今年に入ってブログ作成のピッチは速い。これで14作目。昨年同時期は10作だったのでペースとしては快調だ。
■人生の贈り物
こんな右の歌の歌詞に気づいた。
歌手のさだまさしが、故郷の長崎県で1987年に始め、2006年まで行った「夏 長崎から さだまさし」という無料の野外コンサート。
「長崎原爆の日の3日前にあたる広島原爆の日の8月6日に、「長崎から広島に向かって平和について歌う」ことを目的に行われていた。
2003年8月6日、韓国最大のフォークシンガーであり、韓国フォーク界を牽引する代表的女性歌手・楊姫銀(ヤン・ヒウン)(写真)とさだまさしが共演した。
この時披露された歌は、楊姫銀の作詞、さだまさし作曲による新曲で、年老いた主人公が、ゆるやかに過ぎてゆく日々を淡々と、しかし喜びをこめて歌った曲であり、NHK-BSで放送されるやいなや、全国で大反響を呼び、そのCD化を望む声が各地から殺到した。
それがこの曲、「人生の贈り物」(写真)である。
とても感動的な詩だ。
■花との関わり
いわゆる働き盛りと言われる、仕事に夢中な頃は花に関心が減った。心のゆとりが無かったのだ。
<歌詞>この道はいつか来た道 ああ そうだよ あかしやの花(写真左)が咲いてるあの丘はいつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよこの道はいつか来た道 ああ そうだよ お母さまと馬車で行ったよあの雲もいつか見た雲 ああ そうだよ 山査子(サンザシ)(写真右)の枝も垂れてる
「あかしや」、「白い時計台」から、札幌市を思わせる風物が盛り込まれている。歌詞の通り、札幌時計台(写真)は夏の季節、ニセアカシアの花に彩られる。
「お母さまと馬車で行ったよ」-「この道」のこの一節に、作曲家の山田耕筰(1965年、79歳で没、写真)は、激しく共感した。耕筰もまた母を恋う子だったのだ。
■生駒高原
宮崎市内から小林、えびの高原方面に向かって、国道10号・268号線経由して車で70分程走ったところに生駒高原がある。うっかりすると通り過ぎそうな場所だが、間違いなく素晴らしい景色を堪能することができる。(ちなみに、宮崎道小林ICからは車で10分)
市内を一望する標高540メートル、霧島連山が背に広がる生駒高原は、雄大なお花畑。12万平方メートルの敷地に、春には菜の花が咲き誇り、さらに色とりどりのアイスランドポピーが一面をいろどる。そして秋になると、100万本ものコスモスが高原を埋め尽くす。
岩崎宏美/人生の贈りもの(2004年)
■花との関わり
子供の頃、春は、赤い絨毯に敷き詰められたレンゲ畑でよく遊んだものだ。主に相撲。肥やしになることが分かっていたので、レンゲを踏むのに容赦なかった。
今は写真のようなレンゲ畑を見ることが少なくなった。
自分の家の庭にタキイ種苗の通販で種や球根を買って植えていた。その頃はクロッカス(写真)の花が大好きだった。
ビリー・バンバン/れんげ草(1972年)
いわゆる働き盛りと言われる、仕事に夢中な頃は花に関心が減った。心のゆとりが無かったのだ。
今の会社では退社する社員に漏れなく花束贈呈を行っている。
辞めるにはいろんな理由がある。円満退社ばかりではない。それでも別れるときの最後だけは今後の活躍を祈って暖かく見送りたい。自分が直接花屋に行って見つくろう場合も多い。その人にふさわしい素敵な花を贈ってあげたいと思う。
カトレア(写真左)のように華々しい人生もあれば、タンポポ(写真右)のように、そっと野に咲く花の人生もあるが、ほとんどの人は後者の人生を目指す。
政治も会社もそんな人を大切にする社会であって欲しい。
タンポポ児童合唱団/たんぽぽ
■野に咲く花
ダ・カーポ/野に咲く花のように(1983年)
<歌詞>野に咲く花のように 風に吹かれて 野に咲く花のように 人をさわやかにして そんな風に僕たちも 生きてゆけたら素晴らしい 時には暗い人生も トンネル抜ければ夏の海 そんな時こそ野の花の けなげな心を知るのです…
「野に咲く花のように」は1983年から1996年まで関西テレビと東阪企画が制作し、フジテレビ系列『花王名人劇場』(後に『花王ファミリースペシャル』)で放映された放浪の天才画家・山下清(1971年、49歳で没、写真左)を主人公にした、芦屋雁之助(2004年、72歳で没、写真右)主演の『裸の大将放浪記』の主題歌として作られた。
旧姓・久保田広子(写真右)と榊原まさとし(写真左)の夫婦デュオ、ダ・カーポ(写真)が歌った。
ダ・カーポは、久保田は1980年に榊原と結婚し榊原姓になり、2007年にはデビュー35周年を契機に娘の榊原麻理子をメンバーに加え3人のグループになったが、2013年に娘がパリへ留学することになり再びデュオに戻った。
作詞:杉山政美、作曲:小林亜星。小中学校の音楽教科書に掲載されている。
■この道
藤山一郎/この道(1927年)
<歌詞>この道はいつか来た道 ああ そうだよ あかしやの花(写真左)が咲いてるあの丘はいつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよこの道はいつか来た道 ああ そうだよ お母さまと馬車で行ったよあの雲もいつか見た雲 ああ そうだよ 山査子(サンザシ)(写真右)の枝も垂れてる
「この道」は、北原白秋作詞、山田耕筰作曲の日本の童謡である。
歌詞には、白秋が晩年に旅行した北海道と、母の実家である熊本県南関町から柳川までの道の情景が歌い込まれている。
「あかしや」、「白い時計台」から、札幌市を思わせる風物が盛り込まれている。歌詞の通り、札幌時計台(写真)は夏の季節、ニセアカシアの花に彩られる。
作詞の北原白秋(1942年、67歳で没)は、1925年(大正14年)、樺太観光の後に訪れた札幌で着想を得た。
しかし、当時札幌時計台の色は薄茶か薄緑で、街路樹のニセアカシアも花の時期はとうに過ぎていたという。札幌を描いた詩に、母の実家である熊本県南関町から柳川までの道の情景が歌い込まれているというのだ。
白秋は、柳川藩御用達だった旧家の長男。子ども時代、母と人力車に乗って何度も南関を訪れた。家業の造り酒家で忙しい母と、里帰りの間だけはゆっくり過ごすことが出来た。
後に詩や短歌、小説と花開く白秋の才能は、南関町で培われた。
「お母さまと馬車で行ったよ」-「この道」のこの一節に、作曲家の山田耕筰(1965年、79歳で没、写真)は、激しく共感した。耕筰もまた母を恋う子だったのだ。
1925年、北海道から戻った白秋は「この道」を書き、2年後の1927年、耕筰に作曲を依頼した。
2人は1920年から共作を続ける盟友だ。白秋は、2人の代表作「からたちの花」を引き合いに出して、「『からたちの花』の妹です。『からたちの花』にも増した綾衣を織り与えて下さい」と書き添えた。(写真はからたちの花) (朝日新聞「うたの旅人」2011年7月2日号参照)
森麻季/からたちの花(1925年)
■生駒高原
最後はこの画像と映像。
九州・福岡に住んでいた頃家族で行った、宮崎県小林市にある、生駒高原。春の菜の花と秋のコスモスは圧巻だった(写真中はポピー)。
宮崎市内から小林、えびの高原方面に向かって、国道10号・268号線経由して車で70分程走ったところに生駒高原がある。うっかりすると通り過ぎそうな場所だが、間違いなく素晴らしい景色を堪能することができる。(ちなみに、宮崎道小林ICからは車で10分)
市内を一望する標高540メートル、霧島連山が背に広がる生駒高原は、雄大なお花畑。12万平方メートルの敷地に、春には菜の花が咲き誇り、さらに色とりどりのアイスランドポピーが一面をいろどる。そして秋になると、100万本ものコスモスが高原を埋め尽くす。
2015年10月『生駒高原コスモスまつり』