「兼高かおる」を始め、訃報相次ぐ | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。


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 有名人の訃報が相次いでいる。兼高かおるさん(90歳、心不全で1/5没)、天地総子さん(78歳、脳梗塞で1/6没)、梅原猛さん(93歳、肺炎で1/12没)、市原悦子さん(82歳、心不全で1/12没)だ。

 市原悦子さんについては、NHKのテレビ番組を見ているとテロップが流れたので、何事かと思ったら、彼女の訃報の知らせで、ここまで国民的な大ニュースなんだと驚いたものだ。

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 1月8日の拙ブログ「冬に思う」で、のように、『1月、2月という冬の死亡率が年間で一番高い。

 特に老人にとって冬の健康管理が一番大切だ』と述べたが、正にその通り。そして、みんな老人の代表的な病気で亡くなっている。
イメージ 2 ところで、自分の「アクセス解析」(図)は、ほとんど毎日見ているが、そのランキングに最近変化が起きている。

 どうやらこの方たちの「死」に関係がありそうなのである。

 自分のランキング・ベストテンは、ほとんどいくつかの過去の記事で固定している。いわば常連客のようなものである。それが、ときどき新参者が現れる。

 例えば、こんな記事だ。


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 前者は、紀行番組「兼高かおる世界の旅」(左画像)、後者は、NHKテレビのバラエティ番組「連想ゲーム」(右画像)で、天地総子さんが3代目の紅組キャプテンを務めたことを簡単に伝えたことがランキングのトップに躍り出た理由ではないかと思う。


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 なお、訪問者数については、もうすぐ10年、2500作を超えたブログのお陰で、最近の投稿が少ない割には望外の一日400人以上の方に見ていただいている状態が続いている。

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 今回は紙面の都合もあり、兼高かおるさんのことについてのみの記事としたい。
兼高かおる

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兼高かおる世界の旅

 海外渡航が自由化される前、海外旅行が夢のような1959年に、紀行番組『兼高かおる世界の旅』は始まった。そのとき、兼高かおるは31歳。

 当時のテレビは白黒(写真)TBS系列局で主に毎週日曜日朝に放送され、自分もずっと見ていた。そのとき10歳だった。

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 まだ女性の社会的地位が低い時代に、若い彼女が世界を股にかけ、ディレクター、プロデューサー、レポーター、ナレーター、そして時にはカメラマン全てを兼ねるという縦横無尽の活躍ぶりに目を丸くしたものだ。

 その美貌と品の良さ、一人称が「わたくし」で、笑い方が「ホホホ」と言うのにも驚いた。まだ若いのに、こんな女性が日本にいるんだ。

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 当時TBSアナウンサーだった芥川隆行(1990年、71歳で没、写真)との掛け合いも楽しみの一つだった。彼は、後に「木枯し紋次郎」などで、ナレーションの第一人者となった。

 正確に言うと、放送開始当初のタイトルは『兼高かおる世界飛び歩き』だったが、1960年6月19日放送分をもって一旦中断し、同年9月20日放送分から放送を再開し、『兼高かおる世界の旅』に改題した。

 放送回数は『世界飛び歩き』を含めて1990年9月30日にかけて30年10か月の間の1,586回。全行程は721万kmで何と、世界各地160か国を取材し、地球を180周した計算になる。

 テーマ曲(1977年まで)は、映画「80日間世界一周」(1956年)の同名の主題曲。

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 「80日間世界一周」は、「SFの父」と呼ばれるジュール・ヴェルヌ(1905年、77歳で没、写真)が1873年に出版した、フランスの小説を映画化したもの。 

 大プロデューサーとして知られたマイク・トッドがプロデュース、イギリス出身の若手監督マイケル・アンダーソンが監督した。

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 1872年、イギリス人資産家フィリアス・フォッグ(デヴィッド・ニーヴン20,000ポンドの賭けに勝利するため、執事のパスパルトゥーマリオ・モレノ)を従え、後期ビクトリア朝時代の世界を80日で一周しようと試みる、波瀾万丈の冒険物語。(写真)


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 音楽は、ヴィクター・ヤング(1956年、57歳で没、写真)。1930年代中頃より映画音楽に専念し、アカデミー賞に22回ノミネートされたが、生前に受賞することはできず、死後にこの「80日間世界一周」でアカデミー作曲賞を受賞した。

 他に「シェーン~遥かなる山の呼び声~」(1953年、映像)などがある。映画エデンの東」の演奏も素晴らしい。



兼高かおるの経歴

 兼高かおるさんの経歴に少し触れてみよう。

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 兵庫県神戸市生まれ。本名は兼高ローズといい、父親はインド人。1946年香蘭女学校卒業後、1954年ロサンゼルス市立大学に留学。その後ジャーナリストとしてジャパンタイムスなどで活躍する。香蘭女学校では黒柳徹子の先輩にあたり、「徹子の部屋」にも出演している。(画像)


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 自分の妻の旧姓は「兼重」という。

 これも珍しいが、同じ「兼」を使っている「兼高」という名字もあまり聞いたことがない。

 「名字由来NET」によると、兼高姓は、9,524位の全国で790人。静岡県が一番多く、250人だという。(図)

 朝日新聞1月13日の文化・文芸欄にこんな記事が載っていた。


 「兼高かおる世界の旅」は女性たちが特に注目していた番組でした。女性でも自分の得意分野を仕事にできる。さらにその仕事が海外を紹介するものだという驚き。放送が始まった1959年当時は、自由に海外旅行に出られなかった時代です。誰にでも会って、どこへでも飛び込んでいく人だったから、パイオニアとしてテレビ局にも重宝されたんだと思います。

 TBS社員も当時はみんな海外経験が乏しい。語学が堪能で経験豊富な兼高さんに頼らざるを得ませんでした。航空会社や日本の商社の駐在先に現地で紹介してもらうなどして取材していました。「ホテルの手配から何から全部私がするのよ」「チェックインの名前も私が書くのよ」と言っていましたね。出演者なのに取材のコーディネートから編集作業、ナレーションまで一手に引き受け、1回取材に出ると2カ月は戻りませんでした。

 取材映像を見て一番すごいと思ったのは、兼高さんが取材先で現地の食事を出された時に絶対に残さないことです。ヤギの頭が出てきても、驚いたり嫌がったりすることもなく、勧められるままきれいに食べる。男性スタッフの中には食べられない人もいたので、みんなで感心しました。

 私がプロデューサーを務めたのは番組が終わった90年までの6年間です。この頃になると当初に比べて海外も身近になり、取材先も似たような場所が多くなるというジレンマを抱えていました。すると兼高さんは、チャールズ皇太子のインタビューを自ら取りつけてきた。なんとか付加価値を付けようと懸命だったのだと思います。

 それでも最後には視聴率の低迷やスポンサー事情で幕引きが決まりました。過酷なロケで、体調や年齢的にも厳しそうでしたが、兼高さんは「どうしてやめるんですか」と言って納得できない様子でしたね。

 晩年まで送られてきたはがきも、今年はどこの国に行ったとか、クルーズ船に乗ったとか海外旅行の話ばかりでした。船の上で講演もしていたようです。兼高さんの心の中で、番組は続いていたのかもしれません。今度はお星様に乗って旅をしているのかしら。
(聞き手・矢田萌)



 ご冥福をお祈りいたします。合掌。