●大学別の著名な歌手
◆東京芸術大学(旧:東京音楽学校)
東京芸術大学(旧:東京音楽学校)からは有名歌手が輩出している。
藤山一郎は、日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。本名は増永丈夫。本名ではクラシック音楽の声楽家・バリトン歌手として活躍した。
1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』など数多くのヒット曲を世に送った。理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、その格調の高い歌声は「楷書の歌」と評された。1992年、国民栄誉賞を受賞した。
藤山一郎/長崎の鐘(1949年)
東京音楽学校在籍中、その奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。
卒業後、地元の広島の三次高等女学校(現在の広島県立三次高等学校)で教鞭をとる。
1936年春(当時21歳)、コロムビアの専属となる。「愛の揺り籃」が最初のレコードだった。「あの夢この夢」「月に踊る」「乙女十九」などで世に知られ1939年、松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットすると人気歌手としての声価を得る。
戦後になると、「別れても」「夜のプラットホーム」「恋の曼珠沙華」「さよならルンバ」「村の一本橋」など多くのヒット曲を放った。1950年の「水色のワルツ」は、綺麗なメロディーに二葉あき子の歌唱が合い、人々に潤いをあたえた。
二葉あき子/水色のワルツ(1950年)
●岸洋子(東京芸術大学大学院出身、1992年、57歳で没、写真)
岸洋子は、日本のシャンソン歌手、カンツォーネ歌手。山形県酒田市出身。
オペラ歌手を目指していたが、心臓神経症のため断念する。病床で聴いたエディット・ピアフのアルバムに感動してシャンソンに転向した。
日本のシャンソン界において、越路吹雪と人気を分け、「魅せる越路、聴かせる岸」と評価されていた。
「夜明けのうた」「恋心」「希望」など、ヒットを連発する中、1970年9月下旬に膠原病を発症する。後遺症と闘いながらも歌手活動を続けていたが、1992年、57歳で他界した。
岸洋子/希望(1970年)
●森麻季(東京芸術大学大学院出身、現在48歳、写真)
森麻季は、日本のソプラノ歌手。二期会会員。幼い頃よりピアノを習い、国立音楽大学附属小学校ピアノ科に入学。東京芸術大学音楽学部声楽科を経て、同大学院独唱専攻を修了。在学中に安宅賞受賞。
文化庁オペラ研修所修了後、五島記念文化財団オペラ新人賞を受賞し、文化庁派遣芸術家在学研修員としてミラノのヴェルディ国立音楽院に留学。また、ミュンヘン国立音楽大学大学院を修了した。第26回イタリア声楽コンコルソ優勝、ミラノ大賞受賞。モーツァルトコンクール優勝など、数々のコンクール受賞歴を誇る。
森麻季/からたちの花(1925年)
◆国立音楽大学
●菅原洋一(現在85歳、写真)
菅原洋一は、国立音楽大学大学院卒業後、1958年にタンゴバンド「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」に参加し、歌手デビューをする。
菅原洋一/今日でお別れ(1967年)
●佐藤しのぶ(現在60歳、写真)
佐藤しのぶは、音楽とは無縁の一般家庭に育つ。声楽を島田和子、中山悌一、田原祥一郎に師事。文化庁オペラ研修所に最年少で入所し首席で修了。文化庁芸術家在外研究員としてイタリアミラノへ留学。「椿姫」でデビューにして主役を演じる。
1987年、オペラ歌手として初めてNHK紅白歌合戦に出演(以後、4年連続出演)。椿姫でオペラの素晴らしさを伝え、音大への関心を高めるのに一役買った。
2013年には核廃絶を願い、「リメンバー」を歌い、平和運動にも力を入れている。(写真)
続く。