ』 (写真)で使用され、1970年代のプレスリーのステージで、クロージング・ナンバーとして歌われることが多かった。
ナナ・ムスクーリ/愛の喜びに
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マリアンヌ・フェィスフル /愛の喜びに
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■ フランク・シナトラ/マイ・ウェイ (1969年)
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フランク・シナトラ (1998年、82歳で没、写真左)の代表作「マイ・ウェイ」 の原曲は、「Comme d'habitude」(いつものように)(1967年)(作詞:クロード・フランソワ、ジル・ティボ、作曲:クロード・フランソワ、ジャック・ルヴォー)で、作詞・作曲をしたクロード・フランソワ (1978年、39歳で没、写真中央)が歌ったフランスの曲。「ダイアナ」などの歌で知られる、シンガーソングライター・ポール・アンカ (現在78歳、写真右)がクロード・フランソワと交渉し、無償で権利を得た。
そして、フランク・シナトラのために「マイ・ウェイ」(My Way)というタイトルで詞の内容も原曲の内容とは無関係のものを作り、1969年に発売された。
マイ・ウェイは、アメリカでは27位を記録し、イギリスでは40位以内を75週間継続(1969年4月から1971年9月まで)する、とてつもない記録を作った。75位以内ではさらに49週間も継続したが、最高位は最初にランクされた5位止まりだった。クロード・フランソワ/いつものように (1967年)
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「愛の讃歌」 (Hymne à l'amour) (1950年)は、エディット・ピアフの恋人でプロボクサーだった、マルセル・セルダン (1949年、飛行機事故により33歳で没、写真)に捧げられた情熱的な曲で、「ばら色の人生」と並んで彼女の代表作となっている。
カバーした「リトル・ミス・ダイナマイト」 と称されたアメリカの歌手・ブレンダ・リー は、パンチの効いた歌声で、まるで違う曲かと思うほどの素晴らしい歌唱力を披露している。小柄であるのは、エディット・ピアフと同じである。
1960年代の前半を席巻した男性歌手の双璧が ニール・セダカ と ポール・アンカ だとすれば、女性歌手に ブレンダ・リー (現在75歳、写真左)が加わることは間違いないだろう。あと思いつくのは、 コニー・フランシス (写真中央)とか、 ヘレン・シャピロ (写真右)だろうか。 彼女の曲はカヴァーが多いが、どれもオリジナルに勝るとも劣らない歌唱力である。 ここで紹介する「愛の讃歌」はもちろんエディット・ピアフ、「サンフランシスコの思い出」はトニー・ベネット、「世界の果てに」はスキーター・ディビスがオリジナル、「月に飛ぶ思い」はジュリー・ロンドンやアストラッド・ジルベルトの歌が有名だが、個人的にはどれもブレンダ・リーの方が好きだ。
エディット・ピアフ./愛の讃歌
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■ ロジャー・ウィリアムズ/枯葉 (1955年)
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「枯葉」 (Les Feuilles mortes )は、シャンソンの代表的な楽曲である。 1945年にジョゼフ・コズマが作曲し、後にジャック・プレヴェールが詞を付けた。ミディアム・スローテンポの短調で歌われるバラードで、6/8拍子の長いヴァース(序奏部)と、4拍子のコーラス部分から成り、プレヴェールのフランス語原詩の内容は、若いころお互いに愛し合っていたふたりが別れざるを得ず、それぞれの人生を送ったあと、再び出会った時には北風に吹かれて舞う枯葉のようだったと慨嘆し、海岸の砂浜を歩くふたりの足跡も波が静かに消し去っていくという余情の溢れるものである。
映画「夜の門」は戦後の世相を背景とした群像劇で、映画に出演した新人歌手イヴ・モンタン によって劇中で歌われたのが歌曲としての「枯葉」のオリジナルとなったが、このバージョンは映画共々ヒットしなかった。しかし、これに続いて当時人気があった知性派の女性シャンソン歌手ジュリエット・グレコが歌ったことで「枯葉」は世に認知されるようになり、1940年代末から1950年代にかけ広まって、シャンソン界のスタンダード曲となった。
フランス語歌曲の「枯葉」が、ポピュラー音楽大国のアメリカ合衆国に持ちこまれたのは1949年である。しかし、フランス語の歌詞ではアメリカの一般大衆相手に売れるはずもなく、アメリカでこの曲を売り出そうとしたキャピトル・レコードの方針で、英語歌詞が付けられ、"Autumn Leaves"という英語題で発表された。最初に英語詞で歌ったのは、1950年のビング・クロスビー 。以後、1952年のナット・キング・コール のバージョンなどボーカルを中心に何種かのバージョンが送り出されたが決定打にはならず、本格的に広まったのはインストゥルメンタル版でポピュラー・ピアニストのロジャー・ウィリアムズ (Roger Williams)がヒットを飛ばしてからであった。ウィリアムスのバージョンは、枯葉の舞い散る様をピアノで模したきらびやかなアレンジが大衆に大受けして1955年に全米ヒットチャートで4週連続第1位を達成し、彼 の影響で、この曲は以後もムード音楽分野では、ストリングスやピアノを用いて無闇に甘ったるく切々と演奏されるのが定番のスタイルとなった。
イヴ・モンタン /枯葉