能登半島地震から1ヶ月

友人の住まいは全壊で、避難所暮らしです。


道がとにかくいたるところで損壊している。

と言われて、何日も経ってますけど。


どうなってるのやら?


国土交通省発表では


など。

工事開始が1月23日からでした。
早いとはいえない。

輪島市では、仮設住宅ができはじめてますが、申し込み4000件にたいして、数%です。


それにしても、避難所があまりにも過酷過ぎるようですね。

阪神大震災も1月のことでした。能登半島と比べると気候が違いますけど、寒かった。

祖父母は、両親が震災当日に祖父母宅にクルマで向かいました。連絡が全く通じないことから、とにかく向かったとのこと。
2日目までに大阪に連れてきました。丸1日かかってました。

阪神大震災の時、避難所にいた親族家族を震災が起きて5日目に私の実家に連れてきたことがありました。

東京都にいる私は
1日目、連絡不通
2日目、祖父母を連れてきたこと、神戸に住む弟からメールあり。
3日目に、必要なものを東京で購入して大阪へ
4日目に、祖父母宅と避難所へ
5日目に、親戚一家を大阪の自宅に連れてくる

でした。

親戚一家は、私の家に避難しましたが、伯母が亡くなったことから伯父は遺体安置場所にこれからの対応(いつどこで火葬できるかの連絡待ち)のことで、連日いってました。

ほかに友人が避難所にいました。先ずは支援金と寝袋から。
避難所から十数キロ歩くと電車に乗れましたが、何も持たずで避難してましたので、なかなかは動けない。精神的に動ける状態でもありませんでした。

阪神大震災の時、阪急電車が大阪から西宮北口まで、阪神電車が大阪から甲子園駅まで、震災の翌日から動きました。それが大きかったです。
約40Lくらいの登山用リュックに届ける物を詰め込み、移動のために折り畳み式自転車をもって連日、西宮・神戸に行きました。

東日本大震災>
広報部にいました。
東北全域はもちろんのこと関東、北信越にかけての弊社に関する情報収集、ならびにマスメディア対応。
マスメディアからの情報収集もしてました。
日頃、テレビ、新聞社とは、業界に関する情報交換、マスメディアからの質問を受けたり、弊社社員の出演依頼があったりで、関係構築がなされていました。
金曜日に地震発生から徹夜で情報収集についてました。

熊本地震>
熊本支店の支援委員メンバーでした。
本社拠点の運営・管理、支店移転・運営、資産管理をやってました。
いわゆるファシリティマネージャーでした。
いくつかの大手運送会社と独自のロジスティックを組み上げてましたから、すぐさまに対応しました。

4/14  夜に地震。社員と家族の安否・ライフラインの状況などを3時間で確認。
朝、始発で会社へ、そして支援活動始動。
15日の夕方までに支援トラック、東京を出発。
16日に福岡からも支援部隊が熊本入りの計画できるも、16日深夜にさらに大地震が発生。

→  東京を15日に出たトラックは、途中、博多などで待機しながらも日曜日までには熊本入りできた。
その後は、博多と大牟田に支援室を設け、物資だけでなく社員、家族らを避難所から大牟田、博多に連れてきて休息してもらうといった対応を実施した。

能登半島地震>
正月だった。
北陸に帰省された方、旅行に行かれた方、北陸地方の支店、従業員の状況チェックは、これまでになく時間を要した。
誰が北陸地方出身で帰省しているかどうかがわからない。旅行に行った従業員、家族もいるだろう。
なので、全従業員に対して安否確認を実施。

支店営業ができるかどうかの確認。
支店営業担当の本社部署は、2日から出社で
対応でした。

支援物資は、金沢支店留め
お取引関係支援は、現在進行形とのこと。


大きな災害ほど、現地からは情報が集まらない。
情報発信できないこと多数。能登半島地震でもそうでした。阪神大震災、東日本大震災でもそう。被災者は目の前でのことしかわからない。

被災地情報は、周辺から被災地に行くことで状況がよりつかめるものだと思います。
初動は、情報収集から。でも同時に動きだしもするでしょう。
空からどれほどに正確な情報が収集できるのか?
土砂が道路を塞いでいるくらいまで?
道路の亀裂は?

ならば、行くしかなかと。
だから、初動なのです。

72時間>
『現地の状況を把握したうえで、どの程度の人員や資材・機材が必要となるかを判断することが先決だからである。』

救急車は、そんなことしてますか?
連絡うけてから、必要な資材・機材を用意してから消防署を出発してるとお思いですか?

違いますよね。

実際には

緊急消防援助>
能登半島地震が起きて2時間半後、滋賀県からは約130名もの消防署隊員が金沢に向けて出発してました。
素晴らしい初動だと感動します。
正月ですよ、皆さんどうしてますか?
そんな気分の時でも、すぐに出動された消防隊員、自衛隊の皆さんには賛辞しかありません。
すぐに駆けつけられるように日頃から準備をされてきた。

でも

上層部はそうではなかった。
国土交通省、石川県は、能登半島の整備を怠った。
2004年に新潟で大地震がありました。
「道路啓開」といって、災害発生時に本格的に道路が復旧する前、緊急車両などを通行させるため、最低限のがれきや土砂の処理で救援ルートを設けることがなされます。
東日本大震災では、救助部隊が東京方面から被害の甚大な沿岸部に向かうため、内陸部に道路を確保し、そこから沿岸部に複数の道路で向かうことがなされます。
それが、能登半島ではなされていなかったことが、今回判明しました。

初動の遅さとは、それら防災計画の未計画・も含めての話です。
わかってからでは、遅かったのです。

残念なことに、奥能登の被災状況は、まだ全て把握できていないとか。