今はスポーツなどで精神論は否定されている。
科学的トレーニングにより効率的に身体が向上できるということが分かっている。
それによって昔ながらの精神論は却下される。
効率良いトレーニングこそ時間をかけずに能力を上げる最適な方法だから。
世の中は効率を求められる社会になっている。
そのためにデータが集められ蓄積される。
それによって最適な方法が決定され実行される。
効率的に社会が向上することになる。
音楽でも人間はこのような音階ならば喜ぶ、悲しむということが分かっている。
そんなデータをもとにいろいろな場面に合わせて最適と思われる音楽が作られる。
音楽だけではない。
絵画、小説、映画など今やデータにより作られていると言っていいくらいだ。
世の中の多くの人の行動、感情などがデータとして集められている。
そのデータに沿って目に見えるものから見えないものまで多くのものが作られるようになっている。
昔はステレオで音楽を聴く時に自分で低音や高音などの設定をして自分なりの音を作って聴いた。
それは今は一部の音楽マニアのものになっている。
今はこの音が一番いい音ですよ。
という決められた音でステレオなどが作られている。
つまり自分好みではなく作る側がこれが世の中の一般の人にはいちばんよい音ですよ
ということで作られている。
データがすべてであるという世の中になってきている。
データにより効率化され多くの人に良いだろうというものが作られる。
またそれが標準化される。
それが良いこととされている。
人間にとってもそれが楽ですよ
とささやかれている。
音楽でも緻密に作られているということはよく分かる。
しかし、それに物足りなさを感じることは世間の標準から外れていることを示す。
それでよいのだろうか。
それより物足りなさを感じなければいけないのではないだろうか。
人間は個人個人違っている。
それを意識したい。
多くの人のデータにより作られた多くの人にとって良いもの。
それが全てとは言えない。
2024/03/08
