今年は日本国憲法施行70周年という記念すべき年である。安倍首相の、かつてない踏み込んだ発言もあり、憲法改正問題がまた大きな話題を呼んでいる。
あれから(《もはや「戦後」ではない》と言った1956年から)60年経った今も戦後は終わっていないということだろうか。
1956年(昭和31年)7月に発表された経済白書で、太平洋戦争後の日本の復興が終了したことを指して《もはや「戦後」ではない》と記述され流行語にもなったが、それは、1人当りの実質国民総生産(GNP)が、55年に戦前の水準を超えたからだという。
ここで戦前とは、1934年~36年平均をいうそうだが、日本は戦争のせいで20年間も経済が足踏みしていたことになる。
20年は長過ぎた。大きな要因として、日本が行った戦争は自国民の人命を軽視し、基礎的な生活条件を破壊したことが挙げられる。
ナチス・ドイツでさえ敗戦の瀬戸際まで開戦時の消費水準を保ったのと対照的である。
日本は徹底して生活を切り詰めさせ、戦略爆撃が始まり敗戦必至になってからも天皇制の維持を事実上約束させるまで戦い続けて住宅も約210万戸失った。
敗戦後、アメリカ政府・GHQは、日本の経済再建に関しては当初「ハード・ピース」路線、すなわち、日本から近代工業施設を撤去し、外国貿易も遮断して農業国にするという方針を採っていた。
トルーマン大統領の個人的代表として来日した日本派遣賠償視察団E・ポーレー大使は「われわれは日本経済の最低限度を維持するに必要でないすべての物を日本から取り除く方針である」と言明した。
日本政府は、鉄鋼業や石炭鉱業などに重点的に資金を配分する傾斜生産方式等を採用し経済の再建に努めたが、インフレの昂進や技術の立ち遅れなどでなかなか成果は上がらなかった。
日本政府は国民に一世帯一月500円の生計費でいこう、というインフレ対策を打ち出した。当時の100円が現在の約2万7千円程度なので500円というと現在の約13万円程度で、当時のことを伝えるこんな映像がある。
竹内信次監督作品「家計の数学 生計費500円」(1946年)

政府が国民に押し付けた生計費500円という政策について、当時の闇市(写真)やら食糧事情をうまく映している。
1947年(昭和22年)には法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官・山口良忠が餓死するという事件も起きている。この政策は国民をあまりにもバカにしているので変えるべきだ、という主張が混じった記録映画である。

ところが、「奇跡の復興」と呼ばれたように、敗戦後10年で立ち直ったのは早かったという側面もある。
事態が転換し始めたのは冷戦の激化がきっかけだった。48年のアメリカのロイヤル陸軍長官の文書などに示されるように、対日方針は転換された。
経済面では、工業を発展させることによって経済を再建し日本を反共の防波堤にする「ソフト・ピース」路線に変更された。
その一環として、戦争による実物賠償は棚上げされ、さらに、50年6月に勃発した朝鮮戦争(写真)が情勢を一変させた。
緊縮財政であるドッジ・ラインの下で需要不足に悩む経済は、朝鮮半島に出兵したアメリカ軍への補給物資の支援、破損した戦車や戦闘機の修理などを日本が大々的に請け負い(朝鮮特需)、日本経済は大幅に拡大された。

但し、技術革新などにより経済の自立を目指す日本国民の努力と、所得分配の相対的な平等化の進行による購買力の増大があったことは重要だ。
平等化の進行は、総力戦の遂行の観点から国民の協力を得るために必要だったこと、敗戦後の激しいインフレ、GHQによる民主化政策等の結果である。
「もはや戦後ではない」生活は、朝鮮の人々の悲劇、戦後の賠償もきちんとしない東南アジアの人々の貧しいままの生活、さらには、沖縄の人々の生活等の犠牲の上に立っていたことは忘れられがちで、日本国憲法の視点から見つめ直す必要がありそうだ。(http://www.jicl.jp/index.html参照)
「歴史は繰り返される」
今や、1000兆以上の借金をかかえ閉塞状態の日本では経済を立て直す名案がない。こんなとき過去の歴史では必ず「戦争」で物事を解決しているのである。
最近の政治の動きを見ていると、それがとても「夢物語」だとは言い切れないのが怖い。
そしてそのとき決まって出て来るのが「昔は良かった」という話と、必ず仮想敵国を作る元になる、近隣諸国に対する「ヘイト発言」だ。
自分は戦後1949年(昭和24年)生まれなので戦争体験はないが、幼いころはまだ至る所に戦争の爪痕が残っていた。これが、さらに戦中となると、大変だったことは想像に難くない。
「昔なんて良いことばかりではなかった」のである。
過去の思い出は、オブラートに包まれていい記憶しか残っていないのが通常の人間の生理だし、日本の近代史について、先入観を捨て、改めて勉強しなおすことが大切である。
これから拙ブログでは、「戦後間もないころのこと」について
1.国民を勇気づけた音楽
2.世相…帰還兵、米軍の占領政策など
3.生活…食事、乗り物、娯楽など
4.職業…当時流行した職業
などという観点から、音楽を交えて何回か連載していきたいと思う。

ところで、春川ひろし氏(写真)の「近代音楽」の原点は『童謡』にありには、こんなことが書かれてある。
「四大国民愛唱歌」…太平洋戦争後、復興に全てを掛けていた日本人を勇気づけ励ましてくれたこれらの曲が無かったら、その後の世界的に見ても驚異的と言われる日本の戦後復興は先ず「あり得なかった!」とさえ言われる特筆すべき四大名曲です。

●並木路子/リンゴの唄(1946年)

同映画の主題歌は「そよかぜ」で、レコードのA面が「そよかぜ」、B面が「リンゴの唄」として発売された。並木路子(2001年、79歳で没、写真)は、映画の主演だった。

この作曲者の万城目正(1968年、63歳で没、写真)は、彼女に「もっと明るく歌うように」と指示した。しかし、この注文は当時の並木には酷で、並木は戦争で父親と次兄、東京大空襲で母を亡くしていた為、とてもそんな気分にはなれなかった。
それを聞いた万城目は「君一人が不幸じゃないんだよ」と諭して並木を励まし、あの心躍らせるような明るい歌声が生まれたという。なお、レコードは1945年12月に録音され、1946年1月に発売された。(Wikipedia参照)
●川田正子/鐘の鳴る丘(1946年)
「鐘の鳴る丘」は1947年から1950年までNHKラジオで放送されたラジオドラマ、およびそれを原作とした映画。
この放送企画はCIE(連合軍総司令部民間情報教育局)の指令で、60万人を超すと言われる「戦災孤児」を明るく元気づける目的でNHKが企画した番組で、歌詞は菊田一夫、主題歌など音楽を古関裕而が担当した。なお、歌の題名は「とんがり帽子」だが、ドラマの名前から「鐘の鳴る丘」と呼ばれることも多い。
主題歌の「とんがり帽子」は川田正子と音羽ゆりかご会が歌い、その歌声は790回に及んだ。
その後、1948年の選抜高校野球の入場行進曲や、古関の母校である福島県立福島商業高等学校の応援歌の一つとして使用されている。


全国各地に歌碑や記念施設も多く、明治記念館 (岩手県奥州市江刺区)では朝と夕方に「とんがり帽子」のメロディーを流している。
鐘の鳴る丘少年の家 (群馬県前橋市堀越町、写真左)、映画の舞台となった青少年更生施設有明高原寮 (長野県安曇野市穂高、写真右)、映画のロケ地栂池高原スキー場 (長野県北安曇郡小谷村)がある。(Wikipedia 参照)
●藤山一郎&奈良光枝/青い山脈(1949年)

作曲者の服部良一は、著書の中で「梅田から省線に乗って、京都に向かう途中のこと、日本晴れのはるか彼方にくっきりと描く六甲山脈の連峰をながめているうちににわかに曲想がわいてきた」と記している。


発表当初は藤山一郎(1993年、82歳で没、写真左)と奈良光枝(1977年、53歳で没、写真右)が歌っていたが、奈良が早世したこともあり藤山一郎の歌として有名である。
●川田正子/みかんの花咲く丘(1946年)
◆童謡歌手の頂点、川田三姉妹
川田三姉妹のうち、川田正子(2006年、71歳で没、写真右)と、川田孝子(現在70歳)は後に作曲家、海沼實(1971年、62歳で没、写真左)と再婚する川田須磨子の連れ子で、末妹の川田美智子(現在は海沼美智子)は実子である。

三姉妹のうち最も有名なのが、長女の川田正子で、日本の童謡歌手の先駆けであり、最大の功労者の一人と言われている。

最後の公演となった、2006年1月21日の長崎県で行われたコンサート。いつものように16曲を歌い上げ、翌日、入浴中に心不全で倒れる。71歳だった。
◆たった一日で作られた「みかんの花咲く丘」
この曲は1946年9月25日にNHKが当時始めて、東京田村町の放送局を出て静岡県の伊東市から生番組を放送する事を決定し、その際多くの人にその地を知って貰おうと、急遽その2日前の23日に「聴取者に何か静岡県が思い浮かぶ詞を書き上げて!」と、こんな極めて無理難題を勝手に依頼する。
少女歌手として戦時中から活躍していた川田正子は当時13歳。彼女の人気は、「とんがり帽子」とこの「みかんの花咲く丘」あたりで絶頂期に達したようだ。
音楽雑誌の編集者、加藤省吾(2000年、85歳で没)が1946年の夏、川田正子のインタビューのために、東京・新橋にあった川田の自宅に出かけたときのこと、まだ物資不足のそのころとしては珍しい赤飯のごちそうにあずかり、それとひきかえのように海沼實から切り出されたのが、作詞の依頼だった。
加藤は、1937年に「かわいい魚屋さん」(作曲:山口保治)の作詞をしており、その腕を見込んでの依頼だったようだが、明日歌う歌の歌詞を、とは、また急な話だ。
それでも断るわけにはいかなったのだろう、加藤は「それではやってみます」と応諾の返事をすると加藤の、目の前に原稿用紙が広げられた。その場で歌詞を書けというわけだ。
サトーハチロー作詞の「リンゴの唄」が流行しているので、ミカンでいこうとアイデアがひらめいて、小一時間で3番までの歌詞が出来上がった。
さて、歌詞が出来上がると、すぐに作曲担当の海沼實が原稿用紙をカバンに詰め込み、向かった先は、アメリカ軍の民間情報教育局(CIE)と民間検閲支隊(CCD)。当時の日本はまだ占領下で、新作童謡の歌詞は、アメリカの検閲を受けなければならなかった。

国府津あたりでふとひらめいて、何とか仕上げたが、譜面を書いている暇はない。向かいの席に座っている川田に、口伝えでメロディを伝えた。
果たして翌日、ラジオから無事、川田の歌声が流れ、新曲「みかんの花咲く丘」は全国に大反響を呼んだのだった。(画像は、二木紘三のうた物語より)
続く。